人間の卵

1話 一

1,417字 約3分 2025年6月14日 公開

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『鳥類(てうるゐ)や魚類(ぎよるゐ)は、卵生動物(らんせいどうぶつ)として知(し)られて居(ゐ)るが、それには例外(れいぐわい)がある。例(たと)へばあの――金魚屋(きんぎよや)に賣(う)つて居(ゐ)るメダカといふ小魚(こうを)――一口(ひとくち)にメダカと云(い)つても、その種類(しゆるゐ)は六百種(しゆ)からあつて、地球上(ちきうじやう)到(いた)る處(ところ)に分布(ぶんぷ)して居(ゐ)るが――あの小魚(こうを)には卵生(らんせい)のみならず、胎生(たいせい)のものもある。胎生(たいせい)のメダカは、或(あ)る特殊(とくしゆ)の交尾(かうび)をした場合(ばあひ)に限(かぎ)つて出來(でき)る。この事實(じじつ)は今(いま)から六七十年(ねん)も前(まへ)から、その研究者(けんきうしや)に依(よつ)て認(みと)められて居(ゐ)たのである。

 醫學史(いがくし)の研究者(けんきうしや)で、文學博士(ぶんがくはかせ)であり、又(また)醫學博士(いがくはかせ)であるA博士(はかせ)は、興味(きようみ)のある、而(そ)して奇怪(きくわい)な講演(かうえん)を續(つゞ)ける。

『既(すで)に卵生動物(らんせいどうぶつ)にして同時(どうじ)に胎生(たいせい)のものがある以上(いじやう)、胎生(たいせい)の動物(どうぶつ)にも亦(また)、一定(てい)の方法(はうはふ)に依(よつ)て卵生(らんせい)せしめ得(え)ない筈(はず)はないといふのが、本研究(ほんけんきう)の動機(どうき)であつた。それが單(たん)に學問上(がくもんじやう)の興味(きようみ)だけでは無(な)く、卵生(らんせい)も出來(でき)るとなれば人間(にんげん)に非常(ひじやう)に便利(べんり)なことが多(おほ)い。例(たと)へば早産兒(さうさんじ)は中々(なか/\)うまく育(そだ)てにくいが、卵生(らんせい)となれば月足(つきた)らずで生(うま)れても、後(あと)から鷄(にはとり)の樣(やう)にゆる/\と温(あたゝ)めて、慈愛(じあい)のこもつた母(はゝ)の懷(ふところ)でよく育(そだ)てることが出來(でき)るし、胎生(たいせい)となれば一般(ぱん)に分娩(ぶんべん)の苦痛(くつう)が大(おほ)きいのに反(はん)して、卵生(らんせい)となれば難産(なんざん)の如(ごと)きは跡(あと)を絶(た)つてしまふであらう。』

 一九九九年(ねん)の初夏(しよか)の空(そら)は、心地(こゝち)よく晴(は)れて、紺碧(こんぺき)の空(そら)には、眞(ま)つ白(しろ)な入道雲(にふだうぐも)がむく/\と出(で)て來(き)ては、時々(とき/″\)奇拔(きばつ)にその形(かたち)をかへて居(ゐ)た。カーテンを洩(も)れる光線(くわうせん)で明(あか)るい室内(しつない)には、溢(あふ)れんばかり多數(たすう)の聽衆(ちやうしう)が、熱心(ねつしん)な顏(かほ)を輝(かゞや)かしながら靜肅(せいしゆく)に聞(き)いて居(ゐ)る。A博士(はかせ)の話(はなし)はだん/\進(すゝ)んで行(ゆ)く。

『メダカの一種(しゆ)でマウス・ブリーデイング・フヰツシユといふのがあつて、それは卵(たまご)を生(う)むとすぐそれを自分(じぶん)の口(くち)の中(なか)に入(い)れて、口(くち)の中(なか)で孵化(ふくわ)させる。口(くち)の中(なか)で孵(かへ)つた魚(さかな)の赤(あか)ん坊(ばう)は、母親(はゝおや)の口(くち)の中(なか)で生活(せいくわつ)して居(ゐ)て、恰度(ちやうど)カンガールの仔(こ)が、母親(はゝおや)の腹(はら)のポケツトから出入(でいり)して居(ゐ)るのと同(おな)じ樣(やう)に、澤山(たくさん)の赤(あか)ん坊(ばう)が母(はゝ)の口(くち)から遊(あそ)びに出(で)て、恐(おそ)ろしいものにでも逢(あ)へば大(おほ)いそぎで、母(はゝ)の口(くち)に逃(に)げ込(こ)む。又(また)それと同(どう)一の趣向(しゆかう)で、ねばねばした液(えき)で泡(あわ)をこしらへて、その泡(あわ)の球(たま)の中(なか)に卵(たまご)を入(い)れる一種(しゆ)もある。その卵(たまご)も孵化後(ふくわご)暫(しばら)くの間(あひだ)は、前者(ぜんしや)の母(はゝ)の口(くち)と同樣(どうやう)に、泡(あわ)の球(たま)の中(なか)に住(す)み、球(たま)から出入(でいり)して遊(あそ)んで暮(くら)すさうである。こんな事實(じじつ)――それはメダカのみに例(れい)を取(と)つたのであるが――も、非常(ひじやう)に此(こ)の研究(けんきう)を促(うなが)す動機(どうき)となつたのであつた。

 その研究(けんきう)の經路(けいろ)は之(これ)を省(はぶ)かなければならないが、特殊(とくしゆ)の注射(ちうしや)を若干回(じやくかんくわい)施(ほどこ)すことに依(よ)つて、姙娠後(にんしんご)約(やく)二百五十日目(にちめ)に卵(たまご)――人間(にんげん)の卵(たまご)――として、人(ひと)の子(こ)を生(う)むことに海下博士(うみしたはかせ)が成功(せいこう)した。その卵(たまご)は母(はゝ)の懷中(ふところ)なり、攝氏(せつし)三十七度(ど)の孵卵器(ふらんき)の中(なか)なりで、一定時間後(ていじかんご)にはじめて呱々(こゝ)の聲(こゑ)を上(あ)げる次第(しだい)で、母(はゝ)をして毎回(まいくわい)約(やく)三十日間宛(にちかんづつ)、しかし腹(はら)の最(もつと)も大(おほ)きい、最(もつと)も苦痛(くつう)の多(おほ)い、而(しか)して外見上(ぐわいけんじやう)風姿(ふうし)の美(うつく)しくない時日(じじつ)から、解放(かいはう)した事(こと)丈(だけ)からでもこの研究(けんきう)は人類(じんるゐ)に非常(ひじやう)の幸福(かうふく)を齎(もたら)したものである。況(いは)んや、難産(なんざん)に依(よ)る兒童(じどう)の死亡(しばう)を防(ふせ)いだり、殊(こと)に二た子(ご)や三つ子(ご)等(など)の複姙(ふくにん)の場合(ばあひ)の子供(こども)に及(およ)ぼした重大(ぢうだい)な利益(りえき)等(など)、その結果(けつくわ)のよい事(こと)は中々(なか/\)數(かぞ)へ切(き)れない程(ほど)であつた。その研究(けんきう)が發表(はつぺう)されたのは恰度(ちやうど)一九――年(ねん)の四月(ぐわつ)であつたから――本當(ほんたう)ならば、今日(こんにち)に於(おい)てはそれが一層(そう)研究(けんきう)され、一層(そう)普及(ふきふ)され、且(か)つ利用(りよう)されて居(を)らなければならない筈(はず)なのである。然(しか)るにそれから僅(わづか)に○十年後(ねんご)の今日(こんにち)に生(せい)を享(う)けた諸君(しよくん)が、少(すこ)しもその事實(じじつ)を知(し)らないといふのは何故(なにゆゑ)であらうか。それが即(すなは)ち、私(わたし)の今日(こんにち)諸君(しよくん)に語(かた)らうとする主題(しゆだい)なのであります。』

 A博士(はかせ)は一寸(ちよつと)言葉(ことば)を切(き)つて、卓上(たくじやう)のコツプで咽喉(のど)をうるほした。

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