4話 四
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この年の二月、森文部大臣が沖縄の学校を視に来られた頃は、師範学校の生徒中に、断髪した者は一人もなかった。その頃断髪したのは沖縄中に一、二名しかなかった。私は伊江朝貞君(日本キリスト教の宣教師)が師範学校の寄宿合に行って、富永先生(元の高等女学校長)に片髻を結って貰ったのを覚えている。
この結髪の師範生等が、靴をはき、鉄砲をかついで、中隊教練をやり始めたら、口さがなき京童は、「鉄砲かためて靴くまち、親の不幸やならんかや」と歌って、彼等を嘲けった。しばらくして、師範生中で桑江(元の佐敷校長)、奥平(菓子屋の主人)等五、六名のものが断髪したら、世間の人から売国奴として罵られた。ある時この連中が識名園に遊びに行くと、見物人が市をなして歩けないくらいであったということだ。ところがこれから一年も経って、二十一年の四月頃になると、師範生中には最早一人の結髪者も見えないようになった。
小学校で体操や唱歌や軍歌が始まったのもこの時だ。私は行軍の時にはいつでも「我は官軍」や「嗚呼正成よ」の音頭取をやらせられた。よほど後になって、首里の小学校では「昔唐土の朱文公」という軍歌をうたい出した。そうすると、那覇の小学校でも「一つとせ」という軍歌をやり始めた。
戸川先生は私にわざわざ那覇からつれて来たからには、一番になってくれないと困る、と言われたが、私は元来が懶ける性質なので、いつも五、六番位のところに落着いていた。そういう風に愚図愚図していたから、私はとうてい「ヤマトジフエー」なる先生の気に入る事は出来なかった。後で聞くと、先生は私の行末を悲観しておられたとのことだ。
その頃、私は出しゃばる癖があったが、某先生が修身の時間に「実の入らぬ首折れれ」という俚諺を説明して、私に諷刺をしたので、私は俄にだんまりになった。私は戸川先生の所に二年ほどいたが、先生の都合で中学の平尾先生の所に預けられた。
ある時私は本校生の真似をして、靴を買ってはいたら、あの子供は今に断髪をするだろう、といってそしられた。
この頃であったろう、学校から帰えると、私はいつも城の下に蝶々を採りにいったが、田村軍曹に蝶々二十匹位分捕されて泣いたこともあった。
私はこれから軍人が少々嫌いになった。平尾先生の所には一年位もいたが先生が先島に転任されたので、今度は家に帰って、毎日一里以上のところを通学するようになった。歳の若い私には、道が遠過ぎて、学校も自然欠席がちになった。そこで家では弟の乳母の子で私と同歳になる仁王という小僧を私に付てやったが、学校へ行くまねをして、よく八幡の寺の辺で遊んだものだ。私が名も知れない野生の花を摘んでいる間に、仁王は阿旦葉でラッパを造って吹いていた。この頃私の家にはいろいろの事件がおこった。私の身の上にも多少の変化がおこった。とにかくいろいろのことがあるのだけれども、それはそのうち都合のよい時、自分で素破抜くことにして、ここでは言わないことにする。