34話 鵠沼・鎌倉のころ 鎌倉(1)
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鵠沼の歸りには、はがきに地圖を畫いて、六郎茶屋のすぐそばと書いてゐる終戰後の叔父を訪ねて、ゆつくり寢てくる考へで米三合を持つてゐた。鎌倉は、これはまた大正十二年の鎌倉であり、汽車から電車に變つてゐることも忘れてゐて、歸りには叔父に笑はれた。
大正十二年の夏、私は右の足首をとられたあとの弱つたからだで、商賣をやめてしまつてゐた平野屋(京都の平野屋の支店)で一つ座敷に、芥川龍之介と寢起きをともにしてゐた。まだ、死ぬ話をしようやなどといふ芥川ではなかつたので思ひだすことはほのぼのとしてゐて明るい。
たむしにアルコールの話や、一つ蚊帳の中に寢てゐて、二人とも布團をころがりだしたから、額と額をぶつつけて目がさめて、同時にごめんごめんといつてゐた話は、芥川がなにかに紹介をしてゐるが、今日からみればあの頃の時代はよかつたと思ふ。それが幾日つづいてゐたことか、私達が朝飯を食べ終はるか終はらぬ時刻には、いつも中央公論社の使ひのにこにこしたこどもが、せいぜい日に二、三枚の原稿をとりに縁さきに顏をだしてゐた。すると芥川は、これで海にでもはいつておいで、晝までに書いておくからといつて、そのこどもに、五拾錢の銀貨を一つ渡してゐた。毎日はたからみてゐて、渡すはうも、貰ふはうも、たのしさうにみえてゐたのが目にうかんでくる。芥川が書いてゐたのは、岩波の芥川龍之介全集の總索引で調べると「春」だが、五拾錢あれば海にはいつて、天丼を食べてもまだのこる時代の金のことから、金の話をすると、いつであつたか晩翠軒で買物をしたときに、芥川は、きざですがといつて百圓札をだしておつりを貰つてゐた。それから自決する一ヶ月ほど前に、泉鏡花がのみにくるところだといつて、私を田端の近くの神明町の待合につれこんだときにも、勘定にきざだがといつて、百圓札でおつりをとつてゐたが、いまはお互ひに勘定にきざだがといつてだせる札を、誰れも持つてゐない娑婆に生きてゐるやうだ。皆がきざになつてゐるせゐだらう。
五拾錢玉のにこにこしたこどものことを、もう、八、九年前にもなるが、その頃からいつて、十七、八年前のこどもが、まだ社にゐるかどうかを、私のところにきてゐた、中央公論社の人達に聞いてみたら、皆、興味で早速調べたらしいが、あとで、誰れも同じやうに、いまでも社にゐるやうです、雜誌のはうの者ではありませんとはいつてても、その人を紹介することはしてゐなかつた。
昨年の暮であつたか、この話を、新潮社に三十年勤めて、新に東西社をはじめた小野田通平に話したが、通平はにつこり笑つて、私のはその逆です、とられるのです、ふうのわるいのがゐましてねえ、と、次ぎのやうな通平の昔話をしてくれた。芥川が生きてゐれば今年〔昭和二十三年〕は五十七歳、通平の歳はそれよりもなにほどか若い。
――私が十七歳のとき東京にきて、はじめて新潮社で働いたのですが、風葉の原稿をとりに使ひにやらされてゐました。毎日、社をでるときに、きまつて數へて壹圓札で五枚渡されるのです。それを財布にいれて紐を首にかけて懷に、朴齒の下駄でてくてく、牛込から戸塚の家まで歩いて通つたものです。向ふにいつて、原稿が一枚できてゐれば一圓、二枚できてゐれば二圓と置いて貰つてくる、その原稿がなかなかできてはゐず、それをまた玄關にふうのわるいのがゐて、いつも原稿を渡さずになんとか金を捲きあげようとかかるのですが、それに三度に一度はついどうしてもひつかかつたものでして、さうすると社に歸つて叱られるし弱りました、と、まるでいま牛込から戸塚をまはつて高圓寺の私の家まで、歩いてでもきたやうな顏つきで通平はいつてゐた。私は、東北文學に連載されてゐた、風葉を主として自身の文壇生活五十年に及ぶ囘顧を書いた、中村武羅夫のものを讀んでゐたから通平には同情しながらも、通平のふうのわるいのがゐましてねえといふ話に、甚だ愉快を感じた。壹圓札と五拾錢銀貨、いづれも昔のたのしさである。通平は、風葉の原稿料が一枚一圓で、當時の五圓はたいしたもの、五圓あれば小栗風葉先生がそのふうのわるい人達をつれて、すぐ近くの新宿の遊廓に遊ぶとか、六區といはれても、その六區がなんだか、通平にはわからなかつた六區にいくとかしたものだともいつてゐた。
芥川の句に、
再び鎌倉平野屋に宿る
藤の花軒ばの苔の老いにけり
といふのがある。菅忠雄が撮つてくれた私達の朝飯のときの小さい寫眞を、今日になつてみると、藤の花軒ばの苔の老いにけりの芥川の顏は、大層いろめかしくみえるが、いろめかしくみえるのは、支那麻製品の布地を、浴衣に仕立てて着てゐるせゐかも知れない。昭和五年に岩波が出版した「大導寺信輔の半生」の表紙には、芥川が死んだときにまとつてゐた着物の柄の一部をとつて寫しておいたが、その浴衣なのであらう。
芥川は、僕は、はじめ君といつしよの暮らしは窮屈だと心配したが、安心したよと私にいつてゐた。岡本一平は一平で、ほつとしたらしい顏つきで、芥川君ていい人だねえ、と私に小聲でいつてゐたが、軒ばの苔の老いにけりで、芥川もかの子も、それに遠藤、うさぎや、寫眞を撮つてくれた菅忠雄もいまでは皆死んでゐる。(私はこの隨筆を二十三年の小説界に載せたのだが、書きなほしてゐる二十九年の今日までには、一平も、また、當時、宿が平野屋にきまるまでの二、三日の間、私を家においてくれてた久米正雄さへも死んでしまつた、)人々の生涯は、その頃、まだ幼稚舍の生徒であつた岡本太郎が、大事に壜にいれて持つてゐた、アルコール漬の小さな鮫の子にも似てしまつた。
私達の部屋の隣りの離れには、偶然、岡本一平夫妻と太郎がゐたのだ。
芥川が、一時東京に戻つてゐる留守の間、一人で淋しがつたりしてゐないやうに、もでるになることを芥川さんにたのまれましたからといつて、かの子は、いつか、婦人公論かなにかでみたが、谷崎潤一郎も着てゐた、淺葱の地色に烏が大きくあしらつてある浴衣を着てポーズをしてくれたことがあつた。かの子は毎日、一時間でも二時間でもぶつとほして姿勢を崩さずにゐた。大體、私達油ゑのぐをいぢるものは、もでるに對して、二十分畫いて十分間の休みといふやうにして、描いてゆく習慣がついてゐるやうであるが、かの子は、私が十分の休みを待つてたばこを吸ふと、私はいま海にはいつてゐるので肌が荒れてゐるが、それがいやなのかとか、彼女に關した流聞そのことをいつて、それでいやなのかとか、何事もねほりはほりなので、ながい病院生活のすぐ後で氣力のなかつた私には、その應答で隨分困りはてた。谷崎の初期の小説に屡々書かれてゐる女で、芥川が保證人になつてゐた活動女優、今日のことばでいへば映畫女優、この女も、芥川の話で、わざわざ谷崎にこしらへて貰つたと聞いた黄色い布の着物で、もでるになつてくれてゐたが、氣のいい女でも、ぢつとしてゐることは退屈で、畫のもでるは苦手らしくて怠けてゐたが、おかげで私のはうはかの子に、なぜ、ああいふ下劣な女とつきあふのかと叱られた。面くらつた私は、小言は芥川にいふべきであらうと思つてゐた。後に、かの子が小説を書いて、矢つぎばやに發表するやうになつたときに、私は、二時間でも三時間でも姿勢を崩さずにポーズのできるかの子が腰を据ゑたらばと思つたものだ。
芥川が東京に戻つてゐる間に、かの子も東京にでた日があつて、なにも土産になるものがなかつたから、東京驛で買つてきたといつて、腹を押すとピイピイいふゴム人形をくれたことがあつた。松葉杖でもまだ一人歩きのできなかつた私は、ときどきその人形の腹を押しておもちやにしてはゐたが、東京へ戻る日がきたとき、床間の隅にそれを置いて歸つた。私達が引上げた五日目が九月一日の震災であつたが、平野屋の家は潰れ、岡本かの子達はまだ平野屋にのこつてゐたと聞いて、私は、私達がゐた部屋も潰れ、床間の隅に置いてきたゴム人形がピイと泣いたか、かの子の耳に聞こえはしなかつたかと一寸困つた氣がした。私は、ゴム人形を置いてきたのは、かの子にすまないやうな氣がして、新潮社の人がくれた「鶴は病みき」も讀んではゐない。私がまだ松葉杖でも歩けないうちに義足をこしらへて持つてて、一日、それをつけて便所まで歩いてみようと、よたよた歩いてゆくと、廊下にでてゐたかの子がみて手を叩いて喜んでくれた。また、芥川に永見と馬車(五圓で乘せて貰へた明治の名殘りの黒塗りの馬車)に乘せて貰つてゐたら、水浴びの歸りのかの子に出會つたが、かの子は兩手を高くあげて萬歳といつたので、馬車の上の私達が皆てれてしまつたことがあつた。ああいふ童女のやうな感情を持つた人も、昔の人であらうか、いつか、日本小説の繪物語で、「鮨」を讀んだら、昔を思ひだして、かの子の太郎、太郎と呼んでゐたその呼聲のアクサンが耳に聞えた。
芥川に「河童」を書かせた女の名をいつて、その女と芥川との間に、關係があるとにらんでゐるがと大正の十二年に、私を問ひつめ、狼狽させたのがかの子である。岡本かの子は、さういふことでも私の記憶にいつまでものこる女だ。
平野屋から貰つて歸つた祗園だんごの紅提灯は、震災のときに大層役に立つた。
鎌倉の叔父は、朝海邊に散歩の途中私に教へてくれた。
「いい女といい庭をキープ・アップするのには金がかかるのだ。」
さんがさんじふにちといつて、三月三日には蓬餅をこしらへ、今年は寒いので蓬がこまいの、暖かで大きいの、などと語りあつてはゐても、昔から地には雛祭りはなかつた。山のいりつこの、さういふふしぎなところに、二十ヶ月ほど暮らしてゐるうちには、その日その日の新聞を、みないでゐることも平氣になつてしまつてゐた。東京に戻つてまる三ヶ月目で、家にも新聞をいれて貰ふことにしたら、久振りの新聞には、らんまんの春を待つ雛人形が、百貨店に、人形店に、華やかなデモをくりひろげてゐるのを載せてゐる。一番高價なのは、京都物十五人揃ひで、なんと六萬圓と書いてある。
なんと、お雛樣は家にもあつたがと、私は家の雛人形を思ひだした。家には、男の子も、女の子もゐないが、お雛樣も幟もあるにはある。
私の家の雛人形は、いへない萬圓のお雛樣だ。
私が義足で歩けるやうになつて、父の家をでて、アパートで暮らすやうになつてから、芥川のところの義ちやんが、いつもいつしよに錢湯にいつてくれてゐたものだが、その義ちやんに、今度くるときに、桃の枝を買つてきてとたのんでおいたら、桃の枝といつしよに持つてきてくれたお雛樣だ。
お雛樣には桃の花をかざらう。さういふ心がけの人にはといつて、桐の小箱のなかに、もみでつつんである奈良人形の雛をくれたのは、芥川か、奧さんか、芥川から貰つた雛とだけで、獨り者のときも、女房をもつてからも、一度としてさういふことを考へたこともなかつたが、芥川も死んで二十一年、今年はお雛樣に桃の花をかざらうと思ひ、そんなことが頭にうかびあがつてきた。(昭和二十三年)
昔、夏目漱石が、文展の畫の評を新聞に書いたといへば、人を驚かすかも知れないが、往年の二科會で、佐藤春夫の畫をみた人も、少なくなつてしまつたであらう。
漱石の批評は、記憶といつても、僕の記憶には、牛に松のある畫、坂本繁二郎の「うすれ日」であつたと思ふが、それを、自分は門外漢で、畫のことはよくはわからないけれども、坂本氏の畫を見て立止つてゐることが、紳士として一向に恥づかしくはない、といつてゐた、ただそのことだけがのこつてゐるにすぎない。
瀧井君と僕は、芥川の案内で、一度、漱石死後の書齋を見たことがあつた。書齋の次ぎの間は、佛間になつてゐたやうに思ふが、そこの鴨居のうへにあつた油彩、安井曾太郎の、十號程の風景畫を見ながら、芥川は、「夏目先生は、自分には、丁度このくらゐの細かさの畫がいいといつてゐた」と、教へてくれた。
その畫は、大正四年に、三越を會場とした二科第二囘展に、特別陳列としてならべられた、四十四點の滯歐作のなかの一つで、終戰後、石井柏亭が書いてゐた「安井曾太郎」には、〔安井のこの時の陳列には四十五年西班牙旅行以後のものが多くを占め、四十二年フロモンヴィルの作であるところの「田舍の寺」などの、ミレかピサローかの感化を受けたようなものの僅かを交へたに過ぎなかつた。そのミレ、ピサロー影響からセザンヌの感化を受けたものへの過渡期の諸作はすべてこれを省いてあつた。〕といふ一節があるが、僕はなんとなく、〔省いてあつた〕といふその部類にあてはまるもののやうに覺えてゐる。
「君。大觀は、僕に繪かきになれといふんだ。さうすれば、自分が引きうけて、三年間みつちり仕込むで必ず者にしてみせる、といふんだ。」
「大觀は、墨を使へる者が、いま、一人もゐないといふんだ。もつともさういふ自分もまだだといつてたがね、」
「君。大觀といふ男は、實に無法な男だよ、藝術は、われら藝術家に於いては、とかいつて話をしてゐるから、なんのことかと思つてると、畫や繪かきのことだけをいつてゐるので、小説のことは、はつきり、小説とか、小説道では、といふんだ。」
などと、芥川は、大型の人である横山大觀の話のいろいろを、愉快な面もちで聞かせてくれたことがあつた。
芥川は、どこぞの葬儀でみた、大觀の香奠の包みかたにも感心してゐたが、僕を輕井澤に招んだときに、僕が拂はなければならない宿屋の茶代を、自分の金で、大觀式の包にこしらへてくれた。芥川は、お線香のやうにくるくると卷くのだといつてゐたが、セロファン包みのあめんぼうに似た形である。
「僕も夏目さんの歳まで生きてゐたならば、夏目先生よりは少しはうまくなるかなあ、ねえ、君、」
かういつたことをいつてゐた、以前の芥川ではなく、
「君、ピカソの歩む道は、實に苦しいよ、」
かういつて話しかけた芥川は、畫帖にいくつかのばけものを描きのこしてゐた。氣忙しく、あちこちの人達に描きのこした河童の畫とは異つて、芥川の風貌を傳へるものであらうが、天壽を全うし得ない人の畫かもしれない。
先月は伊豆にいつて、蓮臺寺で、山桃といふものをはじめてみた。通りがかりの自分と同じ年ぐらゐの地の女が、おいしいものだとをしへてくれたのに食べてみなかつた。思ひだしてちよつと食べてみればよかつたと思つてゐるが、あとのまつりである。
今月は碓氷峠に用事があつて、輕井澤にゆかなければならなかつた。いまは、車もないといふので、隻脚義足が心配になつたが、岩手正法寺の山の中にゐたので、三キロメートル程度の山路には堪へられると思つた。しかし、念のため、途中松井田でおりて、岡田さんのところに一晩泊めて貰ひ、山羊の乳をのみ、たまごを食べ、大いに氣力を養つてから輕井澤にいつた。熊野神社の上信國境と彫つた石の前で、昔、芥川と堀君との三人で、力餅を食べながら眺めた景色に用があつたのであるが、景色もなにも昔の夢であつた。私は峠の上で、昭和六年にも、同じ用事で、車でのぼつて無駄足をしたのを、忘れてしまつてゐた自分のもうろくが淋しかつた。
芥川の宿であつた、つるやに二晩泊つて歸つてきたが、畫のはうのスケッチといへば、室生さんのところの庭だけであつた。つるやのおやぢさんは珍品を持つてゐた。龍之介、白秋自畫像の一幅である。おやぢさんにそれをやつた室生さんの話では、室生さんが愛の詩集をだしたときの、記念會でのよせ書で、二十七年前のものだといふ。
芥川のことはさておき、「詩と音樂」に私の拙い詩をのせてくだすつた、北原さんの自畫像に、私はすこし感慨があつた。昔、白衣(芥川龍之介の肖像)を出品してる二科會の會場で、そのころはまだ松葉杖で歩いてゐた私は、芥川に紹介されて、北原さんにいろいろ話しかけられても、松葉杖で歩く努力の疲れでろくろく御返事もできなかつたのだ。まつくろでまる顏の、北原さんのやさしい目を思ひだして、もう一度、お目にかかつておくべきであつたと悔んだのである。(昭和二十三年)
註「白衣」芥川は、白衣といふ畫題をつけて、びやくと讀まないで、はくいと讀んでくれたまへ、處士といふ意味があるのだといつてゐた。
「藪の中」について