31話 河郎之舍 游心帳
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サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユアガ買ヒテ來シチリ紙ゾコレハ 我鬼
游心帳には前期の物と後期の物とがある。そもそもは、僕が祖母に矢立を貰つたので、半紙を四つ折にして綴ぢた帳面を拵へ、游心帳と書いて懷にしてゐたのがはじまりでこれが前期の物、半紙二つ折の後期の物、後期の物といつても第二册目あたりからの物が碧童題とか衷平題とかなつて、碧童の筆で游心帳が游心帖、ゆうしんぢよう、ゆうしんじやうなどと變り、いつとなく僕の游心帳が芥川、碧童、遠藤などとの間で雜談のをりの歌や句、畫の用にまで利用されてゐたのである。河童と豚の見世物、明治二、三年洗馬に於いて二十人を容るるほどの小屋掛けにて瓢箪に長き毛をつけたる物を河童と稱び見世物となし興行せる者あり。見料大人と小人との別あり。豚も見世物となる。といつた種類の聞書を集めたり、豆菊は熨斗代りなるそば粉哉、などといふ獨稽古の俳句を書いてゐたものが前期の物に屬し、久米正雄の河童の繪まである賑やかな物は後期の物に屬するのである。長崎の長いちり紙に添へて半紙に楷書、紙でも下敷にしたかのやうに行儀よく書かれてゐる、サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユは、これは勿論游心帳に書いてあつた歌ではなく、『後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少くない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は、畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。即ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。芥川龍之介記』とある大正十四年九月の「改造」の「鄰の笛」、(鄰りの笛といふ題は僕が詩韻活法から拾つた、)大正九年から同十四年度に至る年代順の芥川と僕の五十句づつの句のなかにある、
長崎土産のちり紙、尋あまりなるを貰ひて
よごもりにしぐるる路を貰紙
といふ僕の句を思出させる芥川の歌、僕に游心帖時代を思はせる歌なのである。
僕は大正十二年の正月に右の足頸からさきを脱疽で失くなした。さうして、松葉杖にたよるやうになつてからは、
偶興
あしのゆびきりてとられしそのときは
すでにひとのかたちをうしなへる
あしのくびきりてとられしそのときは
すでにつるのすがたとなりにけむ
あしのくびきりてとられしそのときゆ
わがみのすがたつるとなり
かげをばひきてとびてゆく
といふ類の詩をつくりだしてをり、矢立は震災の直後祕露に行く遠藤に餞別として贈り、
思遠人、南米祕露の蒔清遠藤清兵衞に
獨りゐて白湯にくつろぐ冬日暮れ
などといふ句をつくつてゐる。後期の游心帳は意外にも九年十年十一年の晩秋で終つてゐる。これは僕の入院、さうして隻脚となる、半紙二つ折の物は松葉杖で歩くときには懷中からとびだし、義足で歩くやうになつて服になるといれどころに困る、といつた事情で自然消滅となつてしまつてゐたのであつた。
游心帳に殘つてゐる芥川の筆蹟を拾つてゆくと、
秋の日や竹の實垂るる垣の外
落栗や山路は遲き月明り
爐の灰にこぼるる榾の木の葉かな
野茨にからまる萩の盛りかな
これらの句のある帳面の表紙はとれてゐる。裏表紙には碧童刻の合掌の印が押してある。合掌といふことばは一と頃の芥川が手紙に使ひ、碧童またこのことばを珍重し印に刻むといふ時代であつた。僕はこの帳面のなかの子規舊蘆之鷄頭を見て、碧童に伴はれ子規舊蘆を見たこと、芥川に伴はれて瀧井孝作と共に主なき漱石山房を訪ねた日を思出した。
天雪の光まぼしも日本の聖母の御寺今日見つるかも
この歌は齋藤茂吉の歌ではないかと思つて人にたづねるとさうではないといふ。芥川が新聞の劇評を書かなければならず、帝劇の歌舞伎を見にゆくとき僕を誘つていつたが、一幕ずるけて喫煙室で僕と雜談してゐたをりに書いてゐたもの、歌のかたはらに木立の下の藁葺小屋に住む人を畫いてゐる。この帳面に碧童の鬼趣圖をみてよめる狂歌がある。この帳面の表もとれてゐる。
君が家の軒の糸瓜は今日の雨に臍腐れしや或はいまだ
笹の根の土乾き居る秋日かな
歌と句を並べ、秋日かなの筆のつづきか、芥川は一輪の菊の上にとまつた蜻蛉を畫いてゐる。蜻蛉はしつぽをあげて土の字を指してゐる。表紙は糸瓜の宿の衷平(碧童)の手でゆうしんじようとなつてゐる。
荒あらし霞の中の山の襞
この一句のほかに
うす黄なる落葉ふみつつやがて來し河のべ原の白き花かも 南部修太郎
いかばかり君が歎きを知るやかの大洋の夕べ潮咽ぶ時 南部修太郎
しらじらと蜜柑花さく山畠輕便鐵道の歩みのろしも 菊池 寛
と芥川が書いてゐる。この游心帳は綴ぢも全き物、ひかた吹く花合歡の下もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ、あらぞめの合歡あらじか我鬼はわぶはららにうきてざればむ合歡、雨中湯ヶ原ニ來ル、道バタ赤クツイタ柿ニ歩イタ等の僕のものあり、次の游心帖大正十年秋湯河原ニテに連絡する物である。
草青む土手の枯草日影 我鬼
曼珠沙華むれ立ち土濕りの吹く 我鬼
家鴨眞白に倚る石垣の乾き 我鬼
一層痩せて支那から歸つて中西屋にゐた芥川に招ばれて碧童と僕は、首相加藤友三郎がゐたといふ部屋をあてがはれてゐた。友を訪へば、「外面の暗い秋霖の長髮をなでてゐた」といふのは碧童のその時の句である。
山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉 我鬼
たかむら夕べの澄み峽路透る 我鬼
游心帳に書いてはないが、この二句も、時雨に鎖されてゐた三日間の僕らの動靜を多少は傳へてゐる隨筆(十年、十一月、中央美術)に收録してゐたものである。「將軍」は中西屋の龜さんの話でできたと芥川は言つてゐた。
碧童の歌には、峯見ればさぎりたちこめ友の居る温泉處に來しいづこ友の屋、といふのがあつた。