1話 実験室(1)
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兄と彼れとは又同じ事を繰返して云ひ合つてゐるのに氣がついて、二人とも申合せたやうに押默つてしまつた。
兄は額際の汗を不愉快さうに拭つて、せはしく扇をつかつた。彼れは顯微鏡のカバーの上に薄らたまつた埃を隻眼で見やりながら、實驗室に出入しなかつたこの十日間程の出來事を、涙ぐましく思ひかへしてゐた。
簡單に云ふと前の日の朝に彼れの妻は多量の咯血をして死んでしまつたのだ。妻は彼れの出勤してゐる病院で療治を受けてゐた。その死因について院長をはじめ醫員の大部分は急激な乾酪性肺炎の結果だらうと云ふに一致したが、彼れだけはさう信ずる事が出來なかつた。左肺が肺癆に罹つて大部分腐蝕してゐるのは誰れも認めてゐたが、一週間程前から右肺の中葉以上に突然起つた聽診的變調と、發熱と、腹膜肋膜の炎症とを綜合して考へて見ると粟粒結核の勃發に相違ないと堅く信じたのだ。咯血が直接の死因をなしてゐると云ふ事も、病竈が血管中に破裂する粟粒結核の特性を證據立てゝゐるやうに思はれた。病室で死骸を前に置いて院長が死亡屆を書いてくれた時でも、院長は悔みや手傳ひに來た醫員達と熱心に彼れの妻の病氣の經過を論じ合つて、如何しても乾酪性肺炎の急激な場合と見るのが至當で、斃れたのは極度の衰弱に起因すると主張したが、彼れはどうしても腑に落ちなかつた。妻の死因に對してさへ自分の所信が輕く見られてゐる事は侮辱にさへ考へられた。然し彼れは場合が場合なのでそこに口を出すやうな事はしなかつた。而して倒さに着せられた白衣の下に、小さく平べつたく、仰臥さしてある妻の死骸を眺めて默然としてゐた。
默つて坐つてる中に彼れの學術的嗜欲はこの死因に對して激しく働き出した。自分は醫師であり又病理學の學徒である。自分は凡ての機會に於て自己の學術に忠實でなければならない。こゝに一個の死屍がある。その死因の斷定に對して一人だけ異説をもつものがある。解剖によつてその眞相を確める外に途はない。その死屍が解剖を不可能とするのなら是非もないが、夫れは彼れ自身の妻であるのだ。眞理の闡明の爲めには他人の死體にすら無殘な刃を平氣で加へるのだ。自分の事業の成就を希ふべき妻の死體を解剖臺の上に運んで一つの現象の實質を確定するのに何の躊躇がいらう。よし、自分は妻を學術のために提供しよう。さう彼れは思つた。暫らく考へてから彼れは上の考へにもう一つの考へを附加へた。妻は自分が解剖してやる。同じ解剖するなら夫に解剖されるのを妻は滿足に思ふだらう。自分としては自分の主張を實證するには自分親ら刀を執るのが至當だ。その場合解剖臺の上にあるものは、親であらうが妻であらうが、一個の實驗物でしかないのだ。自分は凡ての機會に於て學術に忠實であらねばならぬ。
彼れは綿密にこの事をも一度考へなほした。彼れの考へにはそこに一點の非理もなかつた。しつかとさう得心が出來ると、彼れは夫れを院長に告げて許可を受けた。その晩彼れは親族兄弟の寄合つてゐる所で所存を云ひ出した。云ひ出したと云ふより宣告した。親族は色々反對したが甲斐のないのを知ると、せめては肺部丈けの解剖にしたらどうだと云つた。若し死因が粟粒結核なら他の諸機關も犯されるのだから肺部だけですますわけには行かないと彼れは云つた。夫れなら他人に頼んでして貰へと云つた。彼れは自分のするのが一番いゝんだと云つた。そんな不人情がよくも出來るものだと涙を流して口惜しがる女もゐた。彼れは妻の介錯は夫がするのが一番いゝのだと云つて動かなかつた。妻の里の親達は勿論、親族の大多數は、その場の見えばかりからでも、彼れの決心に明らさまに反對な色を見せた。學術に對する俗衆の僻見をこれほど見せつけられると、彼れは意地にも初一念を通さずには置けなかつた。而して妻は自分に歸いだ以上は自分のものだから、その處置については他人を煩はすまでもないと云ひ切つてしまつた。列坐の人々は呆れたやうに口をつぐんだ。
愛憎を盡かした人々の中に、彼れの兄だけは何處までも彼れの決心を飜へさうとした。今朝も兄はわざ/\彼れの實驗室までやつて來て、色々と話し合つてゐたのだ。
「お前は自分の生活と學術とどつちが尊いと思つてゐるんだ」
兄は扇をたゝむと、粘氣のある落着いた物言ひをして又かう論じ始めた。彼れは顯微鏡のカバーの上の埃から物惰氣に眼を兄の方に轉じた。
「僕は學術を生活してゐるんです。僕の生活は謂はゞ學術の尊さだけ尊いんですよ。……もういくら論じたつて同じぢやありませんか」
さう云つて彼れは立上つた。而して壁際のガラス張りの棚の中から、ミクロトームのメスを取り出して剃刀砥にかけ始めた。滑らかな石砥に油を滴して、その上に靜かにメスを走らせながら、彼れは刃物と石との間に起るさゝやかな音にぢつと耳をすましてゐた。手許から切先まで澄み切つた硬い鋼の光は見るものを寒く脅かした。兄は眼をそばたてゝ、例へば死體にしろ、妻の肉に加ふべき刃を磨ぎすます彼れの心を惡むやうに見えた。
「そんなものを使ふのか」
彼れは磨ぐ手をやめて、眼近くメスを見入りながら、
「解剖に使ふんぢやない、是れはプレパラートの切片を切る刃物です。慣れつてものは不思議で磨いでると音で齒の附具合が分りますよ。生物學者は物質的な仕事が多いので困る」
「俺れはこの際になつてもお前の心持ちにはどこか狂つた所があるやうに思ふがな、お前は今學術を生活するんだと云つたが、自然科學は實驗の上にのみ基礎を置くのが立場だのに、生活は實驗ぢやないものな。話があんまり抽象的になつてしまつたが、お前の妻の肉體に刃物を加へてどこか忍びない所がありはしないかい。少しでもそんな心地があつ……」
そこに小使が這入つて來て、死亡室に移してある彼れの妻の處置を如何したらいゝかと彼れに尋ねた。九時から解剖をするからすぐ用意をして置けと彼れは命じた。兄は慌てゝそれはもう少し待つてくれと云つたが、彼れは敵意に近い程な激しい態度で兄の言葉を遮りながら小使を死亡室に走らした。
兄は歎息して默つてしまつた。彼れも默つた。部屋の隅の瀬戸物の洗槽に水道の龍頭から滴る水音だけがさやかに聞えた。病院の患者や看護婦の騷がしさも、研究部にある彼れの實驗室の戸の内には押よせて來なかつた。彼れは解剖後の研究に必要な用意をするために忙しかつた。整温器にパラフィンを入れてアルコール、ランプの灯をともしたり、ヘマトキシリン、イオシン、ホルマリン、アルコホール、クロロホーム、石油ベンジンなどの小瓶を順序正しく盆の上に列べたり、〇、八ミクロの切片を切り出すやうにミクロトームを調節したり、プレパラート、グラスをアルコールに浸したりしてゐる中に、暫らく打捨てゝあつた習慣が全く元にもどつて、彼れは研究者の純粹な心持ちに這入つて行つた。彼れの前にもう妻はなかつた。興味ある患部の縱斷面や横斷面が想像によつて彼れの眼の前にまざ/\と見えるやうだつた。半ば膿化した粟粒が肺の切斷面や腹膜やに顯著に見られたら愉快だらうと彼れは思つた。先刻から考へる力を失つたやうに默つたまゝ、うつむいて、扇をつかつてゐる兄が弱々しい殉情の犧牲の如くに憐れまれた。
眞黒に古びてはゐるが極めて正確な懸時計の針が八時五十分を指した時、小使がまた現はれて解剖室の用意が出來てゐる事を報告した。彼れは一種の勇みを感じた。上衣を脱いで眞白な手術衣に手を通しながら、
「兎に角仕度が出來てしまつたから僕は行きます。人間はいつか死ぬんですからね。死んでしまへば肉體は解剖にでも利用される外には何の役にも立ちはしないんですからね。Y子なんぞは死んで夫に解剖されるんだから餘榮ありですよ。……兄さんはすぐお歸りですか。お歸りならどうか葬式の用意を……」
「俺れは立合はせて貰はう」
この兄の言葉は彼れにも意外だつた。「どうして」とその理由を聞かずにはゐられなかつた。
「お前と俺れとは感情そのものが土臺違つてしまつたんだ。假りにも縁があつて妹となつてくれたものを、お前はじめ冷やかな心で品物でも取扱ふやうに取扱ふ人達ばかりに任せて置く氣にはどうしてもなれないんだ。お前はお前で、お前の立場を守るのなら、それは俺れはもうどうとも云はないが、俺れの立場もお前は認めてくれていゝだらう」
「無論認めますがね、解剖と云ふものは慣れないと一寸我慢の出來ない程殘酷に見えますよ。それでよければいらつしやい」
さう云つて彼れは兄にも手術衣を渡した。