我楽多玩具

1話 我楽多玩具

1,846字 約4分 2008年12月18日 公開

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 私は玩具(おもちゃ)(すき)です、幾歳(いくつ)になっても稚気(ちき)を脱しない(せい)かも知れませんが、今でも玩具屋の前を真直(まっすぐ)には通り切れません、ともかくも立停って一目(ひとめ)ずらりと見渡さなければ気が済まない位です。しかしかの清水晴風さんなどのように、秩序的にそれを研究しようなどと思ったことは一度もありません。ただぼんやりと眺めていればいいんです。玩具に向う時はいつもの小児(こども)の心です。むずかしい理窟なぞを考えたくありません。随って歴史的の古い玩具や、色々の新案を加えた(ぜい)な玩具などは、私としてはさのみ懐しいものではありません。何処(どこ)の店の隅にも転がっているような一山百文(ひゃくもん)式の我楽多玩具、それが私には(ひど)く嬉しいんです。

 私の少年時代の玩具といえば、春は紙鳶(たこ)、これにも菅糸(すがいと)()げる奴凧(やっこたこ)がありましたが、今は(すた)れました。それから獅子、それから黄螺(ばい)。夏は水鉄砲と水出し、取分けて蛙の水出しなどは(ひど)く行われたものでした。秋は独楽(こま)鉄銅(かねどう)の独楽にはなかなか高価(たか)いのがあって、その頃でも十五銭二十銭ぐらいのは珍らしくありませんでした。冬は鳶口(とびぐち)(まとい)、これはやはり火事から縁を引いたものでしょう。四季を通じて行われたものは仮面(めん)です。今でもないことはありませんが、何処の玩具屋にも色々の面を売っていました。仮面(めん)には張子と土と木彫の三種あって、張子は一銭、土製は二銭八厘、木彫は五銭と決っていましたが、木彫はなかなか精巧に出来ていて、槃若(はんにゃ)仮面(めん)などは凄い位でした。私たちは狐や外道(げどう)仮面(めん)をかぶって往来をうろうろしていたものです。そのほかには武器に関する玩具が多く、弓、長刀(なぎなた)、刀、鉄砲、兜、軍配(ぐんばい)団扇(うちわ)のたぐいが勢力を占めていました。私は九歳(ここのつ)の時に浅草の仲見世で諏訪法性(すわほっしょう)の兜を買ってもらいましたが、(しころ)の毛は白い麻で作られて、私がそれをかぶると背後(うしろ)に垂れた長い毛は地面に引摺(ひきず)る位で、外へ出ると犬が(くわ)えるので困りました。兜の鉢はすべて張子でした。概して玩具に、鉄葉(ブリキ)を用いることなく、すべて張子か土か木ですから、玩具の(こわ)(やす)いこと不思議でした。槍や刀も木で作られていますから、少し打合うとすぐに折れます。竹で作ったのは下等品(かとうひん)としてあまり好まれませんでした。小さい者の玩具としては、犬張子、木兎(みみずく)達摩(だるま)、鳩のたぐい、一々数え切れません、いずれも張子でした。

 方々の縁日には玩具店(おもちゃや)が沢山出ていました。(やす)いのは択取(よりど)り百文、高いのは二銭八厘。なぜこの八厘という端銭(よせん)を附けるのか知りませんが、二銭五厘や三銭というのは決してありませんでした。天保銭(てんぽうせん)がまだ通用していた(ゆえ)かも知れません。うす暗いカンテラの灯の前に立って、その縁日玩具をうろうろ(あさ)っていた少年時代を思い出すと、涙ぐましいほどに懐しく思われます。

 私の玩具道楽、しかも我楽多玩具に趣味を()っているのは、少年時代の昔を懐しむ心、それがどうも根本になっているようです。私が玩具屋の前に立った時、()ず眼につくのは旧式の我楽多玩具で、何だか昔の友に出逢ったような心持になります。実用新案の螺旋仕掛(ねじじかけ)などには何の懐しみを有つことが出来ません。随って小児にまでも頭脳(あたま)が古いと(あなど)られますが、どうもこれは趣味の問題ですから()むを得ません。旧式の張子の仮面(めん)などを手に()ってじっと眺めていると、ひどく若々しい心持になる時と、何とはなしに悲しくなる時と、その折々に()って気分の相違はありますけれども、いずれにしても、その玩具を通して少年時代の夢を忍ぶことは、私に取っては嬉しいことです、(たま)らないほどに懐しいことです。大人でないと笑われても、私はこの年になるまで、我楽多玩具と別れを告げることは出来ません。この頃は少しばかり人形を貰い集めていますけれど、これは道楽の余業で、ほんとうの道楽は一山百文式の我楽多玩具にあること勿論です。しかし時代の変遷で、その我楽多もだんだんに減って来るので困ります。大師(だいし)達摩(だるま)雑司(ぞうし)()(すすき)木兎(みみずく)亀戸(かめいど)浮人形(うきにんぎょう)、柴又の(くく)(ざる)のたぐい、(みん)な私の見逃されないものです。買って来てどうするという(わけ)のものではありませんが、見るとどうも手が出したくなります。電車の中などでも薄の木兎などを(かつ)いでいる人を見ると、何だか懐しくなって、声をかけてみたいように思うこともあります。

 こういう意味ですから、私の道楽はその後何年()っても進歩するはずはありません。根が研究的から出発しているのでありませんから、いわゆる「通」になるべきはずはありません。しかし我楽多玩具に対する私の趣味は、年を取るに随ってますます深くなるだろうと思っています。

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