10話 第六〇課 信仰 二(1)
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前節で大生命海の根本性質を「法性」と名付け、これを知るのが大事であることまでを述べました。
ところで面白いのはこの法性は取りも直さず私たちの肉体精神中に秘められておる仏性と一つものであることです。かの法性が私たちの肉体精神上に認められたのが仏性。大生命海中に放たれているのが法性。二つのように見えて実は一つであります。これをよく浪と海水との譬えで説明いたします。
私たちは浪である。大生命は海水である。浪を離れて水なく、水を離れて浪はない。二つに思うのは、ただ私たちの頭の上だけの考えである。実体は離すべからざるものである。
この事実によりますれば、この宇宙の大生命海が無限無量ならば、その浪である私たちの本体も無限無量である。出没生死に見えるのは、形の上のうねりだけである。故に、私たちが形の上の変化、すなわち、生れて、育って、成長して、死ぬ、これだけに目をつけて、本体の大生命との続きを認めなければ五、七十年の一生である。大生命と自分と、一体なるところを認め、五、七十年の一生は仮りの姿と見れば、本当の寿命は無限無量寿である。仏教のぎりぎり結着の話は実はこれだけであります。この外に何も別な考え方も理論もありません。そしてもし、この理が判って、その体験に生きられるなら、もう智慧とか法性とか仏性とかいう区別した話も要らないのであります。ただ毎日、生命の漂うまにまに任運騰々として充ち満ちた生活を送るだけであります。すべての善は、われ知らずにこれを行じてゆき、すべての悪は、われ知らずに離れ去ってゆく至福至妙の状態であります。この心境を説明するのに、人間の言葉に詰って「極楽世界」とか「三昧王三昧」とか、いろいろなことを言いますが、やはり片手落ちの表現に過ぎません。実感はもっと全部的なものでしょう。
ところで、こう書きますと、いかにもわけはないようでありますが、実際この心境に到達した人はいくらあるでしょう。これはその心境に到達した人だけが鑑別されるだけで、それ以下のものには見当がつきません。なにしろ、血の涙の修業の後です。それで、その心境に先に到着した人が、どうか、もっと楽な方法でみんなをここへ到着せしめたい。その願いから生み出されたのが仏教です。まず元祖の釈尊が工夫し出された「四諦」「十二因縁」の法をはじめ、支那へ来ては天台大師の天台宗の教義とか、達磨大師の禅法とかいうものであります。日本では平安朝の伝教大師の日本天台、弘法大師の真言密教をはじめ、鎌倉期になって法然、親鸞、日蓮、道元らの諸祖の新興仏教の出たのもこのためであります。
仏教を大別して、聖道門と易行門とに二分します。聖道門は修業的、易行門は信仰的の区別はありますが、兎に角、根本において「道」の存在を信じない仏教はありません。
「道」とは、かの法性と私たちの仏性と、根本において円通融合している真理のことです。宇宙の大生命と、私たちの小生命とは一体不二であるという真理のことです。それを仏教は信じさせようとするのです。但し、私たちに迷妄執着の凡心がありますから、それがこの自覚を妨げて、そのために私たちは不自由、不足に苦しみつつあるのだと仏教は説明します。
次に宇宙の大生命は、この「道」の義を、私たちに覚らせようと、手を代え品を代え働きかけつつあるのです。それはちょうど、幼いとき家出した浮浪少年を、親がさまざまに手を尽し、迎え戻そうとする骨折りに似ていると法華経は説いております。阿弥陀如来といい、観世音菩薩というものも、実はこの働き(宇宙の大生命が「道」を私たちに覚らしめようとする働き)を指して名づけたものに過ぎません。
私たちは、その迎え戻そうとする働きがつねに私たちの上にあるのを信ずる。これが第二段の「信」であります。
以上、第一段および第二段の「信」を、同時に胸に持ち続けるとき、その覚りの感じがあろうがあるまいが、もはや私たちは逃れざる大生命の子であります。そして、かの大生命の帯びている自然の諸性徳は、順次に私たちの精神肉体を薫化して行くのであります。このことは、他の章でいろいろの例を以て説明してありますから、そこで実際に就いて研究して下さい。
仏教を信じたものは、どんな生活をするのでしょうか。そのあらましを二つ三つ述べて見ましょう。
第一に安らかな気持ちです。
仏教では、この大きな天地も、私たち小さな人間のいのちも、その根もとで一つに親密に繋がり融け合って、分け距てがないことを教えております。どんな孤児でも、寂しくないどころか、始終、母の手の愛撫をひしひしと感じられて安らかさに充ちているのです。普通の母の手は、やはり人間業ですから、人間の手の中では一番自分に優しく温かな手でありますが、まだまだ及ばぬところがあります。仏陀(宇宙大生命の人格化、覚者の義)の手は行き亘らぬ隈もなく、どんな狭い隙からも霧のように漉き入り、身をも心をも柔かく包みます。旅へ出れば一緒に附いて行ってくれ、また向うでも待ち受けていてくれます。悲しみにつれ歓びにつれ、その手は、程を外さぬよう私たちを和めてくれます。たとえ「もう沢山!」とうるさがって弾ねのけても、それに怒って差し控えるような手ではありません。絶対無条件で慈悲の滴っている手です。死んで、死に別れというような果ない手ではありません。
第二に怜悧になれることです。
仏教は智慧を開く宗教ですから、物事に対して判断がはっきりつくようになります。自分の性格の長所短所、それが判れば自然と、自分の長所を養い育て、短所を補うようになります。自分に出来ることと、出来ないこととが判れば、無謀なことはしません。もしやって失敗しても、その失敗したわけがよく判るようになりますから直ぐ気を取直します。また案外うまく行ったからとて、調子に乗って長追いをしません。あるいはまた、自分の気持ちとしてどうしてもやり進まなければならないことは、はじめから失敗を予算に入れてかかります。予算に入れてある失敗は、もう失敗ではありません。そこで予算どおり失敗しても淡々とそれを見過ごす心の余裕があります。
世の中のあらゆるものに価値を認めて行きますから、憎んで憎み切り、恨んで恨み切り、というせっぱ詰まった気持ちに陥りません。必ず一部、長所と恩恵とを認めて、これを善用します。仏教ほど敵や讐の効能を説く教えは他にありません。
第三に自由な気持ちです。
私たちが毎日向い合っている現実生活に対して仏教は、もとより力一ぱい働くことを勧めますが、さればと言ってこれに余り捉われ過ぎないように致します。眼の前の生活に真剣に働きかけながらしかも、常に、無限の理想を望んでいます。現実の名誉、利益、勢力、そういうものに対して、いつも即かず離れずの態度で批判力を失いません。現実のものは現実だけの価値と知って、その価値だけに使って行きます。決して使い過しなど致しません。場合によっては、無限の理想の前にはそれらの眼前の現実の価値を泡一つほどにも思わず、未練なく抛つ心構えが出来ております。
また仏教の教養は、精神肉体の蟠りを取り去るのですから、相手によっては、優しくも無邪気にもなりますが、相手によってはまた磐石のようにしっかりして鎗先のように鋭くもなります。時には敢然と闘いもします。物事に応じて、その時一番にそれを始末するのに都合の良い心の方面を出して応待させます。
第四にねばり強くかつ進取的になります。
仏教を消極的だと見らるる人もあるようですが、大変な間違いです。仏教の理想は、無限に人格の完成を期して行くのですから、障害ぐらい何とも思っていません。ねばり強く歩を運びます。どうかしてその日その日を、理想の完成へ向けて一歩でも近づかせるよう努力致します。この意義から言っても仏教は進取的です。そしてしっかりした張合いのある日を送ることのため、日々が実に好き日であり、日々が新鮮であります。但し、漸進すべきもの、急進すべきもの、その区別を明らかにして決して順序を間違えません。本当の意味で、仏教ぐらい大欲な教えはないでしょう。出来ない望みの譬えに、松が枝に桜の花を咲かせ梅の香りを放させたいような願いだと言いますが、仏教はそれに似たことをやろうというのです。自分一個の上では、人間の持ち得る限りの善き性質、真理の性質、美しい性質を蒐め、世の中は、天地の貯えておるあらゆる宝を取出して飾り、みんな無上の幸福や、文化の頂上を味わうというのです。これが大欲でなくて何でしょう。もしこの考えを、ただ夢みるとか、空想するとかいうのだったら、それは神がかりであって、精神病だとも言われるでしょう。けれども仏教の方では、飽くまで合理的に研究して行って、人間の素質の中にある理想の種子を育てることによって、この現実の世に絶対の幸福を実現させようとするのですから決して神がかりや、空想ではありません。深く考えれば考えるほど、いよいよ人生の真理を覚知し得て欣喜勇躍するのであります。
第五、小欲より大欲につきます。
仏教生活では、眼の前の惜しい、欲しい欲望の生活、すなわち小欲生活を、大欲生活の目的のために見直して善用する工夫をするのであります。これが信仰というものです。このことは小欲こそ理想へ向けての歩一歩であることを示すものです。眼の前の惜しい、欲しいという欲望の生活なくしては、理想の目的地へ到着出来ません。ですから小欲生活――現実の生活に非常に注意を致しますと同時に、余りに現実生活に執われ過ぎることを避けます。小欲より大欲につくということは、何も別に小欲を捨ててしまって大欲ばかりを目指すということではありません。仏教で言う真の欲望へ向って、現実生活のすべての小欲を善用、利用し尽すということです。
仏教は進取的であっても、真理の根底が深いから、表面がやがやと騒ぎ立てません。落付いていますから、浅はかな眼からみれば、消極的に見えるのかも知れませんが、その見かたは大違いです。譬えば海を御覧なさい。沖の方の本当の千尋の浪は、岸にいる人の眼には付きません。岸に近くざわざわ騒ぎ立てる底の浅い浪の方が却って眼につき耳について離れません。さればと言って少し海水のことを考えたら、沖には海水の湛えてないなどと思う人は一人もないでしょう。否、まことの深い海水の本部こそ、沖に在るのだと思うでしょう。仏教の真理を、そのように力強く湛えた沖の海水だと思えば間違いありません。
ですから、本当に人生を生き抜くためには、眼の前の小欲にばかり夢中にならず、精巧な望遠鏡を以て沖を眺めるように、大船を駆って大洋に乗り出して来て沖の浪を見出すように、信仰によって獲得した霊智を働かせ、積極的に勇猛心を以て手段を講じ、眼の付けるところを、手をかけるところを、大きく広く、無限の幸福、人格完成を目指すのであります。
こんなことくらい誰でも判っていそうなもので、まだ判らない人があります。
仏、菩薩に祈請を籠めて、その応験がないという不平であります。
その祈請の筋を聞いてみると物を誂えるような塩梅で、時間なども気短かに区切って注文してあります。これで嵌るで染物屋へ物を誂えると同じ調子で、人間の思慮や力量以上の大きな了見の仏菩薩に向って頼む様子ではありません。たとえ、人間世界の馴染の染物屋でさえ、時には約束に遅れることもあるのですから、まして何千人何万人のお得意を持っている忙しい仏、菩薩なら、こういう人間並みの注文は勝手違いで、いよいよ後廻しにされるかも知れません。
兎に角、仏、菩薩は自分より力の上の方と思うから頼むのですから、頼んだ以上、こちらの当て推量や短気な勝手注文よりむこうの取捌き方や始末の方が上だと思わねばなりません。自分の考えどおり運ぶようなら人間業で運ぶことです。何も仏、菩薩を頼むには当りません。努力勉強して切って廻し、それで出来なければ諦めるだけのことです。つまり普通の行き方です。
ベストも尽しもしよう、人間業のあらゆる方法も講じよう。そして是非成就して貰わねば困る。諦められないことだ。その出発点から自分の力以上のものに頼むのですから、その取捌き方や始末は数倍あるいは数十百倍こちらより上だと思わねばなりません。ですから、こちらの推量どおり運ぶ事もある。しかし運ばないこともある。しかし結局の効果は必ずあることと信じて誠を捧げて行く。ここに祈請の妙味はあるのです。それで、あまり時間を切ったり、具体的な注文は、それが外れたように見ゆるとき、反対に仏、菩薩への不信を来すことになりますから余りよろしくありません。つまり染物屋式の祈請は人間以上のものに向う注文ぶりではあるまいと思います。
偉きな大方針で祈請すべきではないかと思います。
そうすれば時々刻々の現れは、善くても悪くても、それは人間の眼にちょっとそう見えるだけの話で、大きな目から見たら、いずれも目的への運歩の両足でうれしきにつけ悲しきにつけ筋は運んでいるものと、いよいよ信を捧ぐべきです。そうするときには安心の結果、持っている力も伸び伸びと使え、また、決して諦めない執拗な追求力は、仮りに仏教の信仰は迷信だとしても、これを信ずる人は普通の人間の精神力以上の程度には必ず能力を発揮して行きつつあります。まして仏教の応験なるものは絶対合理的なものですからなおさらです。「神を試みるべからず」、これは他宗の言葉としても仏教にも立派にあてはまります。なかなか妙味のある言葉です。
仏教はもっと度量が広く、疑いつつ弥陀を念じても疑城胎宮(疑いを持ちつつ念仏するものの生れる極楽浄土の辺地)といって極楽圏に対して番外当選ぐらいのところまでは行けることに、浄土教の祖師たちは説明されていますものの、疑わないに越したことはありません。それなら疑いを惹起しそうな人間のせまい了見で区切った勝手な祈請の仕方は避けた方がよかろうと思います。
元来、仏教の最終の目的は人々が最上の智慧を開覚いて最も完全な人格を完成するのに在るので、現世上の救難授福はその目的からは第二義的のものでありますが、しかし眼前の幸福は衆人が望むことでありますから、仏、菩薩においてもこれを蔑ろにしないで工夫に工夫を凝らされていることはもちろんのことであります。
しかし、どういう除災、授福を講ずる仏、菩薩の教義でも、それを講じながら最後には必ず智慧開覚、人格完成に結びつけ、導いて行くことは諸経みな一致しております。ここに仏、菩薩信仰の深い意味のあることを知らねばなりません。そして短気に浅はかにその功徳、効能をはかってはなりません。
普通一口に「智慧」と言いますが、仏教の方では、これを二つに分け、「智」と「慧」にして、その意味にはっきりした区別をつけております(智は俗諦に関する知力、慧は真諦に関する覚力)。
私たちが生れてから物心がつき、人から教えられて箸を持つ術、着物を着る術、学校通い、読み方、書き方、算術――みな「智」の方に属します。それらは誰かに教えられ、自分でも経験を積んで得られる知識だからであります。人々が成長して社会に立ち、職業を執り、友達と交際し、家庭を営んで行く、みな「智」の力であります。もし人から教えられなければ、見よう見真似で自分で工夫をする。しかしその工夫をするのも、しばしば経験を重ねてようやく得られるものであります。一口に言えば、私たちがこの世の中に処して生きて行く術、それを学び取る力が「智」であります。
この「智」は、人や書物から教えられ、また経験によって出来、不出来がありますので、時代によって違い、人によって違い、修養によって違います。つまり優劣や差別のある精神力です。たとえばむかし乗物と言えば駕籠しか知らなかったものが、今日では汽車、自動車、飛行機まで知るようになったという具合です。これは時代による「智」の相違です。また同じ人間でも甲の人は他人の身体の中の病気まで癒すが、乙の人は風邪さえ自分で癒せないで薬を貰いに行く。これが人による「智」の相違です。またAとBとは同じ野球チームの選手だが、春のシーズンには二人とも同じ打撃率だったものが、秋のシーズンになってAは安打数が増え、Bは相変らず凡打、三振を続けている。これが修養による「智」の相違です。
「智」の妙味はこういうふうに学ぶことと、経験によって違いが出来るところにあります。
さて今度は「慧」の方です。これがなかなか難しい心の能力です。一口に言うと、物の本性を見破る心の働きです。何か譬え話で説明致しましょう。
猿にらっきょをやると面白いそうです。中身がありはしないかと思ってまず最初の一皮を剥きます。やっぱり皮がある。どうも念入りな果物だと思って猿は、また一皮剥きます。やっぱり皮だ。こりゃ三枚重ねの外出向の着物を着ている果物だ。そう思ってまた剥きます。やっぱり皮です。こんな具合に猿はらっきょの本体を突き止めようと思って、剥いて剥いて、しまいに何にもない。猿はらっきょの中身を発見しようと思って、とうとう何にもないことを発見してしまいました。
猿ばかりがそうかと思って笑うわけにはゆきません。人間にも同じようなことをした人があります。
ある生理学者が、どうかして人間の生きている源を突き止めようと堅い決心をしまして、その試験台に他人では迷惑だろうと思って、自分で自分の体を解剖して行きました。腕をつついて見ましたが、腕を少々切ったぐらいでは生命に余り関係がないことがわかりました。足を方々切って見ましたが、それで直ちに死ぬほどの大切なところがありませんでした。かくして身体中、メスで掻き廻してみまして、やっと心臓のところで、人間が生きている源を発見しかけました。そしてそれを発見すると同時に彼は死んでいました。
この愁笑に堪えない寓話は、一面、人間が生の秘密を探り当てたい欲望が死を賭けるほど強いことを物語っていると同時に、生の秘密は死の秘密と一致すること、すなわち生の秘密は、それほど神秘不可思議の世界であることを仄めかしたものであります。
古歌に次のようなのがあったと私は覚えています。
年ごとに咲くや吉野の桜花
樹を割りて見よ花の在所を
これも同じ心持ちを詠んだ歌であります。あんなに賑やかに爛漫と咲く梢の花の仕掛けは枝の中に在るのであろうか。枝を割って見ても枝の中にはない。幹に在るのであろうかと、幹を割って見ても幹の中にもない。もちろん根を掘ってみてもありません。それでいて、時節が来れば、目覚まし時計をかけて置かなくとも桜の花がちゃんと咲きます。私たち普通見慣れておりますから何ともないようなものの、よく考えて見れば不思議極まるものです。不思議がるには、何も吉野山まで汽車に乗って行って、桜の下で毛虫にびくびくしながら考え込む手数などは要りません。手近かの庭の池の鯉、軒を伝う猫などにも、不思議な生命が尾鰭を生やし、尻尾を立てて動いております。不思議な生命――。
この万物の本体、本性を突き止める心力、これを「慧」と言います。前の「智」と違って「慧」は、いずれの時代でも少しも違いがなく、またどの人にも生れつきちゃんとそなわっており、修養によって余計はっきり見出されては来ますが、「智」のように増減がありません。
以上、「智」と「慧」とを合せて「智慧」となります。これが私たち人間のあらゆる生活上の資本であります。
この現象的の見方、すなわち「智」の力と、実在的の見方、すなわち「慧」との差別をさらに説明しますと、現象的の見方は人間的であたたか味はあるが、相手に捉われやすく、実在的の見方は超人間的で冷静ではあるが生気がない。どちらも片一方だけでは世の中の万事がうまく行きません。これを調和させて、両方有効に使って行こうとするのが仏教の目的です。そして仏教を信仰し、体得することによって、この両者を兼ね備えることが出来、人間生活の真の好き運転が行われることが約束されています。