日本芸能史六講

2話 第二講

6,837字 約14分 2025年2月11日 公開

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日本の饗宴には、まつりの式とそれから後の違つた目的をもつた酒宴との形が、入り混つてゐます。つまり、新しい形と古い形とが混合して残つてゐるのです。だから、家で饗宴する時は、「洲浜(スハマ)」といふものを座敷に置き、後世になると、島台を座敷に置くといふことになりますが、近代流では、それが限定せられて婚礼の時しか行はれないところが多くなつてをります。

平安朝の日記類には、洲浜といふものが、饗宴に出て来ます。書いてないといふことは、必しも事実がないといふことばかりではありません。かへつてありすぎる平凡の事実だから書かれなかつた、といふ場合のあることも、注意しなければならぬと思ひます。だからといつて勿論、書かれてゐないことを、強ひてあるといふのではありません。

洲浜・島台を置くといふことは、つまり神の降臨せられる処を指定する標(シルシ)の山(ヤマ)だといふことです。更にいへば、神を、家の外から家内へ招び寄せる形でありますが、そこへ来臨する客神は、日本の古い語でいへばまれびとで、その少し変つた語形では、まらうどとも言はれます。

そしてこれが、客の中の主なる客です。それからこれについて来るものは、まれびとの伴(トモ)ですが、これには、特別の語はないやうです。それからこのまれびとに対して対蹠の位置にある人が、あるじです。このあるじといふ語は、我々は主人といふ風に考へ易いが、もとは饗応の御馳走のことを言うた語です。来客の為に準備しておいた御馳走を、その客にすゝめることをあるじすと言うてゐますが、御馳走をすゝめる役が、つまり主人だつたのでせう。そしてそのことから、主人をあるじと言ふやうになつたのです。或は宴会とか、饗宴するとかいふことも、あるじと言うてゐます。これで、饗宴の二つの主な役目は訣ると思ひますが、更に、このあるじとまれびととの間に介在してゐるもの――主として舞をまふもの――があります。

此が我が国の古い歴史にも、まひゞと或はまひゝめといふ形で、出てをります。これは、あるじ側のもので、まれびと側の者ではありません。饗宴の行はれてゐる家に、附属した人間です。と同時に、客神の来られる時に、家の周囲に居るもの、つまり神の下にゐるものがあります。

我が国の古い語でいふと、ものとか、たまとかいふ、つまりでもんはまれびとの力によつて、家又は土地に居るところの悪いものを屈服させてもらひたいといふ考へがありますが、その事をまれびとがして行つてくれます。従つて、こゝに於てまれびとを迎へた効果が、十分にあつた、といふことになります。それ故にまた、さういふことをしてもらふ為にまれびとを招く、といふ風になつて来ます。併し、もとのまれびとの側に立つて考へると、それは別なことです。

このまれびとなるものゝ実際は、別に何処から来た訣ではありません。やはり、其村人であつたに違ひありません。唯さういふものゝやうな形で出て来て、そのやうな手ぶりをするだけです。だからやはり普通の人間です。そこで、このまれびとが出て来るのには、まれびと側としては、それ自身の目的があつたのに違ひありません。だから村の大きな家々に対して、ある目的をもつて出て来る、といふことなのでせう。

その目的は、近代で凡、家の人をば教訓する、家人にものゝしめしをしに来る、といふ風に感じられてをります。しかし果してそんな目的で出てくるのかどうかわかりません。ともかく昔から来なければならぬ時が決つてをり、その時期になると、村の一部の人が村から離れて共同生活をし、さうしてそのまつりの日になつて、初めて遠い所から出て来たといふことになるのです。そして其の出て来る時には扮装して来るのですから、村人にとつては、現実の誰それといふことは訣らない訣なのです。

それが近頃まで残つた著しいものでは、極端になると、東北地方に多い、正月の晩に村々の家々を訪れる怪物のやうな、なまはぎなどになつて来ます。それでは唯恐ろしい感情だけが表面に出て来てゐますが、ともかくさういふ風なことを繰り返してゐるから、秘密であるが、村人としては誰それが仮装して出て来るといふことを、知つて来る訣であります。

而も村人の中、男と女とでは相冒されぬ約束で以て、知つてゐる知識があります。だからまつりにはある年齢に達した男だけが外へ出て行つて、さうして村の家々を訪問する訣です。しかし、古い厳粛な形は、一軒の大きな家の中であつたに違ひありません。同時に、村々の家々にさうして臨むといふことになると、それは普通の青年ではなく、相当の経歴をもち、力のあるものもゐるのだから、背後には指導者が居つたといふことになります。ともかくかやうにしてまつりに出て来たものが、まれびとであります。だからまたまれびと側の人数は多くて、主人側の人は非常に尠い、といふことになるのです。併し、さきにも申したやうに、このまつりの傍観者がだん/\と増えて来ます。障子に穴を明けて覗き込む子供達のやうに、羨ましげにまつりの場にやつて来る者がある訣です。だが、古い形では家は皆出払つてゐる訣で、それは場合によると稲の刈り上げまつり・にひなめまつりなどにも見られます。そこでは男は全部出はらつて、女があるじになつてゐたのです。

それは別として、饗宴の形は家の中ばかりでなく、外でも行はれることがあります。つまり庭の饗宴といふことですが、社会的に余り位置の高い家だと、まれびとが庭まで来て、家に上らないといふことがあります。

従つてそこでは、まれびとの位置が低く感じられることです。譬へば家といふことで申すと、宮廷です。宮廷は非常に尊い家ですから、来臨する神は、格が皆低くなります。だから庭で饗宴を受けて帰つてしまふ、といふことになつてゐます。其故にまた宮廷では、御主の代りを勤めるものがある訣です。そしてさうなると、まれびとの低いものが、だん/\来るやうにもなります。さうしてその結果は、その土地の精霊たちが出て来るやうに理会されて来ます。

つまり、非常に大いなる威力を有つ神が来ると考へられてゐたのが、何時のまにかその位置が顛倒して、位置の低い土地のすぴりつとやでもんが来る、といふ風に考へられて来ます。貴族の家、或は寺などを訪問するものは、凡、地位の低いものゝやうに考へられて居ます。

大切な門――中門まで来て、その家に上らずに帰つてしまふといふことも其一つですが、またその庭で宴を受けて帰るものゝ、極一部だけが座敷に上るといふこともあります。これを、私は放出(ハナチイデ)の饗宴と呼ぶことにしてゐます。つまり座敷は続いてゐるが、それは隔離された客座敷であります。具体的に平安朝の貴族の家から申しますれば、泉殿或は釣殿であります。つまり本屋の方からは池を距てることになりますが、その池の中に突出して作られてゐる客殿であります。

さうして饗宴に、来客を主人の居間の方に迎へないで、隔離されたこの客座敷に迎へるといふことを致します。

この泉殿が武家出の貴族の生活に発達して来ます。普通世間に贋物だと伝へられてゐる鎌倉御殿の絵図――鎌倉将軍の住んでゐた屋敷の構図なるもの――恐らくそれは鎌倉御殿の構図とは言へないでせう。それは室町将軍或は其頃の大名の家の構図が、番匠達に伝へられて来て、其中に贋物も出て来たのでせう。幾種類かの平面図が残つてゐます。――の中に泉殿の図があります。それは恰度客殿に対して、平安朝の家の構図から言ふと、寝殿(つまり本殿)というてゐますが、それを武家の屋敷では客殿といふ。つまり其客殿に庭を隔てゝ作り出されてゐるものが泉殿です。これがとりもなほさず舞台になる訣で、泉殿といふものがだん/\舞台に使はれて来たことがわかるのです。

この方は貴族の家で始終使つてゐる訣ではないから、家のまつりの時に用ゐる、といふこと位が関の山みたいになつてしまふでせう。これには神に対して近づきたくないといふ感情もあり、低い霊物を軽蔑してゐるといふ感じも出てゐます。つまり神が或種の妖怪味をもつて考へられて来てゐるといふことです。だから何かわからないが、家のまつりの最初に出てくる神は、凡、皆そんな感じで迎へられるやうになります。

つまり何故来られるか、といふもとの形が忘れられてしまつたのであります。ともかく芸能を行ふものとして、泉殿だけがはつきりと残つてゐます。他のものは大体忘れられてしまつたが、ただ饗宴も開くといふやうな時になると、まつりの形で宴会を開きます。

だから譬へば農村では、田植ゑの特にさなぶりといふやうな時には、田植ゑの後の饗宴――大きな家の田植ゑが済んで後のものを言うたのでせう――でありませうか、また漁師の村が大漁があると祝つたりしますが、さういふ時にほんたうの饗宴になる訣ですが、今はもう神を忘れてしまつてゐるものが多いのです。

つまり田植ゑに田に関係のある神が出て来るので、その神をねぎらふことで、大漁の時には海に関係ある神が出て来て饗を受けられるといふ、そのことが内容を変へ又忘れられて、人間としての横座の客、その他の客を迎へて宴会をするといふ形になつて来てゐるのです。

ともかく我々のもつてゐる饗宴は、たゞの書生の宴会でない限りは、何処かに、神を中心とする饗宴の名残が残つてゐます。のみならず、我々の書生の宴会でも、今日なほ芸廻しといふ風なことをします。これは、地方などに行けば、何処で習つたか訣らぬが、皆それ/″\心得をもつてゐます。

これもまつりの饗宴の際に行はれた「順の舞」の余風でせう。つまり、盃の順の舞です。これは一人々々が別なものを演じなくともよかつたので、ひとつ舞を、順々に舞うたのです。

従つてまた饗宴には、「見物」といふものは、純粋な意味ではありません。近代の生活では、家族が納戸から覗いたりしてゐますが、昔は、さういふものは出はらつてゐなければならなかつたのです。

つまり舞をまふことは、神に背かないといふことを前提としての行為なのですから、そこにはほんたうの見物人はあり得ないのです。後に発達して来た盆踊りを考へてみても、或は現在行はれる畿内近辺の湯立て神楽でも、東京近辺の里神楽でも、東北の山伏神楽でも、出雲・九州の神代神楽でも、いづれもほんたうの意味の見物人はありません。のみならず、そこにはほめことばとか、けなすあくたいの語があります。

ほめことばといふのは、歌舞妓芝居にも、見物の中から、花道・舞台などに上つて来て行ひますが、これは神楽にもある精神です。ともかく現代人は見物を期待しない芸能を考へられませんが、昔の形では、見物はないわけなのです。ところで見物を考へるに二つの拠り所があります。一つは神様が練つて来られるその道筋をみようとする、その時に神と無関係の位置に自分等のゐる場所を考へる。それが地位の高い人の為のさじきです。これは地上を離れてゐるといふ意味をもつてをり、地上から高く置いてある訣であります。だから須佐之男命が八俣大蛇を退治された時に垣の八つの門毎にさずきを結ばれたといふ風に書いてをりますが、要するに、さずき・さじきは、下に起つてゐることゝ没交渉に見て居られるところなのです。唯一つ失敗した例があります。

神功皇后が三韓征伐からお帰り遊ばされてからの斗賀野の祈狩(ウケヒガリ)の折に、さじきを拵へましたが、猪が走り登つて来て、坂(かごさか)王が咋ひ殺されたといふことです。これは神の為にのろはれた形なのでせう。神遊びの場合でもさうです。神様と没交渉に、其神秘な舞をみてゐるところなのです。

それから「もの見車」といふものが出来ますが、これは移動見物席です。或は平安朝時代の所謂祭(加茂祭)などでみても、祭の行列の練つてゐる処とは、没交渉の場所と考へられたのです。つまりその神様の御出でになるのに行き逢ふと、その年の間に死ぬとか、或は即座に死ぬとかいはれるやうに、ほんたうは家に籠つてゐる筈なのですが、都では早くから、物見するといふことが起つて来てゐるのです。そしてさういふ習慣が、都の場合に多く目に立つたといふことでせうが、神に対する畏れを考へ出してからのことであるといふことも、考慮の中に這入ります。

ともかく、相撲でも芝居でも、もとは野天で行はれたのに違ひないのだから、何処かにさじきが拵へられてある筈です。この上にあがつて、下に関係なく高見の見物をする人、これは又高い位置の見物です。かういふ風に見てゐるものは、その神と神をあへしらふ人との関係だとも、また傍観者だとも言へるが、我々にはまだ解決がつきません。

而も家を訪れるまれびとでも、その家の位置が高いと座敷に上らないで庭で饗宴を受けて帰るものがあつたやうに、それとは違ふが、客として待遇せられない訪問者があります。私はこれを招かれざる客といふ名をつけてゐますが、まつりをすると、羨ましがつて見に来るものがあつて、為方がないのです。つまり特定の神だけが招かれるので、他の下座の神が羨ましがつて、まつりの饗宴を覗きに来ます。三河の北設楽郡の山村に、今でも盛んに行はれてゐる花祭りには、その為に鉄砲を打つて、追ひ払ふといふところがあります。

天狗が出てくるのを追ふためだといふ風に説明されてゐますが、つまりそれはまつりに招かれざる客の来るのを防ぐ為でせう。この招かれざる客は何処でも来るやうですが、殊にそれが屋外の場合には沢山に来ます。盆なども、その年に最近く死んだ人が饗宴を受けに戻つて来る日であつた、と日本風に考へてよいのです。だからその饗宴を受けに来たものが、他の場合と同様に、主人をほめたり、家や厩をほめたり致します。念仏芸にこれが多いのです。やはりこゝにも、無縁仏といふものが、浮かばれずに一緒について来ます。これをまつらぬと邪魔をされるから、やはりまつるのであると思はれます。だから花祭りの行はれる三河の奥地から信州の南部の辺に行きますと、年の暮に正月の神がやつて来るのと前後して、やはり無縁仏みたいなものが来ます。それを村の人々は、饗応せぬと具合が悪いので、まつるわけです。従つて神楽の行はれる場所も、つまり家の中でもあるし、同時に家の外でもある訣で、さういふ所で、一つの饗宴が行はれてゐるのです。後の考へでは、御馳走づきの饗宴です。宮廷の御神楽では勧盃(ケンバイ)といふことがあるが、東北地方の芸能に劒舞(ケンバイ)といふものが残つてゐます。

これは劒舞とも書くやうになつたが、もとは舞の間に勧盃の行はれてゐたことから出て来たものに違ひありません。従つて度々酒が出たといふことが、考へられます。さういふものが、つまり芸能の行はれてゐる外に立つて、それを見てゐる訣ですが、これがまた、ほめたりけなしたりするのです。悪態をつくといふことは、江戸の神楽には早くから発達したやうで、文学にまで悪態趣味がつゞいてをり、江戸の文学が低くなつたのは、過度にそれが評価されて、途(ヅ)にのつた為でもあつたと思ひます。

かやうな訣で、我々は見物の発生をば、まつりの饗宴の招かれざる客から分化して来た、といふ風に見てゐます。ともかく日本の芸能では、初めから見物を予期してゐたかどうかといふことは、非常に問題になります。いはゞ饗宴から出発した芸能は、誰に見せようといふ目的はなかつた。ところがそれをみようといふ目的が出て来てから、見る者の位置が、その間に考へ出されて来た。招かれない客の位置が、だん/\見物を産み出して来たといふ方が、正しいかと思ひます。

その外に、偶然に見てゐたといふか、まつりに関係なく、唯おもしろがつて見てゐたなどゝ言ふことは、それは唯の偶然であるから、芸能史を学問としてみる場合、除外して考へなければなりません。

かやうにして発生して来たとすれば、芸能はどういふ目的をもつてゐたか、といふことは、頗疑はしくなります。

無意識の目的は大体考へることが出来る。簡単に言へば、それは一種の鎮め――鎮魂に出発して来てゐるやうに、思はれることであります。この鎮魂といふことは、外からよい魂を迎へて、人間の身体中に鎮定させるのが最初の形だと思ひますが、同時に又、魂が游離すると悪いものに触れるので、そこに病気などが起るといふことから、その悪いものを防がうとする形のものがあります。

これはシナにも、さういふ形がみられるやうであります。ともかく、威力をもつてそこらの精霊を抑へつけておくことが、家の中のまつりの饗宴の場合に行はれる。これが後に芸能になつたものゝ、通有の目的となるらしいのです。歌を謡ふといふことなども、歌に乗つて来るところの清らかな魂が、人間の身体の中に這入ることに、最初の目的があつたことは明らかです。だから目的は結局一つにしてよいが、二つの目的に対する芸能式の運動が分化して来る。その分化して来るもとが何であるか、そのうぶな形の芸能式の行動は何かといふことを、次に問題にしてみようと思ひます。

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