二つの絵 芥川竜之介の回想

36話 鵠沼・鎌倉のころ 鎌倉(3)

4,469字 約9分 2017年7月24日 公開

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 私のところにある芥川さんの本は、芥川さんから貰つたり、本屋さんから貰つたりしたものばかりで、買つたといふのは、大正六年に、阿蘭陀書房が出版した、羅生門の一册、それきりです。芥川さんの本は、いろいろな形で、あちこちから、隨分と出てゐて、私のところにあるのだけでも、積重ねれば、背丈を越えてゐます。が、そのなかで、私は羅生門が、――大道の古本屋にあつたのを、三十年の昔、五十錢で買つたこの羅生門の一册が、そのなかのどれよりも、一番なつかしいのです。

 今日、芥川さんの本として、珍重すべき點から申しますと、同十四年に、新潮社が出版した、現代小説全集の第一卷である、芥川龍之介集を、あげなければならぬのかもしれません。これには、お時儀のところですが、五百八十三頁の第一行、お孃さんは十六か十七であらう。いつも銀鼠の帽子をかぶつてゐる。のところの、いつもの次ぎに、銀鼠の外套に、の六字、十四行目、もし鎭守府司令長官も頓死か何か遂げたとすればこの場合は、の、ばとこの間に、ダッシュを、芥川さんの手で、書きいれてあります。大正十五年四月十五日に、自決すると私に告げた、後のことでありますが、芥川さんが私のゐたアパートにきて、部屋にはいるなり、君、龍之介集を一寸といふので、とりだして渡すと、ペンをとつて、この書きこみをして、全集のときに訂正を、といつてゐたものです。それで、本來ならば、今日、この本のはうが、羅生門よりは芥川さんを身近かにかんじられさうなものなのですが、中扉に、君看ずや雙眼の色、語らずして愁ひ無きに似たり、次の紙には、夏目漱石先生の靈前に獻ずと刷つてある、阿蘭陀書房版の羅生門のはうが、私には、芥川さんの呼吸を身近かにかんじられてなつかしいのです。

 一昨年の秋、私はたまたま昔の阿蘭陀書房、即ち今日のアルスの北原鐵雄さんに、あなたはうちで出した芥川のものを持つてゐるさうですねえ、といはれて、その北原さんに、羅生門を出されたのは、あなたのおいくつのときでしたと申しましたが、北原さんの年齡、それは必ずしも羅生門のためばかりのわけではなく、芥川さんの始めと終りの二度、芥川さんが生涯で一番元氣であつた時と、おそらくはその中間を空白でゐて、また、一番へこたれてしまつてゐた時とに會つてゐる、北原さんのまはりあはせを承知してゐて、その年齡をたづねたのですが、それはそれとしておきまして、北原さんのさつぱりとした昔話は、少くとも、羅生門出版の由來については、淡々として話をされてゐたが、その因縁は全くもつて初耳のことでありましたから、今日はそれを一寸、みなさんに、お傳へ致しておかうと思ひます。

 芥川さんの處女出版、羅生門は、芥川さんが數へ年二十六の時のものであります。北原さんは、その時二十七であつたさうです。北原さんの話では、私はそのときまで、芥川といふ名さへ知らなかつたものです。私は與謝野鐵幹から、今度、芥川といふめづらしい小説を書く男がでた。是非その男の本を出すやうにといふ手紙を貰つて、その鐵幹の手紙で田端に行つて芥川に會つたものですといふ、まことにあつけない話でありますが、鐵幹與謝野(ひろし)の手紙でもつて、芥川さんの處女出版が、阿蘭陀書房の手で行はれたといふことは、文壇のふるい人達にも、いや、死んでゐる芥川さんにとつてさへ、存外、初耳のことではなからうかと思はれるのであります。但し、この話には、話をありのままに聞かせてくだすつた、北原さんのためにも、どうか、當時の文壇といふもの、また本屋といふもの、また、北原さんが、その兄さんの北原白秋のために、本屋を志されたのかと思はれる人で、當時は歌や詩のはうの本を主に出してゐて、小説本の出版は頭になかつたらしい點をも、お考へにいれておいていただきたいものです。

 羅生門についての、北原さんのあつけないこの話は、芥川さんの現はれかたが、如何にめざましくあつたかといふことの説明にもなりませうが、なほつけ加へて申述べますと、私は北原さんが鐵幹の手紙で芥川さんを田端に訪ねたといふことを聞いて、ひそかに、鐵幹の手紙ならば、それは、スゴかつたらうといふ、面白さをかんじたのであります。と申しますのは、私は以前、伊上凡骨といふ奇骨ある彫師、木版のです。その凡骨の伜に、輿謝野先生はこれこれしかじかの事をされたといふが、それは本當の事でせうかと、その眞僞を正されたことがあるからであります。事の眞僞は、鐵幹その人に全く會つたこともない私には、答へやうのない意外な話であつたのですが、凡骨の伜は、輿謝野さんが、若い時に所謂志士としてあるところで活躍したその昔話を、凡骨に聞かせた、聞かされた父の凡骨がまた家の者にそれを傳へたのを、こどもの時に小耳にしてゐたが、後に輿謝野さんに接してみると、その面差からは、輿謝野さんが左樣なはげしい眞似をされたとは思はれぬのがふしぎで、私にたづねてゐたものです。ともあれ、鐵幹輿謝野寛が、たのまれもせぬであらうに、芥川さんの小説本を出版するやう、北原さんに手紙を書いてゐたといふことは、大層面白いことでありませう。輿謝野一派の雜誌であつた「明星」の表紙の文字は伊上凡骨の彫りと思つてをりますが、この凡骨には、私も芥川さんのものの本のときには、厄介をかけてをりましたものです。

 今日の話はこの邊で終りますが、夏目漱石先生の靈前に獻じたその最初の本の羅生門の扉に、君看ずや雙眼の色、語らずして愁ひ無きに似たりといふことばをはさみ、さうして、漱石先生の書いた風月相知るの額を座敷にかかげてゐた、數へ歳二十六の芥川さん、三十六歳で漱石先生のその風月相知るの額の前にうなだれて自決を告白するあはれさのなかにも、なほ、恥ぢるのは、夏目先生に對してだけであるといつてゐた芥川さんの面目を知つてゐて、その作品を讀まれたいと思ひます。

 阿蘭陀書房版の羅生門には、無限のなつかしさがあるのであります。

(ラジオ東京にて)

 昭和二年、久米正雄が製作した映畫のなかに、死ぬ前の芥川龍之介のものがある。それを、當時のものは一秒に十六コマであるが、今日のものは二十四コマと教はり、芥川龍之介の死後、田端の芥川の家で大勢の人達といつしよに見た時から數へると、二十六年ぶりになるが、思ひがけず岩波映畫製作所で再び見る機會を得た。岩波書店では、その映畫に登場してゐた時には、數へ歳八つと三つの比呂志、也寸志の兩君、それに行年何歳かであつた僕との三人に、昔の古いフィルムを寫してみせ、その見てゐるところを撮影して、短かすぎるフィルムに後をつけてのばしたものを作り、地方の講演會に使ふものの一つにしようといふのであつたが、芥川龍之介が映つてゐるフィルムといふのは、「パパ木登りをしよう」「小穴君たまにはトランプもいいね」のほんの僅か二た場面のものである。

 映畫に現はれる芥川は、誰れもがなつかしむ、颯爽たるおもかげはみせずに、世にも悲しい顏で出てくるのを豫かじめ覺悟でゐたが、「パパ木登りをしよう」といふ、覺えのなかつた傍若無人のその字幕には、僕は驚きもし、不服であり、得心できないことであつたから、その場で、芥川のところでは、當時、養父も養母も、伯母さんも、僕ちやん(比呂志君)までも、芥川を“龍ちやん”といつてゐたもので、芥川家はパパ、ママなどといふハイカラさの無い家であつたのだから、字幕は改むべきであると指摘して、比呂志君の同感を得たが、岩波の人は、龍ちやんではいまの人には通じないといつてゐるだけであつた。僕は暑さと不愉快で、映畫には、岩波のK氏の解説が録音されると聞いてゐたことも忘れて、そのときは、さうか、やんぬるかなで歸つてきてたが、その七月十三日からは、パパと龍ちやんが、頭のなかにくすぶつてて困つてゐるのである。

 僕は今日でも、字幕のパパを龍ちやんに改めるか改めないかは、岩波書店が、記録映畫として持つてゆくか、それとも商業映畫に墮して持つてゆくかの境だと思つてゐる。龍ちやんとパパとの相違が、存外いまの人にすぐ通じて、芥川龍之介全集の本家の、岩波の人には通じないのだとも疑つてゐる。(昭和二十七年)

「芥川龍之介」讀後

 大正十二年の夏を鎌倉の平野屋ですごしてゐたときに、離座敷にゐた岡本かの子に、芥川さんと何何さんとは關係がありはしませんか、わたしは芥川さんに會ひたくて、前に何何さんに紹介してとたのんだのですが、何何さんは、芥川さんはわたしの紹介がなければ、女の人には會はないといつてました、何何さんがさういふことをいつてるところをみると、わたしには、確かに關係があると思はれます、と、かの子のねばり強さで詮議をされたときには困つたが、「芥川龍之介」が文學界に載りはじめたときに、宇野さんの文章で、芥川の「早業」が書かれてゐるのをみたときも困つた。宇野浩二の奴、困つた奴だと思ひながら續きをつづけて讀んでゐるうちに、話はいつか芥川の作品についての感想批評に移つてゐた。それが僕のやうに、芥川の書いたものに對して、批評ぬきであつたものには、いい手引になつた。いちいちもつともと頭をさげた。

 が、生徒といふものは、教師の顏をみながら、えてしてくだらぬことを考へてゐるもののやうで僕もまたその例にもれない。

 宇野さんは、芥川の木のぼりの映畫を、(さて、映畫が開始されると、すぐこの陰氣な暗い風景があらはれ、「おや」と思つてゐる間もなく、平屋の家の屋根の上に、頭から、肩から、しだいに姿をあらはしたのが芥川だ。やがて屋根の上に全身をあらはした芥川は「ぱつと兩手を左右に開いたかと思ふと、目にもとまらぬ早さで、枯木のやうな樹木の枝に飛びつき、兩手で枝をにぎると殆んど同時に飛鳥のごとく、股をひらひて、木の股に兩足をかけた」と説明してゐるが、芥川は下からのぼり、樹の枝をつたはつていつて手摺を跨いで、二階の部屋にはいつてゐるのだ。大體氣味のわるい、さうして、一秒に十六コマといふ動作がぎくしやく映る昔のフィルムだから、みる人に錯覺をおこさせる代物だが、宇野さんの頭にもさう逆に映つてゐたのが面白かつた。その映畫のフィルムは芥川の家に保存されてゐるであらうし、岩波書店にもあつて、僕は田端でみてから廿六年ぶりで去年また岩波でみせてもらつてゐる。

 宇野さんとは、「秋山圖」の趣向をとつた本は、芥川が僕にくれた甌香館集の補遺畫跋のなかにある記秋山圖始末であらうことや、「馬の脚」について當時の、いろいろのながい話と事情などを話合つてみたいと思つてゐるが、芥川に紹介され、瀧井君に紹介されてゐても、どういふものか、宇野さんとはまだいつもお互にお時儀だけに終つてしまつてゐる。

 芥川が、宇野がといつて、宇野さんの話をするときの、宇野がといふことばの調子には宇野さんに對する愛情があつたものだ。宇野さんも「芥川龍之介」のあとがきを、涙をこぼしこぼし書いてゐたことであらうと思つてゐる。(昭和二十八年六月)

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