妖虫

2話 恐ろしき覗機関

3,911字 約8分 2021年10月21日 公開

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 相川守は、その翌晩の十一時頃、もう人影もない上野(うえの)公園の中をテクテク歩いていた。

 昼間は(ほか)の事に取りまぎれて、忘れるともなく忘れていたが、日が暮れて、夜が()けて行くに従って、彼の病癖と云ってもいい猟奇の心がムクムクと頭をもたげて、もうじっとしていられなくなった。彼は家人に云えば止められるに()まっているので、それとなく家を出て、(しばら)銀座(ぎんざ)で時間をつぶしてから、バスで上野公園へやって来たのだ。

 彼は暗い公園を歩きながら、彼のいささか突飛(とっぴ)な行動を弁護する様に、こんな事を考えていた。

(どう考え直して見ても、あれは小説の筋ではない様だ。青眼鏡の男は「あすの晩十二時」と云ったが、小説の筋を話す時に「あす」なんて云い方をする筈はない。「その翌日」と云うのが当り前だ。それに、あいつは空家の町名や位置を詳しく云っていたが、小説にしては、あんまりはっきりしすぎているではないか)

(たしか)めて見れば分るのだ。若し青眼鏡が云った位置に、実際そういう煉瓦塀の空家があれば、もう疑う所はない。煉瓦塀の住宅は非常に珍らしいのだし、小説の中へそんな実際の空家を取入れるなんて、考えられない事だ。ただその空家が実在するかどうかが問題なのだ。それが(すべ)てを決定するのだ)

 相川青年は、今夜は(わざ)と制服をさけて、黒っぽい背広に黒ソフトという出立(いでた)ちであったが、その黒い影が、公園を通りぬけ、桜木町から谷中の墓地へと、さも刑事探偵といった恰好(かっこう)で、歩いて行った。

 谷中天王寺町の辺は、大部分が墓地だけれど、墓地に接して少しばかり住宅が並んでいる。その中に、小さな仮小屋の様な煙草店(たばこみせ)があって、まだガラス戸の中に(あかり)明々(あかあか)とついていたので、そこで尋ねて見ると、

「アア、煉瓦塀の空家なら、この墓地を突き切った向側に、一軒だけポッツリ建っているアレのことでしょう。真直ぐにお()でなさればじき分りますよ。尤も暗いには暗うございますけれど」

 おかみさんが、丁寧に教えてくれた。

 相川青年は半信半疑でいた空家が実在のものだと分ると、何かしらハッとして心臓の辺が妙な感じであった。

「その(うち)は長く空いているのですか」

「エエ、もうずっと。私共がここへ引越して来る以前から、草茫々(ぼうぼう)の空家なんですよ。何だか存じませんけど、変な(うわさ)が立っている位なのでございますよ」

「変な噂って、化物屋敷とでもいう様な?」

「エエ、まあね。ホホホホホホホ」

 おかみさんは言葉を(にご)して、妙な笑い方をした。

愈々(いよいよ)そうだ。墓地と化物屋敷と人殺しと、なんてまあ巧みにも組合せたことだろう。サア守、お前はシッカリしなけりゃいけないぞ)

 彼はこれからの冒険を考えると、何となく恐ろしくもあったけれど、恐ろしければ恐ろしい丈け、彼の猟奇心はこよなき満足を感じた。

 煉瓦塀の空家までは、そこから墓地を通りぬけて二丁余りの距離であった。

 彼は用心深く、他人が見たら、彼自身が黒い(もの)()の様に感じられる事だろうと思いながら、態とその物の怪の歩き方をして、破れた煉瓦塀の前にたどりついた。

 眼が闇に慣れるに従って、星空の下の墓地や建物が、(うっす)りと見分けられた。

 その煉瓦塀は、所々煉瓦がくずれていた上に、昔門扉(もんぴ)があったと覚しき個所が、大きく、何かの口の様に開いて、その内部は、一面に足を(うず)める(くさむら)であった。

 相川青年は、見張りの者でもいはしないかと、闇をすかして確めてから、まるで忍術使いの様に、物の蔭を伝いながら、叢のそよぎにも注意して、煉瓦塀の中へと(すべ)り込んで行った。叢の中に、真黒な怪物が(うずくま)ってでもいる様に、和風の平屋が建っていたが、内部に人のいる様子もなく、物音は勿論(もちろん)、一点の光も見えなかった。

 相川青年は、叢にしゃがんで、身体で覆い隠す様にして、ライターをつけ、その光で腕時計を見た。十一時四十分だ。

 それから十二時までの二十分を、彼はどんなに長々しく感じた事であろう。彼は、叢の中の灌木(かんぼく)の蔭に身を隠して、煉瓦塀の口を()いた個所と、正面の建物とを、若しそこから何者かが入って来はしないか、若し家のどこかから光が()れはしないかと、そればかりを待ち構えていた。

 彼はそれ程真剣に凶事を待ち構えながら、何かしら夢を見ている様な、奇怪な遊戯に(ふけ)っている様な気持で、(しん)から、現実の人殺しなどを想像することは出来なかった。

 彼が警察の助力によって、事を未然に防ごうという気になれなかったのは、一つは猟奇者として秘密を惜しむ意味もあったけれど、主としてこの非現実的な、夢見心地からであったに違いない。

 一ヶ月程にも感じられた闇の中の二十分が、やがて経過した頃、正面の真黒な家屋に、縦に長い糸の様な線が三本、クッキリと現われた。

 誰かが屋内に燈火をつけたのだ。それが雨戸の隙間(すきま)から漏れているのだ。

 相川青年は、(ほとん)()う様にして、まるで一匹の黒犬の恰好で、その光を慕って近づいて行った。そして、注意深く内部の気配を(うかが)った上、一番太い雨戸の隙間に目を当てた。

 雨戸の(ほか)に障子もない荒屋(あばらや)なので、八畳程の部屋の向うの(ふすま)まで見通しであったが、隙間の幅が狭い(ため)に、左右は限られた範囲しか見ることが出来なかった。

 先ず目に入ったのは、裸蝋燭(ろうそく)らしい赤茶けた光に、チロチロと照らされている正面の襖と、その表面一杯に映っている、巨人の様な人間の、鳥打帽子(とりうちぼうし)らしいものを(かぶ)って、眼鏡をかけている横顔であった。それが(ほのお)のゆれるにつれて、伸びたり縮んだりしながら、異様に大きな唇を動かして、物を云っていた。

「サア、繩を解いてやったんだから、そうビクビクしていないで、もっと真中へ出て来るがいいじゃないか。姉さん、お前寒いのかい。いやに震えているね。ハハハハハハハハ」

 雨戸を隔てている為か、その声は異様に物凄く聞えた。

「オイ、それゃいけない。猿轡(さるぐつわ)を取るんじゃない。返事はしなくってもいいんだ。ただ(おれ)の云いつけ通り、こっちへ出て来りゃいいんだ。ヤイ、出て来ないか」

 猿轡をはめられている相手は、一体何者であろうと、好奇心に燃えながら見つめていると、細く区切られた眼界の、古畳の上に白いものが現われた。手だ。それから裸の(ひざ)だ。やっぱりそうだ。相手は若い女なのだ。手と膝小僧だけしか見えないけれど、この若い女は裸にされているのに違いない。

「オイ、山印(やまじるし)、これでよく見えるだろう」

 巨人の横顔が、山印という仲間に呼びかけたものらしい。

「ウン、見えるよ。すっかり見えるよ」

 それは一種名状(めいじょう)(がた)い、浪花節語りの様な嗄声(しわがれごえ)であった。そいつが、どこにいるのかは、ちょっと見当がつかなかった。女が部屋の真中に出て来ないと、よく見えない様な場所に坐ってでもいるらしい。

「思う存分見てやるがいい。こいつはお前の(かたき)なんだから」

「ウン、見ているよ。だが、そんなに坐っていたんじゃ面白くないね。突転(つっころ)ばしてやりなよ」

「又お(かぶ)を始めやがったな。ヨイショ、これでいいか」

 襖の横顔が突然消えて、黒いパンツを穿()いた一本の足が、雨戸の隙間を横ざまに(ひらめ)いたかと思うと、白い大きなものが、ドタリと投出す様に、畳の上に(よこた)わった。

 今度は女の胸から腰にかけての胴体の一部が、区切られて見える事になった。その胴体が俯伏(うつぶし)になって、観念したものの様に、じっと動かないでいた。艶々(つやつや)として恰好のいい身体だ。秋の初めではあるが、こう丸裸にされては(たま)らないだろうと、痛々しかった。

「ウフフフフフフフフ。気味がいいね。又歌おうか、あれを」

「歌うがいいよ」

 すると、突然、嗄声が実に下手な節廻しで、安来節を歌い出した。

 相川青年はそれを聞くと、脊筋(せすじ)を虫が這う感じで、ゾーッとしないではいられなかった。文句こそありふれた安来節だけれど、それはこの世のものではない。地獄の底から響いて来る、悪鬼の呪いの歌としか聞えなかった。

(あの声は一体どこから来るのだろう。その辺に坐っている人の様には思えないが)

 相川青年は不思議に耐えなかった。雨戸を隔てているばかりではない。その声と彼の耳との間には、何かもっと障害物があるらしい。その男には、女が部屋の真中へ出て来なければ見えないというのも、実に異様である。

(アッ、若しかしたらあの中にいるんじゃないかしら)

 襖の隣に、何かの自然木(じねんぼく)床柱(とこばしら)と、壁の落ちた(とこ)()の一部分とが見えているのだが、その床の間に、大型の支那(かばん)程もある頑丈な木箱が置いてあって、その三分一ばかりが視線の中に入っている。若しやあの木箱の、ここからは見えない部分に穴があけてあって、山印という奴は、そこから(のぞ)いているのではあるまいか。歌声は丁度その方角から聞えて来るのだ。

(イヤ、俺はどうかしているぞ。いくらなんでも、あんな窮屈な木箱の中に人間が入っているなんて、あんまり馬鹿馬鹿しい想像だ)

 相川青年は、彼の突飛な空想を(みずか)ら打消したが、あとになって分った所によると、彼は決して間違ってはいなかったのだ。その木箱の中には、やっぱり人間が入っていたに相違ないのだ。だが、それは一体全体何の必要があってであろう。

「サア、愈々日頃の恨みをはらす時が来た。姉さん、俺達の恨みが、どんなに深いものか、今見せてやるよ」

 最初襖に横顔を映していた奴の声だ。

 次の瞬間、何かしらサッと、稲妻の様なものが閃いたかと思うと、横わっていた肉塊(にくかい)が、非常な(いきおい)で飛上った。そして、どこかへ逃出そうとするものの様に、いきなり、丁度相川青年の覗いていた雨戸の隙間の方向へ二三歩よろめいた。殆ど一刹那(せつな)ではあったが、女の全身を見る事が出来た。

 相川青年はそれを見ると、思わずアッと叫び相になった。彼は女の顔を見たのだ。そして、その顔が決して彼の知らないものではなかったのだ。

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