7話 悲壮劇の第一部 ライプチヒなるアウエルバハの窖
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面白げなる連中の酒宴
フロッシュ
おい。誰も飲んだり、笑ったりせんか。
陰気な面をしていると、僕が承知しないぞ。
いつでも好く燃えるくせに、2075
きょうはなぜ湿った藁のようになっているのだ。
ブランデル
それは君のせいだ、君がなんにも提供しないからだ。
いつもの馬鹿げた事か、下卑た事を遣れば好い。
フロッシュ(ブランデルの頭の上に一杯の酒を澆ぐ。)
そんならこれでどっちも済まそう。
ブランデル
豕に倍した所行だ。
フロッシュ
君が下卑た事を遣れと云ったじゃないか。2080
ジイベル
誰でも喧嘩をする奴は、戸の外へ出て行け。
胸襟を開いてルンダ・ルンダでも歌わんか。飲め、騒げ。
さあ、遣れ遣れ。ホルラア。ホオ。
アルトマイエル
溜らない。参った参った。
誰か綿があるならくれえ。あいつのお蔭で聾になる。
ジイベル
馬鹿言え。天井が反響をする位でなくては、2085
バッソオの根本的威力は発揮せられないのだ。
フロッシュ
賛成々々。苦情を言う奴は逐い出してしまえ。
アア。タラ。ララ。ダア。
アルトマイエル
アア。タラ。ララ。ダア。
フロッシュ
さあ、吭の調子は合った。
(歌ふ。)
愛すべき、神聖なるロオマ帝国よ。2090
いかにして猶纔に維持せらるゝぞ。
ブランデル
厭な歌だなあ。いやはや。政治的の歌と来ている。
下らない歌だ。ロオマ帝国がどうなろうと構わない。
難有い身の上だと、君方は毎朝神に謝するが好い。
僕なんぞは国王でもなけりゃあ、宰相でもないのを、2095
兎に角よほどの利益だと思っている。
しかし我々だって首領なしではいられない。
さあいつもの法皇を選挙しようじゃないか。
どんな資格が大事だとか、その人を高めるとか云うことは、
君方は知っているなあ。2100
フロッシュ(歌ふ。)
飛び立てや、鶯。
恋人に言伝てよ、百千度。
ジイベル
恋人に言伝なんかいらん。そんな事は聞きたくない。
フロッシュ
恋人に言伝をする。キスをする。君のお世話にはならない。
(歌ふ。)
門の戸開けよ。静けき夜はに。2105
門の戸開けよ。風流男寝ず。
門の戸させ。朝まだきに。
ジイベル
ふん。沢山歌うが好い。あんな女を褒めるが好い。
今に僕の笑って遣る時が来る。
僕を騙した通に、今に君を騙すのだ。2110
あいつの色には地の精か何かがなって、
夜の四辻でふざけるが好い。
そこへブロッケンの山から駆けて帰る、年の寄った山羊の牡が
通り掛かって、あいつに今晩はと挨拶すると丁度好い。
正真正銘の血や肉を持っている立派な男は、2115
あいつの相手には惜しいのだ。
あいつに言伝なんぞをすることがあるものか。
窓に石でも打っ附けて遣るが好い。
ブランデル(卓の上を打つ。)
東西東西。僕の言うことを聞き給え。
僕が附合を心得ていることには、諸君同意だろう。2120
ここに女に迷った人達がいます。
その人達に今晩の告別に、身分相応の忠告を
僕がして遣ろうと思います。
東西。最新の調子の歌だぞ。
合唱の所をしっかり頼むぞ。2125
(歌ふ。)
牡鼠が穴倉に巣食って、
餌は脂にバタばかり。
ルテル先生見たように
でっぷり太ってしまった。
そいつにおさんが毒を飼った。2130
鼠は世間が狭うなった。
胸に恋でもあるように。
合唱者(讙呼する如く。)
胸に恋でもあるように。
ブランデル
そこらを廻って飛び出して、
どのどぶからも水を飲んだ。2135
かじる、引っ掻く、家中を。
どんなに荒れても駄目だった。
苦しまぎれに飛び上る。
とうとう程なく荒れ止んだ。
胸に恋でもあるように。2140
合唱者
胸に恋でもあるように。
ブランデル
昼の日なかによろよろと
台所まで駆けて出て、
竈の隅に打っ附かり、
びくつき、倒れて虫の息。2145
おさんは見附けて噴き出した。
お聞よ、笛の吹きじまい。
胸に恋でもあるように。
合唱者
胸に恋でもあるように。
ジイベル
凡俗どものあの面白がりようはどうだ。2150
可哀そうに。鼠に毒を食わせる位が
丁度好い働だろう。
ブランデル
君はひどく鼠が贔屓だね。
アルトマイエル
太っ腹の禿頭奴。
運が悪くて気が折れて、お情深くおなり遊ばした。2155
病み腫れた鼠の姿が
丁度先生そっくりだ。
ファウスト、メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
極面白がっている連中を
何より先にお目に掛けよう。これを御覧になると、
世間がどの位気楽に渡れると云うことがお分かりになる。2160
この連中にはどの日も同じ祭日です。
小才を利かせて、大満足をして、
尻尾を《くわ》えてくるくる廻る小猫のように、
てんでに狭い間を踊っています。
《かけ》が借りていられる間は、2165
頭痛でもする日の外は、
心配なしに楽んでいます。
ブランデル
そこに来た奴等の様子を見給え。
旅から来た奴等だと云うことがすぐ分かる。
まだ著いてから一時間も立つまい。2170
フロッシュ
なるほど、君の云う通だ。僕はライプチヒに謳歌する。
小パリイと云うだけあって、ここにいると品が好くなる。
ジイベル
君はあの旅人どもを何者だと思う。
フロッシュ
僕が行って来るから見てい給え。一杯飲ませて、
あいつ等の鼻の穴から蛆を引き出すのは、2175
子供の歯を抜くより優しいのだ。
なんでも好い家柄の奴には違ない。
高慢げで、そして物事に満足しない様子だから。
ブランデル
なに。僕は賭をしよう。あいつ等は山師だよ。
アルトマイエル
そうかも知れないなあ。
フロッシュ
気を附けて見ていろ。探を入れて遣るから。2180
メフィストフェレス(ファウストに。)
悪魔はあいつ等には分かりません。
うぬが領髪を攫まれていても分からないのです。
ファウスト
皆さん、今晩は。
ジイベル
今晩は。
(メフィストフェレスを横より覗き、小声にて。)
おや、あいつは片々の脚が短いようだぜ。
メフィストフェレス
どうでしょう。そちらへ割り込んでもお邪魔ではないでしょうか。2185
どうせ旨い酒なんぞはなさそうですから、
面白いお話でも代に伺いたいのですが。
アルトマイエル
君達は大ぶ口が奢っていると見えますね。
フロッシュ
君達はおお方リッパハの駅を遅く立ったのだろう。
あの駅のハンス君と一しょに夕飯を食ってから立ったのじゃないか。2190
メフィストフェレス
生憎きょうは逢わずに通って来ましたよ。
この前の度にわたし共が逢って話した時、
あなた方の事をいろいろ噂をしましてね、
どなたにも宜しく申してくれと云いましたよ。
(メフィストフェレスはこの詞と共にフロッシュに会釈す。)
アルトマイエル(小声にて。)
一本参ったな。向うが旨く遣りおった。
ジイベル
食えない奴だ。2195
フロッシュ
まあ、黙って見ていろ。今に遣っ附けるから。
メフィストフェレス
先刻大ぶお稽古の詰んだ声で
合唱をしていられたようでしたね。
ここでお歌いになったら、
あの円天井から旨く反響することでしょう。2200
フロッシュ
君達は音楽家ででもあるのかね。
メフィストフェレス
どういたしまして。下手の横好です。
アルトマイエル
何か一つ歌い給え。
メフィストフェレス
お望なら幾らでも歌います。
ジイベル
極新しいのでなくちゃあいけない。
メフィストフェレス
わたしどもは丁度スパニアから帰ったところです。2205
あそこは酒と歌を本場にしている美しい国ですからね。
(歌ふ。)
昔昔王がいた。
大きな蚤を持っていた。
フロッシュ
聞いたか。蚤だとよ。諸君分かったかい。
蚤と来ちゃあ、僕なんぞは随分清潔なお客だと思う。2210
メフィストフェレス(歌ふ。)
昔昔王がいた。
大きな蚤を持っていた。
自分の生ませた子のように
可哀がって飼っていた。
ある時服屋を呼んで来た。2215
服屋が早速遣って来た。
「この若殿の召すような
上衣とずぼんの寸を取れ。」
ブランデル
服屋に好くそう云わなくちゃいけないぜ。
寸尺を間違えないようにして、2220
笠の台が惜しけりゃあ、
ずぼんに襞の出来ないようにするのだ。
メフィストフェレス
天鵞絨為立、絹仕立、
仕立卸を著こなした。
上衣にゃ紐が附いている。2225
十字章さえ下げてある。
すぐ大臣を言い附かる。
大きな勲章をぶら下げる。
兄弟までも宮中で
立派なお役にあり附いた。2230
文官武官貴夫人が
参内すれば責められる。
お后さまでも宮女でも
ちくちく螫される、かじられる。
押さえてぶつりと潰したり、2235
掻いたりしては相成らぬ。
己達ならば蚤なぞが
ちょぴりと螫せばすぐ潰す。
合唱者(歓呼する如く。)
己達ならば蚤なぞが
ちょぴりと螫せばすぐ潰す。2240
フロッシュ
旨い旨い。こいつは好かった。
ジイベル
蚤なんぞはそんな風に遣っ附けべしだ。
ブランデル
指を伸ばして旨くつままなくちゃいかん。
アルトマイエル
自由万歳だ。酒万歳だ。
メフィストフェレス
わたくしも自由の光栄のために一杯飲みたいのですが、2245
それにつけてもも少し酒が好ければ好いと思いますよ。
ジイベル
そんな事は二度とは聞きたくないものだ。
メフィストフェレス
ここの主人が小言を言わない事なら、
わたくし共の酒蔵にあるのを、何か一つ
あなた方に献上したいのですが。2250
ジイベル
さあ、さあ、遠慮なしに出し給え。小言は僕が引き受ける。
フロッシュ
旨い奴を一杯飲ませてくれれば、僕は感謝するね。
ことわって置くが、あんまりぽっちりではいけない。
僕に利酒をさせようと云うには、
口へたっぷり一ぱい入れてくれなくちゃあ出来ない。2255
アルトマイエル(小声にて。)
なんでもあいつ等はライン地方の奴だぜ。僕の目利では。
メフィストフェレス
ちょいと錐を持って来させて下さい。
ブランデル
錐をなんにするのだね。
まさかその戸の外まで樽が来ているわけでもあるまい。
アルトマイエル
それ、あそこの背後に亭主が道具箱を置いている。
メフィストフェレス
(錐を手に取り、フロッシュに。)
あなたの飲みたい酒を伺いましょう。2260
フロッシュ
聞いてどうしようと云うのだね。そんなに色々あるのかね。
メフィストフェレス
どなたにもお望の酒を献じます。
アルトマイエル(フロッシュに。)
ははあ。君はもう口なめずりをし始めたな。
フロッシュ
宜しい。僕が所望して好いなら、ラインの葡萄酒にしよう。
なんでも本国産が一番の御馳走だ。2265
メフィストフェレス
(フロッシュの坐せる辺の卓の縁に、錐にて穴を揉みつゝ。)
少し蝋を取り寄せて下さい。すぐに栓をしなくちゃあ。
アルトマイエル
ははあ。手品だね。
メフィストフェレス(ブランデルに。)
そこであなたは。
ブランデル
僕はシャンパンにしよう。
好く泡の立つ奴でなくてはいけない。
(メフィストフェレス錐を揉む。一人蝋の栓を作りて塞ぐ。)
どうも外国産の物を絶待に避けるわけにはいかんて。2270
好い物が遠国に出来ることがあるからなあ。
本当のドイツ人はフランス人は好かないが、
フランスの酒なら喜んで飲むね。
ジイベル
(メフィストフェレスの坐せる辺に近づきつゝ。)
正直を言えば僕は酸っぱい酒は嫌だ。
僕には本物の甘い奴を一杯くれ給え。2275
メフィストフェレス(錐を揉む。)
そんならあなたの杯にはすぐトカイ酒を注がせます。
アルトマイエル
ねえ、君達、僕の方を真っ直に見て返事をし給え。
君達は僕なんぞを騙すのに違ない。
メフィストフェレス
飛んだ事です。あなた方のような立派なお客に
そんな事をするのは、少し冒険過ぎますからね。2280
お早く願います。どうぞ御遠慮なく仰ゃい。
どんな酒を献じましょう。
アルトマイエル
なんでも宜しい。うるさく問わないで下さい。
メフィストフェレス
(穴を悉く揉み畢り、栓をなしたる後、怪しげなる身振にて。)
「葡萄は葡萄の蔓になる。
角は山羊の額に生える。2285
酒は水で、葡萄は木だ。
木卓からも酒は涌く。
自然の奥を窺う一目。
これが奇蹟だ。信仰なされい。」
さあ、皆さん、栓を抜いて召し上がれ。2290
一同
(栓を抜けば各自の杯に所望の酒涌きて入るゆゑ。)
やあ。これは結構な噴水だ。
メフィストフェレス
兎に角飜さないように願います。
一同
(皆反覆して飲み、さて歌ふやうに。)
愉快だ、愉快だ。人の肉食う夷のように。
五百の豚の群の様に。
メフィストフェレス
御覧なさい。自由の民だ。あれが鼓腹の楽だ。2295
ファウスト
己はそろそろ行きたいがなあ。
メフィストフェレス
いや。これから気を附けて見ておいでなさい。
盛んに獣性が発揮せられるのですからね。
ジイベル
(手づつなる飲み様をし、酒を床に飜す。《ほのお》燃え立つ。)
助けてくれ。火事だ。助けてくれ。地獄が燃える。
メフィストフェレス(火に向ひて唱ふ。)
「鎮まれ。親しき一大。」2300
(人々に。)
まあ、こん度は一滴の業火で済みました。
ジイベル
これはなんだ。待て。只では済まんぞ。
全体我々をなんだと思っている。
フロッシュ
もう一遍あんな真似をして見ろ。
アルトマイエル
僕はこっそりあいつ等を追っ払ってしまおうと思うのだが。2305
ジイベル
おい。そこの先生。利いた風な。
我々の目を昏ます積か。
メフィストフェレス
黙れ。酒樽の古手奴。
ジイベル
なに。箒の柄が。
我々に失敬な事を言う積か。
ブランデル
待っていろ。拳骨が雨のように降るぞ。2310
アルトマイエル
(残りたる一つの栓を抜けば、火面を撲つ。)
やあ。僕は火傷をする。
ジイベル
魔法だ。
遣っ附けろ。そいつは無籍者だ。
(皆々小刀の鞘を払ひて、メフィストフェレスに掛かる。)
メフィストフェレス(真面目らしき態度にて。)
「仮現の形。虚妄の詞。
心を転じ、境を転ず。
ここにあれ。またかしこにあれ。」2315
(一同驚きて立ちをり、互に顔を見合す。)
アルトマイエル
ここはどこだ。好い景色だなあ。
フロッシュ
葡萄畑だ。本当か知らん。
ジイベル
それに葡萄に手が届く。
ブランデル
この青い屋根の下に
こんな好い蔓がある。こんな好い葡萄がある。
(ジイベルの鼻を撮む。外の人々も互に鼻を撮み合ひて、手に/\小刀を閃す。)
メフィストフェレス(同上の態度にて。)
「迷惑の輩。目を覆う巾を去れ。2320
記念せよ。魔の遊戯の奈何を。」
(ファウストと共に退場。人々互に手を放す。)
ジイベル
どうしたのだ。
アルトマイエル
これはどうだ。
フロッシュ
今のは君の鼻だったか。
ブランデル(ジイベルに。)
僕は君のを撮まんでいたのか。
アルトマイエル
なんだかこうぴりっと来て、節々に響いたようだ。
その椅子を借してくれ。僕は倒れそうだから。2325
フロッシュ
一体どうしたと云うのだろう。
ジイベル
あいつはどこへ行った。こん度見附けたら、
生かしては置かない積だ。
アルトマイエル
あいつが酒樽に騎って、この店の戸を出て行くのを
僕はこの目で見たよ。2330
僕は足が鉛にでもなったように重くてならない。
(卓の方へ向く。)
ああ。酒はまだ出るか知らん。
ジイベル
皆|《うそ》さ。目を昏ましたのだ。
フロッシュ
僕は実際酒を飲んでいるような気がしたが。
ブランデル
それはそうとあの葡萄はどうしたのだろう。2335
アルトマイエル
どうだい。これでは不思議と云うものがないとは云われまい。