5話 悲壮劇の第一部 書斎(2)
読み方を変える
角鷹のようにあなたの命の根を啄く1635
「憂」をおもちゃにするのはお廃なさい。
最下等の人間とでも一しょにいたら、
人の中の人だと云うことがあなたにも感ぜられよう。
こう申したからとて、何もあなたを
下司の中へ連れ出そうと云うのではありません。1640
わたしはえらい人のお仲間ではない。
それでもあなたがわたしと一しょに
世間を渡って見ようと云う思召がありゃあ、
即座にわたしは甘んじて
あなたのものになってしまう。1645
まあ、兎に角お連になって見て、
わたしのする事がお気に入ったら、
御家隷にもなるですね。
ファウスト
そしてその代に己の方からどうすれば好いのだ。
メフィストフェレス
そりゃあまだ急ぐことはありません。1650
ファウスト
いやいや。悪魔は利己主義だから、
人の為になることを
容易に只でしてはくれまい、
条件をはっきり言って貰おう。
そう云う家隷は己の内へ危険を及ぼしそうだから。1655
メフィストフェレス
そんならこの世でわたしはあなたに身を委ねて、
休まずに頤で使われましょう。
そこであの世でお目に掛かった時は
あなたがあべこべに使われて下さるですね。
ファウスト
あの世なんぞは己は余り気にしない。1660
まあ、君がこの世界をこなごなに砕いたところで、
別の世界がその跡へ出来ようというものだ。
この大地から己の歓喜は涌く。
この日が己の苦痛を照す。
己がこの天地に別れてしまうことが出来たら、1665
それから先はどうにでもなるが好い。
未来に愛や憎があるか、
あの世にもまたこの世のように
上と下とがあるかなどと、
己は問うて見る気がないのだ。1670
メフィストフェレス
そう云うお考なら思い切ってお遣なさい。
お約束なさい。その上は早速
わたしの術を面白く御覧になることが出来ます。
まだ人間の見たことのない物を御覧に入れます。
ファウスト
ふん。悪魔風情が何を見せる積やら。1675
向上の道にいそしむ人間の霊が
君なんぞに分かった例があるかい。
腹の太らない馳走か、
水銀のようにころころと
間断なく手のうちで散る赤い金か、1680
勝つことのない博奕か、
己の懐に抱かれていながら
隣の男を流眄に見る女か、
隕石のように消えてしまう
名望の、神のような快さをでも授けるのか。1685
摘まぬ間に腐る果でも、日毎に若葉の
茂る木でも、見せるなら己に見せて貰おう。
メフィストフェレス
そんな御註文には驚きません。
そう云う珍物が御用とあれば差し上げる。
しかしそれよりは落ち著いて、何か旨い物を1690
食っていたいと云う時がおいおい近くなりますよ。
ファウスト
ふん。己が気楽になって安楽椅子に寝ようとしたら、
その時は己はどうなっても好い。
己を甘い詞で騙して
己に自惚の心を起させ、1695
己を快楽で賺すことが君に出来たら、
それが己の最終の日だ。
賭をしよう。
メフィストフェレス
宜しい。
ファウスト
容赦はならぬ。
己がある「刹那」に「まあ、待て、
お前は実に美しいから」と云ったら、1700
君は己を縛り上げてくれても好い。
己はそれきり滅びても好い。
葬の鐘が鳴るだろう。
君の奉公がおしまいになるだろう。
時計が止まって針が落ちるだろう。1705
己の一代はそれまでだ。
メフィストフェレス
だが好く考えて御覧なさい。聞いた事は忘れませんよ。
ファウスト
己は軽はずみに大胆に振舞いはせぬから、
どうぞしっかり覚えていて貰おう。
己が一所に停滞したら、己は奴隷だ。1710
君のにしろ、誰のにしろ。
メフィストフェレス
そんならきょうの卒業宴会に
早速御家隷の役をしましょう。
ただ一つ願いたいのは、後に間違のないように
一寸二三行書いて置いてお貰申しましょうか。1715
ファウスト
書物まで取るのかい。悪く堅い奴だな。
男同士の附合も男の詞の信用も知らないのか。
口で言った己の詞が永遠に己の生涯を
自由にすると云うだけでは不満足なのかい。
一体世界のあらゆる潮流は頃刻も息まないのに、1720
己だけが契約一つで繋がれていると云うのも変だ。
しかしそう云う迷は誰の心にも深く刻まれていて、
誰も好んでそれを霽そうとするものがない。
胸の中に清浄に信義を懐いているものは幸福だ。
そう云う人はどんな犠牲をも辞するものではない。1725
ところが、字を書いて印を押した巻紙を、
世間のものは皆化物のようにこわがっている。
いざ筆に上するとなると、一字一句にも気怯がする。
そりゃ用紙、そりゃ封蝋と、どなたもお持廻になる。
おい、悪霊。君は何がいるのだ。1730
紙に書くのか、革に書くのか、石や金に彫るのかい。
鉛筆か、鵝ペンか、それとも鑿で書けと云うのか。
己は君の註文どおりにするのだがね。
メフィストフェレス
何もそんなにむきになって誇張した
言草をしなくったって好いでしょう。1735
どんな紙切でも好いのです。
ただちょいと血を一滴出して署名して下さい。
ファウスト
それで君の気が済むことなら、
下らない為草だが異存はないよ。
メフィストフェレス
血という奴は兎に角特別な汁ですからね。1740
ファウスト
己が違約するだろうと云う御心配だけはいらぬ事だ。
平生力一ぱい遣って見ようと思っている事と、
君に約束する事とが一つなのだからね。
己は大きく丈高くなろうとして、ふくらみ過ぎた。
所詮君くらいの地位にいるはずの己だろう。1745
大なる霊は己を排斥して、
「自然」の戸は己の前に鎖された。
思量の糸は切れて、
あらゆる知識が嘔吐を催しそうになった。
どうぞ官能世界の深みに沈めて、1750
燃える情欲の渇を医してくれ給え。
未だかつて搴げられたことのない秘密の垂衣の背後に
一つ一つの奇蹟が己達の窺うのを待っている。
さあ、「時」の早瀬に、事件の推移の中に
この身を投げよう。1755
受用と痛苦と、
成就と失敗とが
あらん限の交錯をなして来るだろう。
活動して暫くも休まずにいてこそ男児だ。
メフィストフェレス
あなたにこれ程と云う尺度や、これまでと云う限界は示さない。1760
どうぞ到る処に撮食をして、
逃げしなに好い物を引っ手繰なさるが好い。
たんとお楽なさって、跡腹の病めないようになさい。
兎に角すばしこく手をお出なさい。ぼんやりしていないで。
ファウスト
いや。先っきも云うとおり己は快楽は貪らない。1765
最も悲しい受用に、受用のよろめきに身を委ねよう。
恋に迷う心の憎、爽快に伴う胸悪さに委ねよう。
物の識りたい欲を擲ったこの胸は、
これから甘んじてどんな苦痛をも迎えて、
人間全体の受くるべきはずのものを1770
この内の我で受けて味わって見よう。
この己の霊で人間の最上のもの深甚のものを捉えて、
歓喜をも苦痛をもこの胸の中に積んで、
この自我を即人生になるまで拡大して、
遂にはその人生と云うものと同じく、滅びて見よう。1775
メフィストフェレス
まあ、お聞なさい。わたしは何千年と云う間
この靭いお料理を噬んでいるから、知っています。
揺籃から棺桶までの道中に、
この先祖伝来の饅頭種をこなす奴はありませんよ。
わたしどもは知っています。この一切の御馳走は1780
神と云う奴でなくてはこなせない。
なんでもそいつが自分はいつも明るい所にいて、
わたしどもをいつも暗い所に置いて、
あなた方に夜昼を寝たり起きたりして過させるのだ。
ファウスト
しかし己は遣って見る。
メフィストフェレス
さあ、出来ないこともないでしょう。1785
だが、気になることが一つありますよ。
時は短くして道は長しですな。
お望の《かな》うような工夫をお授しましょうか。
一つ詩人と云う奴と結托なさるです。
そこでその先生が思想を馳騁して、1790
宇宙の物のあらゆる栄誉を
あなたの頭銜に持って来るのです。
胆大なること獅子の如く、
足早きこと鹿の如く、
血の熱することイタリア人の如く、1795
堅忍不抜は北辺の民の如しと云う工合です。
その先生にお頼なさって、宏量と狡智とを兼ねて、
温い青春の血を失わずに、
予定の計画どおりに恋をすると云う
秘法を授けてお貰なさるが好い。1800
わたしもそう云う先生にお近附になりたいのです。
そして小天地先生の尊号を上るですな。
ファウスト
しかしね、君。己が見聞覚知の限を尽して、
窮めようとしている人生の頂上が
窮められないものとしたら、己は一体何物だ。1805
メフィストフェレス
あなたですか。あなたは、さよう、やっぱりあなたですな。
何百万本の毛を植えた仮髪をお被なさっても、
何尺と云う高さの足駄をお穿なさっても、
所詮あなたはあなたですな。
ファウスト
己もどうもそんな気がする。人智の集めた宝の限を、1810
己はいたずらに身のまわりに掻き寄せて見た。
さてじっと据わって考えて見ても、
内から新しい力は涌いて出ぬ。
毛一本の幅程も己の身の丈は加っていぬ。
己は一歩も無極に近づいてはいぬ。1815
メフィストフェレス
いや、先生、それは通途の物の見ようで
物を御覧になると云うものだ。
生の喜が逃げ去らぬ間に、取る物を取ろうとするには、
も少し気の利いた手段をしなくてはいけません。
なに、べらぼうな。それは慥かにあなたの物と云うのは、1820
手足や頭やし□だけでしょう。
しかしなんでも自分が新しく受用すりゃあ、
それが自分の物でないとは云われません。
六匹の馬の代が払えたら、
その馬の力が自分のではないでしょうか。1825
そいつに駆けさせりゃあ、こっちは立派に
二十四本足のある男だ。
さあ、思い切って出掛けましょう。思案なんぞは廃にして
御一しょにまっしくらに世間へ飛び出して見ましょう。
わたしがあなたに言いますがね。理窟を考えている奴は、1830
牛や馬が悪魔に取り附かれて、草の無い野原を
圏なりに引き廻されているようなものです。
その外囲にはどこにも牧草が茂っているのに。
ファウスト
そこで手始にどうしろと云うのだ。
メフィストフェレス
出掛けるですね。
一体ここはなんと云う拷問所です。1835
こんな所で自分も退屈し、学生どもをも退屈させるのが、
生きていると云うものですか。
こんな事は御同僚の太っ腹に任せてお置なさい。
なんだって実の無い藁をいつまでも扱くのですか。
それにあなたに分かる学問の中で、一番大切な事は1840
学生どもには言うことが出来ないのでしょう。
そう云えば、さっきから廊下に一人来ているようですね。
ファウスト
今面会することは己には出来ないが。
メフィストフェレス
小僧大ぶ長く待っているのだから、
慰めて遣らずに帰すわけには行きますまい。1845
一寸その上衣と帽子とをわたしにお貸なさい。
こう云う服装はわたしには好く似合いそうです。
(メフィストフェレス著換ふ。)
これで好い。跡はわたしの頓智に任せてお置なさい。
十五分間もあれば沢山だ。
どうぞその隙に面白い旅の支度をして下さい。1850
(ファウスト退場。)
メフィストフェレス(ファウストの服装にて。)
へん。これからは人間最高の力だと云う
理性や学問を馬鹿にして、
幻術魔法によって、
偽の心を長ぜさせるが好い。
そうなりゃあ先生こっちのものだ。1855
なんの箝制も受けずに、前へ前へと進んで行く
精神を運命に授けられたので、
先生慌ただしい努力のために、
下界の快楽を飛び越して来たものだ。
これから己が先生を乱暴な生活、1860
平凡な俗事の中へ連れ込んで引き擦り廻し、
もがかせて、放さずに、こびり附かせて、
《あ》くことを知らない嗜欲の脣の前に、
旨い料理や旨い酒をみせびらかしてくれる。
先生医し難い渇に悶えるだろう。1865
そうなると、よしや悪魔に身を委ねていないでも、
破滅せずにはいられまいて。
一学生登場。
学生
わたくしはこの土地へたった今参ったばかりですが、
どこで承っても御高名な
先生にお目に掛かって、お話が伺いたいと存じまして、1870
わざわざ罷り出ましたのですが。
メフィストフェレス
これは御丁寧な挨拶で痛み入る。
わしも外に沢山いるとおりの並の男だ。
どうだね。少しはここらの様子を見たかね。
学生
どうぞ何分宜しくお願申します。1875
わたくしは体は丈夫で、学資もかなりありますし、
奮発して出て参ったものでございます。
母はなかなか手放しませんでしたが、
是非余所でしっかりした修行がいたしたいので。
メフィストフェレス
それは君丁度好い土地へ来られた。1880
学生
実の所はなんだかもう帰りたくなりました。
この高い石垣や広い建物を見ますと、
余り好い心持はいたしません。
なんだかこう窮屈らしい所で、
草や木のような青いものも見えませんし、1885
講堂に出て、ベンチに腰を掛けますと、
なんにも見えも聞えもしないで、頭さえぼんやりして来ます。
メフィストフェレス
それは習慣ですよ。
生れたばかりの赤子に乳を含ませると、
すぐには吸い附かないものだ。1890
少し立てば旨がって飲む。
それと同じ事で今に君も知識の乳房に
かじり附いて離れないようになるさ。
学生
それはわたくしも学問の懐に抱かれないのは山々です。
どうしたらそこへ到達することが出来ましょう。1895
メフィストフェレス
まあ、外の話は跡の事にして
何科に這入るつもりだか、それを言って見給え。
学生
ええ。わたくしはなんでもえらい学者になりたいのです。
下界の事から天上の事まで窮めまして、
自然と学問とに1900
通じたいと存じます。
メフィストフェレス
それは至極のお考だ。
しかし余所見をしては行けませんよ。
学生
それは体をも魂をも委ねて遣ります。
しかし愉快な暑中休暇なんぞには1905
少しは自由を得て暇潰な事も
遣られるようだと好いのですが。
メフィストフェレス
光陰は過ぎ易いものだから、時間を善用せんと行かん。
なんでも規律を立てて遣ると、時間が儲かるよ。
まあ、わしに御相談とあれば、1910
最初に論理学を聴くだね。
そこで君の精神が訓錬を受けて、
スパニアの長靴で腓腸を締め附けられたように、
思慮の道を
改めてゆっくり歩くようになるのだ。1915
燐火が空を飛ぶように、
縦横十文字に跳ね廻っては行かん。
それから暫くはこう云う教育を受ける。
譬えば勝手に飲食をするように、
これまで何事も一息に、無造做にしたのを、1920
一、二、三と秩序を経て遣るようにする。
一体思想の工場も
機屋の工場のようなもので、
一足踏めば千万本の糸が動いて、
梭は往ったり来たりする、1925
目に止まらずに糸を流れる、
一打打てば千万の交錯が出来ると云うわけだ。
哲学者と云う奴が出掛けて来て、
これはこうなくてはならんと、君に言って聞せる。
第一段がこうだ、第二段がこうだ。1930
それだから第三段、第四段がこうなくてはならん。
もし第一段、第二段がなかったら、
第三段、第四段は永久に有りようがないと云うのだ。
そんな理窟をどこの学生も難有がっている。
しかし誰も織屋になったものは無い。1935
誰でも何か活動している物質を認識しよう、
記述しようとするには、兎角精神を度外に置こうとする。
そこで一部分一部分は掌中に握っているが、
お気の毒ながら、精神的脈絡が通じていない。化学でそれを
エンヘイレエジス・ナツレエ、「自然処置」と称している。1940
自ら欺く詞で、どうして好いか知らぬのだ。
学生
どうも仰ゃる事が皆は分かりません。
メフィストフェレス
それは君が複雑な事を単一に戻して、
それぞれ部門に入れて考えるようになると、
おいおい今よりは好く分かるようになる。1945
学生
どうも頭の中で擣屋の車が廻っているようで、
ぼうっとしてまいりました。
メフィストフェレス
それから君、先ず何は措いても、
形而上学に取り掛からなくてはいかん。
なんでも人間の頭に嵌まりにくい事を、1950
あの学問で深邃に領略するのだね。
頭に這入る事を斥すにも、這入らない事を斥すにも
立派な術語が出来ていて重宝なわけだ。
それはまあ、後の事として、最初半年は
講義を聴く順序を旨く立てなくてはいかん。1955
毎日五時間の課程がある。
鐘の鳴る時ちゃんと講堂に出ていなくてはいかん。
聴く前に善く調べて置いて、
一章一章としっかり頭に入れて置くのだ。
そうすると、先生が本に書いてある事より外には1960
なんにも言わないのが、跡で好く分かって好い。
しかし筆記は勉強してしなくてはいかん。
聖霊が口ずから授けて下さると云う考でね。
学生
それは二度と仰ゃらなくっても好うございます。
筆記がどの位用に立つかと云うことは、好く分かっています。1965
なんでも白紙の上に黒い字で書いて置いたものは、
安心して内へ持って帰ることが出来ますから。
メフィストフェレス
ところで君、兎に角何科にするのだね。
学生
どうも法律学は遣りたくありません。
メフィストフェレス
わしもあの学科の現状は知っているから、1970
君が気の進まないのも無理とは思わない。
兎角法律制度なんと云うものは
永遠な病気のように遺伝して行く。
先祖から子孫へぐずぐずに譲り渡されて、
国から国へゆるゆると広められる。1975
そのうち道理が非理になって、仁政が秕政になる。
人は澆季には生れたくないものだ。
さて人間生れながらの権利となると、
惜いかなどこでも問題になっていない。
学生
そのお話で厭なのが益々厭になりました。1980
先生のお指図を受けるものは、実に為合です。
そこでわたくしは神学でも遣ろうかと存じますが。
メフィストフェレス
そうさな。君を方向に迷わせたくはない。
あの学問をして、
邪路に奔らないようにするのは、頗るむずかしいて。1985
あの中には毒と見えない毒が沢山隠れている。
それを薬と見分けることがほとんど不可能だ。
まあ、一番都合の好いのは、ただ一人の講義を聴いて、
その先生の詞どおりを堅く守っているのだね。
概して詞に、言句にたよるに限る。1990
そうすれば不惑の門戸から
堅固の堂宇に入ることが出来る。
学生
しかし先生、詞には概念がなくてはなりますまい。
メフィストフェレス
それはそうだ。だが、余り小心に考えて徒労をせぬが好い。
なぜと云うに、丁度概念の無い所へ、1995
詞が猶予なく差し出ているものだ。
詞で立派に議論が出来る。
詞で学問の系統が組み立てられる。
詞に都合好く信仰を托することが出来る。
詞の上ではグレシアのヨタの字一字も奪われない。2000
学生
どうも色々伺って先生のお暇を潰して済みませんが、
も少し御面倒を願いたいのでございます。
どうぞ医学はどんなものだと云うことについても
しっかりした御一言を承らせて下さいまし。
三年の学期は短いのに、2005
学問の範囲は実に広いのです。
先生がちょいと一言方針を御示下さいますと、
それにたよって探りながらでも進んで行かれましょう。
メフィストフェレス(独語。)
もうそろそろ乾燥無味な調子に厭きて来た。
ちと本色の悪魔で行って遣るかな。2010
(声高く。)
医学の要旨は造做もないものだよ。
君は大天地と小天地とを窮めるのだ。
そして詰まる所はやはり神の思召どおりに、
なるがままにさせて置くのさ。
君がいくらあちこち学問をしようとしてさまよっても、2015
それは駄目だ。てんでに学ばれる事しか学ばれない。
ところで、なんでも旨く機会を掴まえるのが、
それが本当の男と云うものだ。
見た所が、君は大ぶ体格が好い。
度胸もなくはないだろう。2020
そこで君に自信が出来て来ると、
世間の人も自然に君を信じて来るのだ。
殊に女を旨く扱うことを修行しなくては行けない。
女と云う奴はここが痛いの、かしこが苦しいのと、
いろいろな言葉の絶える時はない。2025
それがただ一箇所から直すことが出来るのだ。
そこで君がかなり真面目に遣って行くと、
女どもはみんな君の手の裏にまるめられてしまう。
なんでも学位か何かがあって、世間のいろいろな技術より
君の技術が優れていると信ぜさせるのが第一だ。2030
さてお客になって遣って来たら、人の何年も掛かって
障られない所々を、初対面の印にいじって遣る。
脈なんぞを旨く取るのだね。
そして細い腰が、どの位堅く締めてあるかと云うことを、
熱心らしい、狡猾そうな目附をして、2035
探って見て遣るのだね。
学生
そう云うお話なら、何をどうすると云うことが分かって結構です。
メフィストフェレス
兎に角君に教えるがね。一切の理論は灰いろで、
緑なのは黄金なす生活の木だ。
学生
正直に申しますが、わたくしはどうも夢を見ているようです。2040
また改めて先生のお説の極深い処を伺いに
参りましても宜しゅうございましょうか。
メフィストフェレス
なんでもわしに出来る事なら喜んでして上げる。
学生
恐れ入りますが、お暇乞をいたすには
この記念帖にお書入を願わなくてはなりません。2045
どうぞ先生の御眷顧を蒙りましたお印を。
メフィストフェレス
お易い事で。
(書きて渡す。)
学生(読む。)
エリチス・シイクト・デウス・スチエンテス・ボヌム・エット・マルム
(爾等知善与悪。則応如神。)
(恭しく帖を閉ぢて退場。)
メフィストフェレス
その古語の通にしろ。己の姪の蛇の云う通にしろ。
一度は貴様も自分が神のようなのがこわくなるだろう。2050
ファウスト登場。