惑ひ

2話

2,720字 約5分 2013年10月17日 公開

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 谷が失職してからもう二年になる。その間だん/\に苦しくなつて来る家の中の重荷は皆んな、自然に逸子にかゝつて来たのだつた。

 始めの内は、それでも、他の家の老人にくらべてはずつと物わかりのいゝ母親は、別に大してそれを気にするでもなかつたけれど、窮し方がひどくなつて来ると、流石(さすが)に耐へかねては、折々苦がい事を云ひ出すやうになつて来た。逸子はそれを聞く度びに、何とも云へない辛らさを感じながらも、それが無理とは決して思はなかつた。けれどもまた、人並以上にエゴイステイツクな谷が廿歳にも、なるかならないか位の時から、彼是十年もの間虐げられ続けて来た職業から離れて新らしく、何か自分の思ふ道に進んでゆかうとしてゐるのを見ると、逸子は一概にたゞ自分達が困るからと云つて就職を乞ひかねては、何とかして彼の仕事の方向が、彼自身で極まるまでと思つては、無理を続けて来たのだつた。

 と云つて、逸子にも一家の経済を持ちこたへる程のいゝ仕事がある訳では決してなかつた。彼女は、殆んど誰にも明かされぬ家の内情を明かして、龍一から、困るたびに可なりな補助を受けてゐた。けれど逸子にしても、何時までもいゝ気になつて、彼の補助を仰ぐのも、あまりに面目ない話だつた。彼女は、どうかして龍一の補助を受けないやうにしたいと思つた。しかも龍一の親切な心遣りも逸子の、逝つた旧師の恩恵が手伝つてゐる事を思ふと、つまらない、その場のがれの埋め合はせに利用する事が、一層苦しいのだつた。

 けれど、たまに少しばかり彼女の書くものゝ稿料と云つた処で何のたしにもならなかつた。それでも、例へわづかでも、金になると知つては、家の者は一切無頓着に、そればかりをあてにしてゐた。逸子にとつては、それがまた、どの位恐ろしい事だか分らなかつた。自分の書いた、未熟な、幼稚なもの――それを金に代へると云ふ事は、考へる程空おそろしい気がした。どんな事があつても、そんな事はしたくない。さう思ひながら家の者がそれを当てにしてゐる、そして、自分も、自分で金を得やうとすれば、それしか仕方がないのだと思ふと、逸子は、どうする事も出来ないやうな悲しみを感ずるのだつた。そしては、何とかの方法で金のとれるやうな事をしたい、タイプライタアでも教はらうか、雑誌記者にでもならうか、等と思つて見る。けれどそれはまた、それ/″\に今の逸子には見のがしのならない不都合が伴つてゐるのだつた。

 時々は、逸子も困り切つて、どうする事も出来ないやうな事があつた。

『もう、此度ばかりは私にもどうも出来ませんから、あなたが何とかして下さいな、何とか都合して貰へないと、本当に困るんですよ』

『うむ』

 さう云つた()り、彼は何時でも落ちつき払つてゐた。

『どうするつもりなんです。』

 だん/\苦しくなつて催促すると

『どうつて仕様がないんだもの。』

彼はさう云つてすましてゐた。此度(こんど)こそ此度こそと思ひながら、彼の呑気さには負けて、何時でも、母親と逸子として、何とか彼とか無理を続けるのだつた。

 それでも、逸子は、むきになつて彼に就職を強ひる事は出来なかつた。彼は二度ともとの仕事に返る気はなかつたし、逸子もその仕事が彼を一番苦しめるいろ/\な束縛や情実の多い事を考へると、すゝめる気にはなれなかつた。と云つて、彼にはいくらかの語学の素養があるだけで、他に役立つやうな能はまるでなかつた。その上、他人と一緒に仕事をする等と云ふ事も出来ないやうな多くの素質を持つてゐた。偶々(たまたま)どうかして手にはいつた翻訳の仕事さへ、興味のない内容のものだと、直ぐに苦痛を訴へるのだつた。と云つて、彼の面白がつてやるやうなものはまるで金にはならない。大抵の事には同情して出来る丈け無理な働き方はさせないで済ましたいと思つてゐる逸子にも、どうかすると、彼の態度が横着に見える事さへあつた。殊に逸子の、苦しい無理を察しては、慰さめ顔に染々(しみじみ)と話しかけたりする時のやさしい、(しお)れた母親を見ると逸子は、谷がさうしてゐる為めに、母親としては、自分にも、また他人へも、しないでも済む気がねも多かつたりするだらうと思ふと、谷に対する自分の同情や、かばひ立てが、浅薄な自身に対する、また二人の愛に対するみえだけで、却つてそれが、他の者でも、また、自身をも苦しめる間違つた態度ではないかとさへ疑ぐり度くなるのだつた。それには、もう二年間も、さうして彼の様子を見てゐても、彼自身で別に、どうと云つて深く将来のことを考へてゐる様子も見えないし、現在の皆んなの苦しみにも左程動かされてもゐないらしい様子で、逸子にさへも彼がどう云ふ気でゐるのだらうと怪しまれて来るのだつた。けれどまた彼が、自分から()うと極めるまでは、他からいくら強ひた処で無駄だと云ふ事もよく解つてゐた、結局、

『自分がどんなに黙つてゐたからとて、どの位の無理をしてゐるか位は、彼にだつて解らない筈はないのだから、何時まで、()のやうでもゐまい。彼の気持が、ひとりでに動くまでは仕方がない。』

 さう思ひ返しては黙つてゐた。しかし、此の頃では何んだか、自分の体さへもてあつかつてゐるやうに見え始めた彼が、果してどの程度まで、自分の事を支へてゐるかは矢張り、出来る()け立ち入るまいとしてゐる彼女も気になつた。とう/\機会を捉へて聞いた。

『ねえ、あなたはこの先き、何を一体やつて行く気なのです。何かしやうと思ふ事は極まつてゐるのですか。』

『さあ、その何をしやうかと云ふ事が、本当にまだ極まらないんだ。()やうとすれば何だつて新しく始めから出直すんだからなあ、何がいゝんだか解らないんだよ。俺にや、とても文学は望みがないし、音楽をやるかな、それにしても、なか/\飯にはならないからな。本当を云へば俺は尺八でも吹いて、ひとりで、放浪したいんだよ。何しろ俺はそんな事を考へる大切な時代には、食の為めに、一生懸命だつたんだからなあ、今になつて考へると馬鹿々々しくて仕方がない。まあ、もう少し考へさしてくれ』

 さう云はれると逸子は取りつき端もない心細さを感じるのだつた。彼も、自分もまだ一人前の人間ぢやない、自分達の歩く道さへ極まつてはゐないのだ。満足にたべて行くことさへ出来ないのだ。それだのに、子供を連れて、年老つた母親にすがられて、どう彷徨しなければならないのだらう? これから先きまだ、どんなに母親を苦しめ、自分達も苦しまなければならない事か? 考へつめてゆくと逸子の眼にはその将来の惨めさに対する涙がしみ出すのだつた。

『このまゝでは仕方がない。何うにかしなければ』

 さう云ふ漠然とした、けれど性急な焦慮が直ぐ後からも真向からも迫つて来るのだつた。

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