木曽義仲論

3話 木曽義仲論(3)

8,171字 約16分 1999年1月30日 公開

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     二 革命軍

頼政によりて刺戟を与へられ、更に以仁王の令旨によりて挙兵の辞を与へられたる革命軍は、百川の旭の出づる方に向つて走るが如く、刻一刻により、平氏政府に迫り来れり、而して此焦眉の趨勢は遂に、平氏政府に於て福原の遷都を喚起せしめたり。請ふ吾人をして福原の遷都を語らしめよ。何となれば此一挙は、入道相国が政治家としての長所と短所とを、最も遺憾なく現したれば也。

彼は、一花開いて天下の春を知るの、直覚的烱眼を有したりき。而して又彼が政治家としての長所は、実に唯此大所を見るの明に存したりき。吾人は、彼が西海を以て其政治的地盤としたるに於て、彼の家人をして諸国の地頭たらしめしに於て、海外貿易の鼓吹に於て、音戸の瀬戸の開鑿に於て、経ヶ島の築港に於て、彼が識見の宏遠なるを見る、未嘗て源兵衛佐の卓識を以てするも武門政治の創業者としては遂に彼の足跡を踏みたるに過ぎざるを思はずンばあらず。(固より彼は多くの点に於て、頼朝の百尺竿頭更に及ぶべからざるものありと雖も)見よ、彼は瀬戸内海の海権に留意し、其咽喉たる福原を以て政権の中心とするの得策なるを知れり。彼は南都北嶺の恐るべき勢力たるを看取し、若し、彼等にして一度相応呼して立たば、京都は其包囲に陥らざるべからざるを知れり。而して彼が此胸中の画策は、源三位の乱によりて、反平氏の潮流の滔々として止るべからざるを知ると共に、直に彼をして福原遷都の英断に出でしめたり。彼が治承四年六月三日、宇治橋の戦ありて後僅に数日にして、此一挙を敢てしたる、是豈彼が烱眼の甚だ明、甚だ敏、甚だ弘なるを表すものにあらずや。福原の遷都はかくの如く彼が急進主義の経綸によつて行はれたり。然れども彼は此大計を行ふに於て、余りに急激にして、且余りに強靭なりき。約言すれば、福原の遷都は彼が長所によつて行はれ、彼が短所によつて、破れたりき。

彼は、より無学にして、しかも、より放恣なる王安石也。彼は常に一の極端より他の極端に走りたりき。彼は今日計を定めて、明日其効を見るべしと信じたりき。詳言すれば彼は理論と事実との間に、幾多の商量すべく、打算すべく、加減すべき摩擦あるを知らざりき。而して又彼は、彼が信ずる所を行はむが為には、直線的の突進を敢てするの執拗を有したりき。彼の眼中には事情の難易なく、形勢の可否なく、輿論の軽重なく、唯彼の応に行はざる可からざる目的と之を行ふべき一条の径路とを存せしのみ。王安石は云へり、「人の臣子となりては、当に四海九州の怨を避くべからず」と。彼をして答へしめば、将に云ふべし、「一門の栄華を計りては、天下の怨を避くべからず」と。然れども彼の刈りたるは、僅に彼の蒔きたるものの半ばに過ぎざりき。彼は其目的を行はむには、余りに其手段を選ばざりき。余りに輿論を重んぜざりき、余りに、単刀直入にすぎたりき。彼は、疲馬に鞭ちて、百尺の断崖を越えむと試みたり。而して、越え得べしと信じたりき。是豈、却て疲馬を死せしむるものたらざるなきを得むや。

彼が遷都の壮挙を敢てするや、彼は、桓武以来、四百年の歴史を顧みざりき。彼は「おたぎの里のあれやはてなむ」の哀歌に耳を傾けざりき。一世の輿論に風馬牛なる、かくの如くにして猶遷都の大略を行はむと欲す、豈夫得べけむや。果然、新都の老若は声を斉うして、旧都に還らむことを求めたり。而して彼の動かすべからざる自信も是に至つて、聊か傾せざる能はざりき。彼は始めて、旧都の規模に従つて福原の新都を経営するの、多大の財力を費さざる可からざるを見たり。而して此財力を得むと欲せば、遷都の不平よりも更に大なる不平を蒙らざる可からざるを見たり。しかも頭を回らして東国を望めば、蛭ヶ小島の狡児、兵衛佐頼朝は二十万の源軍を率ゐて、既に足柄の嶮を越え、旌旗剣戟岳南の原野を掩ひて、長駆西上の日将に近きにあらむとす。彼の胸中にして、自ら安ずる能はざりしや、知るべきのみ。加ふるに嫡孫維盛の恥づべき敗軍(治承四年十月)は、東国の風雲益急にして、革命の気運既に熟せるを報じたるに於てをや。是に於て、彼は福原に退嬰するの平氏をして、天下の怨府たらしむる所以なるを見、一歩を退くの東国の源氏をして、遠馭長駕の機を得しむるを見、遂に策を決して、旧都に還れり。嗚呼、彼が遷都の英断も、かくの如くにして、空しく失敗に陥り了りぬ。

今や、平氏の危機は目睫の間に迫り来れり。維盛の征東軍、未一矢を交へざるに空しく富士川の水禽に驚いて走りしより、近江源氏、先響の如く応じて立ち、別当湛増亦紀伊に興り、短兵疾駆、荘園を焼掠する、数を知らず。園城寺の緇衣軍、南都の円頂賊、次いで動く事、雲の如く、将に、旗鼓堂々として、平氏政府を劫さむとす。是豈、烈火の如き入道相国が、よく坐視するに堪ふる所ならむや。然り、彼は旧都に帰ると共に、直に天下を対手として、赤手をふるひて大挑戦を試みたり。彼が軌道以外の彗星的運動は、実に是に至つて其極点に達したりき。如何に彼が破壊的政策にして、果鋭峻酷なりしかは、左に掲ぐる冷なる日暦之を証して余りあるにあらずや。

 ○治承四年十月二十三日 入道相国福原の新都を去り、同二十六日京都に入る。

 ○十二月二日 平知盛等を東国追討使として関東に向はしむ。

 ○同十日 淡路守清房をして、園城寺をうたしむ。山門の僧兵園城寺を扶けて、平軍と山科に戦ふ。

  同日 清房園城寺を火き、緇徒を屠る。

 ○同二十五日 蔵人頭重衡をして、南都に向はしむ。

 ○同廿八日 重衡、兵数千を率ゐて興福寺東大寺を火き、一宇の僧房を止めず、梟首三十余級。

 ○同廿九日 重衡都へ帰る。

彼が駕を旧都に還してより、僅に三十余日、しかも其傍若無人の行動は、実に天下をして驚倒せしめたり。

彼は、時代の信仰を憚らずして、伽藍を火くを恐れざりき。然れども彼は僧徒の横暴を抑へむが為に、然かせるにあらず。内、自ら解体せむとする政府を率ゐ、外、猛然として来り迫る革命の気運に応ぜむには、先、近畿の禍害を掃蕩するの急務なるを信じたるが為めのみ。而して彼は、此一挙が平氏政府の命運を繋ぎたる一縷の糸を切断せしを知らざる也。彼が此破天荒の痛撃は、久しく平氏が頭上の瘤視したる南都北嶺をして、遂に全く屏息し去るの止むを得ざるに至らしめたりと雖も、平氏は之が為に更に大なる僧徒の反抗を喚起したり。啻に僧徒の反抗を招きたるのみならず、又実に醇篤なる信仰を有したる天下の蒼生をして、仏敵を以て平氏を呼ばしむるに至りたりき。形勢、既にかくの如し。自ら蜂巣を破れる入道相国と雖も、焉ぞ奔命に疲れざるを得むや。時人謡ひて曰く「咲きつゞく花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき」と、然り真に「風ふく原の末ぞ」あやふかりき。平氏は、福原の遷都を、掉尾の飛躍として、治承より養和に、養和より寿永に、寿永より元暦に、天暦より文治に、円石を万仞の峰頭より転ずるが如く、刻々亡滅の深淵に向つて走りたりき。

将門、将を出すと云へるが如く、我木曾義仲も亦、将門の出なりき。彼は六条判官源為義の孫、帯刀先生義賢の次子、木曾の山間に人となれるを以て、時人称して木曾冠者と云ひぬ。久寿二年二月、義賢の悪源太義平に戮せらるゝや、義平、彼の禍をなさむ事を恐れ、畠山庄司重能をして、彼を求めしむる、急也。重能彼の幼弱なるを憫み、竊に之を斎藤別当実盛に託し、実盛亦彼を東国にあらしむるの危きを察して、之を附するに中三権頭兼遠を以てしぬ。而して中三権頭兼遠は、実に木曾の渓谷に雄視せる豪族の一なりき。時に彼は年僅に二歳、彼のローマンチツクなる生涯は、既に是に兆せし也。

吾人は、彼の事業を語るに先だち、先づ木曾を語らざるべからず。何となれば、彼の木曾に在る二十余年、彼の一生が此間に多大の感化を蒙れるは、殆ど疑ふべからざれば也。請ふ吾人をして源平盛衰記を引かしめよ。曰、

木曾と云ふ所は究竟の城廓なり、長山遙に連りて禽獣稀にして嶮岨屈曲也、渓谷は大河漲り下つて人跡亦幽なり、谷深く桟危くしては足を峙てて歩み、峰高く巌稠しては眼を載せて行く、尾を越え尾に向つて心を摧き、谷を出で谷に入つて思を費す、東は信濃、上野、武蔵、相摸に通つて奥広く、南は美濃国に境道一にして口狭し、行程三日の深山也。縦、数千万騎を以ても攻落すべき様もなし、況や、桟梯引落して楯籠らば、馬も人も通ふべき所にあらずと。

是、東海の蜀道にあらずや。惟ふに函谷の嶮によれる秦の山川が、私闘に怯にして公戦に勇なる秦人を生めるが如く、革命の気運既に熟して天下乱を思ふの一時に際し、昂然として大義を四海に唱へ、幾多慓悍なる革命の健児を率ゐ、長駆、六波羅に迫れる旭日将軍の故郷として、はた其事業の立脚地として、恥ぢざるの地勢を有したりと云ふべし。然り、彼が一世を空うするの覇気と、彼が旗下に投ぜる木曾の健児とは、実に、木曾川の長流と木曾山脈の絶嶺とに擁せられたる、此二十里の大峡谷に養はれし也。然らば彼が家庭は如何。麻中の蓬をして直からしむものは、蓬辺の麻也。英雄の児をして英雄の児たらしむるものは其家庭也。是ハミルカルありて始めてハンニバルあり、項梁ありて始めて項羽あり、信秀ありて始めて信長あるの所以、鄭家の奴学ばずして、詩を歌ふの所以にあらずや。思うて是に至る、吾人は遂に、彼が乳人にして、しかも彼が先達たる中三権頭兼遠の人物を想見せざる能はず。彼の義仲に於ける、猶北条四郎時政の頼朝に於ける如し。彼は、より朴素なる張良にして、此は、より老猾なる范増なれども、共に源氏の胄子を擁し、大勢に乗じて中原の鹿を争はしめたるに於ては、遂に其帰趣を同くせずンばあらず。

義仲が革命の旗を飜して檄を天下に伝へむとするや、彼は踊躍して、「其料にこそ、君をば此二十年まで養育し奉りて候へ、かやうに仰せらるゝこそ八幡殿の御末とも思させましませ」と叫びたりき。「立馬呉山第一峰」の野心、此短句に躍々たるを見るべし。始め、実盛の義仲をして彼が許に在らしむるや、彼は竊に「今こそ孤にておはしますとも、武運開かば日本国の武家の主ともなりや候はむ。いかさまにも養立てて、北陸道の大将軍ともなし奉らむ」と独語したりき。彼が、雄心勃々として禁ずる能はず、機に臨ンで其驥足を伸べむと試みたる老将たりしや知るべきのみ。年少気鋭、不尽の火其胸中に燃えて止まざる我義仲にして斯老の膝下にある、焉ぞ其心躍らざるを得むや。彼が悍馬に鞭ちて疾駆するや、彼が長弓を横へて雉兎を逐ふや、彼は常に「これは平家を攻むべき手ならひ」と云へり。

かゝる家門の歴史を有し、かゝる渓谷に人となり、而してかゝる家庭に成育せる彼は、かくの如くにして其烈々たる青雲の念を鼓動せしめたり。彼は実に木曾の健児也。其一代の風雲を捲き起せるの壮心、其真率にして自ら忍ぶ能はざるの血性、其火の如くなる功名心、皆、此「上有横河断海之浮雲、下有衝波逆折之回川」の木曾の高山幽壑の中に磅したる、家庭の感化の中より得来れるや、知るべきのみ。吾人既に彼が時勢を見、既に彼が境遇を見る、彼が如何なる人物にして、彼が雄志の那辺に向へるかは、吾人の解説を待つて之を知らざる也。

今や、跼天蹐地の孤児は漸くに青雲の念燃ゆるが如くなる青年となれり。而して彼は満腔の覇気、欝勃として抑ふべからざると共に、短褐孤剣、飄然として天下に放浪したり。彼が此数年の放浪は、実に彼が活ける学問なりき。吾人は彼が放浪について多く知る所あらざれども、彼は屡京師に至りて六波羅のほとりをも徘徊したるが如し。彼は、恐らく、此放浪によりて天下の大勢の眉端に迫れるを、最も切実に感じたるならむ。恐らくは又、其功名の念にして、更に幾斛の油を注がれたりしならむ。想ふ、彼が独り京洛の路上に立ちて、平門の貴公子が琵琶を抱いて落花に対するを望める時、殿上の卿相が玉笛を吹いて春に和せるを仰げる時、はた入道相国が輦車を駆り、兵仗を従へ、儀衛堂々として、濶歩せるを眺めし時、必ずや、彼は其胸中に幾度か我とつて代らむと叫びしなるべし。

然り、彼が天下を狭しとするの雄心は、実に此放浪によつて、養はれたり。彼が霊火は刻一刻より燃え来れり。彼は屡長剣を按じたり。然れども、彼は猶、機を窺うて動かざりき。将に是、池中の蛟竜が風雲の乗ずべきを待ちて、未立たざるもの、唯機会だにあらしめば、彼が鵬翼の扶揺を搏つて上ること九万里、青天を負うて南を図らむとする日の近きや知るべきのみ。

思ふに、彼は、鹿ヶ谷の密謀によりて、小松内府の薨去によりて、南都北嶺の反心によりて、平賊の命運、既に旦夕に迫れるを見、竊に莞爾として時の到らむとするを祝せしならむ。然り、機は来れり、バスチールを壊つべきの機は遂に来れり。天下は高倉宮の令旨と共に、海の如く動いて革命に応じたり。而して、彼が伝家の白旗は、始めて木曾の山風に飜されたり。時に彼、年二十七歳、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧を重ね、鍬形の兜に黄金づくりの太刀、鴎尻に佩き反らせたる、誠に皎として、玉樹の風前に臨むが如し。天下風を仰いで其旗下に集るもの、実に五万余人、根井大弥太行親は来れり、楯六郎親忠は来れり、野州の足利、甲州の武田、上州の那和、亦相次いで翕然として来り従ひ、革命軍の軍威隆々として大に振ふ。図南の鵬翼既に成れり。是に於て、彼は戦鼓を打ち旌旗を連ね、威風堂々として、南信を出で、軍鋒の向ふ所枯朽を摧くが如く、治承四年九月五日、善光寺平の原野に、笠原平五頼直(平氏の党)を撃つて大に破り、次いで鋒を転じて上野に入り、同じき十月十三日、上野多胡の全郡を降し、上州の豪族をして、争うて其大旗の下に参集せしめたり。是実に頼朝が富士川の大勝に先だつこと十日、かくの如くにして、彼は、殆ど全信州を其掌中に収め了れり。

革命軍の飛報、頻々として櫛の歯をひくが如し。東夷西戎、並び起り、三色旗は日一日より平安の都に近づかむとす。楚歌、蓬壺をめぐつて響かむの日遠きにあらず。紅燈緑酒の間に長夜の飲を恣にしたる平氏政府も、是に至つて遂に、震駭せざる能はざりき。如何に大狼狽したるよ。平治以来、螺鈿を鏤め金銀を装ひ、時流の華奢を凝したる、馬鞍刀槍も、是唯泰平の装飾のみ。一門の子弟は皆、殿上後宮の娘子軍のみ、之を以て波濤の如く迫り来る革命軍に当らむとす、豈朽索を以て六馬を馭するに類する事なきを得むや。今や平氏政府の周章は其極点に達したり。然れ共、入道相国の剛腸は猶猛然として将に仆れむとする平氏政府を挽回せむと欲したり。彼は、東軍の南海を経て京師に向はむとするを聞き、軍を派して沿海を守らしめたり。

彼は西海北陸両道の糧馬を以て、東軍と戦はむと試みたり。彼が、困憊、衰残の政府を提げて、驀然として来り迫る革命軍に応戦したるを見る、恰も、颶風の中に立てる参天の巨樹の如き概あり。吾人思うて是に至る、遂に彼が苦衷を了せずンばあらず。関東に源兵衛佐あり、木曾に旭日将軍あり、而して京師に入道相国あり、三個の風雲児にして各手に唾して天下を賭す。

真に是れ、青史に多く比を見ざるの偉観也。しかも運命は飽く迄も平氏に無情なりき。平宗盛を主将とせる有力なる征東軍が羽檄を天下に伝へて、京師を発せむとするの前夜(養和元年閏二月一日)天乎命乎、入道相国は俄然として病めり。征東の軍是に期を失して発せず、越えて四日、病革りて祖竜遂に仆る。赤旗光無うして日色薄し、黄埃散漫として風徒に粛索、帯甲百万、路に満つれども往反の客、面に憂色あり。嗚呼、絶代の英雄児はかくの如くにして逝けり。平門の柱石はかくの如くにして砕けたり。棟梁の材既になし、かくして誰か成功を百里の外に期するものぞ。見よ見よ西海の没落は刻々眉端に迫れる也。

入道相国逝いて宗盛次いで立つ。然れども彼は不肖の子なりき。彼は経世的手腕と眼孔とに於ては殆ど乃父浄海の足下にも及ぶ能はざりき。彼は興福東大両寺の荘園を還附し、宣旨を以て三十五ヶ国に諜し興福寺の修造を命ぜしめしが如き、仏に佞し僧に諛ひ、平門の威武を墜さしむる、是より大なるは非ず。彼は直覚的烱眼に於ては乃父に劣る事遠く、天下の大機を平正穏当の間に補綴し、人をして其然るを覚えずして然らしむる、活滑なる器度に於ては、重盛に及ばず。懸軍万里、計を帷幄の中にめぐらし、勝を千里の外に決する将略に於ては我義仲に比肩する能はず。しかも猶、其不学、無術を以て、天下の革命軍に対せむとす。是、赤手を以て江河を支ふるの難きよりも、難き也。泰山既に倒れ豎子台鼎の重位に上る、革命軍の意気は愈昂れり。しかも、此時に於て平氏に致命の打撃を与へたるは、実に其財政難なりき。平家物語の著者をして「おそらくは、帝闕も仙洞もこれにはすぎじとぞ見えし」と、驚歎せしめたる一門の栄華は、遂に平氏の命数をして、幾年の短きに迫らしめたり。夫水蹙れば魚益躍る。是に於て平氏は、恰も傷きたる猪の如く、無二無三に過重なる収斂を以て、此窮境を脱せむと欲したり。平氏が使者を伊勢の神三郡に遣りて、兵糧米を、充課したるが如き、はた、平貞能の九州に下りて、徭を重うし、賦を繁うし、四方の怨嗟を招きしが如き、是、平氏の財力の既に窮したるを表すものにあらずや。

ああ大絃急なれば小絃絶ゆ。さらぬだに、凶年と兵乱とに苦める天下の蒼生は、今や彼等が倒懸の苦楚に堪ふる能はず、斉しく立つて平氏を呪ひ、平氏を罵り、平氏に反き、空拳を以て彼等が軛を脱せむと試みしなり。是に於て、靄の如く天下を蔽へる蒼生は、不平の忽にして、革命軍の成功を期待するの、盛なる声援の叫となれり。しかも此危険に際して、猶諸国に命じて南都の両寺を修せしめしが如き、傘張法橋の豚犬児が、愚なる政策は、此声援をして更に幾倍の大を加へしめたり。入道相国逝いて未三歳ならず、胡馬洛陽に嘶き、天日西海に没せる、豈宜ならずとせむや。

吾人をして、再、我木曾義仲に、かへらしめよ。天下を麾いで既にルビコンを渡れる彼は、養和元年六月、越後の住人、城四郎長茂が率ゐる六万の平軍と、横田川を隔てて相対しぬ。俊才、嚢中の錐の如き彼は、直に部将井上九郎光盛をして赤旗を立てて前ましめ、彼自らは河を済り、戦鼓をうつて戦を挑み、平軍の彼が陣を衝かむとするに乗じて光盛等をして、赤旗を倒して白旗を飜し、急に敵軍を夾撃せしめて大に勝ち、遂に長茂をして越後に走らしめたり。是実に、淮陰侯が、井に成安君を破れるの妙策、錐は遂に悉く穎脱し了れる也。越えて八月、宗盛、革命軍の軍鋒、竹を破るが如きを聞き、倉皇として北陸道追討の宣旨を請ひ、中宮亮平通盛、但馬守平経正等を主将とせる征北軍を組織し、彼が奔流の如き南下を妨げしめたり。然れども、九月通盛等の軍、彼と戦つて大に敗れ、退いて敦賀の城に拒ぎしも遂に支ふる能はず、首尾断絶して軍悉く潰走し、辛くも敗滅の恥を免るゝを得たり。是に於て、革命軍の武威、遠く上野、信濃、越後、越中、能登、加賀、越前を風靡し、七州の豪傑、嘯集して其旗下に投じ、剣槊霜の如くにして介馬数万、意気堂々として已に平氏政府を呑めり。薄倖の孤児、木曾の野人、旭将軍義仲の得意や、知るべき也。北陸既に定まり、兵甲既に足る。彼は速に、遠馭長駕、江河の堤を決するが如き勢を以て京師に侵入せむと欲したり。而して大牙未南に向はざるに先だち、恰も関八州を席の如く巻き将に東海道を西進せむとしたる源兵衛佐頼朝によつて送られたる一封の書簡は、彼の征南をして止めしめたり。書に曰、

平家朝威を背き奉り、仏法を亡すによりて、源家同姓のともがらに仰せて、速に追討すべき由、院宣を下され了ンぬ。尤も夜を以て日についで、逆臣を討ちて、宸襟をやすめ奉るべきのところ、十郎蔵人私のむほんを起し、頼朝追討の企ありと聞ゆ。然るをかの人に同心して扶持し置かるゝの条、且は一門不合、且は平家のあざけりなり。但、御所存をわきまへず、もし異なること仔細なくば、速に蔵人を出さるゝか、それさもなくば、清水殿(義仲の子清水冠者義高)をこれへ渡し玉へ、父子の義をなし奉るべし。両条の内一も、承認なくンば、兵をさしつかはして、誅し奉るべし。

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