2話 二
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二三日前――此処に帰りついた次の朝早く――松原の中で、私は其のお化けのやうに影のうすい異様な姿をした、汚らしい芳公の母親に遇つたのでした。
其の朝は、特にうすら寒くて、セルに袷羽織を重ねてもまだ膚寒い程でした。私はまだ日の上らない前に珍らしく床をぬけ出して、海辺に出ました。海は些の微動もない位によく和いでゐました。何時もは直ぐ目の前に見える島も岬も立ちこめたもやの中に、ぼんやりと遠く見えて、海も松原も一面にしつとりとした水気を含んだ朝の空気につゝまれて静まり返つてゐました。私は足の下でかすかに音をたててゐる砂の音を聞くともなく聞きながら松原を出て渚に降りて行きました。小舟は静かに浮いて居ました。そして汀の水は申訳ばかりにピチヤ/\とあるかないか分らない程の音をたてゝゐます。私は出来るだけゆつくりその汀を歩いて東の方のはづれの砂浜がずつと広くなつた河尻まで行きました。私が引き返し初めた頃には長い/\その渚の彼方此方に黒い小さく見える人影がありました。私は本当に久しぶりで朝の海辺のすが/\しい気持を貪りながら高い砂浜を上つたり降りたりして家の方に帰つて来ました。
私が丁度家の直ぐ下の渚から松原へ上らうとした時に、ふと其処の松の木に背をもたせるやうにして立つた一人の老婆を見出しました。もぢや/\と頭を覆ふた白髪、生きた色つやを失つた黄色く濁つた其の皺深い顔の皮膚、放心したやうな光りを失つた眼、両端が深く垂れた大きく結んだ口、私はその老婆の顔を見た瞬間にゾツとして眉をよせた事を覚えてゐます。
『まア、まだ生きてゐるのだ!』
私は浅ましい彼女の長生きに呆れました。彼女は今はもうゴツ/\の硬い骨の上をたゞ一枚の皮が覆ふてゐるにすぎないのでありました。枯木のやうな体にはうすよごれた単衣とぼろを綴ぢ合はせた見るからに重さうなものを着てゐました。そして彼女はぼんやりと沖の方を眺めてゐました。私は其の老婆を見た瞬間に、五六年も前に見たまだ確かりしてゐた彼女の姿と、それから現在の年齢を同時と云つてもいゝ早さで思い出しました。彼女は確かにもう八十は過ぎてゐました。此のお化けのやうな気味悪い老婆も、彼女がまだ確つかりしてゐた時分には、私には親しみのあるいゝ婆さんだつたのです。その、私の老婆に対して持つてゐる親しみは直ぐに私の気味悪さを押し退けました。私は老婆に久しぶりな微笑を送りました。しかし老婆はもう私の顔を思ひ出す気力も失くしたのかそのにぶい眼をぼんやり私の方に向けたまゝで、何んの表情も見せませんでした。私は再び気味が悪くなつて急いで家にはいりました。
そのすべての精力が枯れつくしたやうに見えた老婆が今其の大きな息子を折檻してゐる。私は軽い驚きをもつてそれを見てゐました。
やがて鈍い足どりで私の祖母が其処に近づいて何か云ひながら老婆を小屋の中に送り込みました。
『何うしたんです?』
私は帰つて来た祖母の顔を見ると直ぐ聞きました。
『何あに、芳公が子供達にからかはれたもんだから婆さんがまたかんしやくを起したんだよ。あの又芳公が子供達には手向ひが出来ないで帰つて来ちやあ婆さんに当るもんだからつい婆さんも怒るんだよ』
『へえ、うちに帰つて来て婆さんに当るのはおかしいわね。親と他人の区別位は矢張り分るんですねえ』
『それやあお前いくら馬鹿だつて――。あんな片輪者の親にしちや婆さんがちつと勝気すぎる。』
祖母は独り言のやうにさう云つてまた小切れを拡げました。
『もとはあのお婆さん随分勝気らしかつたけど、もうあゝなつちや駄目でせう。私つい二三日前あの婆さんに遇つたんですけども、もうまるで生きてる人のやうぢやないぢやありませんか。私の顔だつてもう分らなかつたやうですよ』
私はあの影のうすい婆さんの姿を思ひ出しながら祖母に云ひました。
『何あにお前、体はあゝでも、まだ気はなか/\確かだから。八十からになる婆さんとはとても思へないね』
『へえ』
私はどんよりしたにぶい眼の色の何処に昔の婆さんらしい意地が残つてゐるのだらうと不思議に思はずにはゐられませんでした。祖母は眼鏡をかけながら
『婆さんの気丈なのも真似が出来ないけれど、あんまりきつい気だから倍も苦労しなきやならない。あんなに長生きをしても何時までも業を見るのでは何んにもならない』
ひとり言のやうにさう云ひながら針のめどをすかして見るのでした。
私の頭の中には、まだとても七十近いなどとは思へない程肉付きのいゝ確つかりした足どりで歩く婆さんの姿がうつりました。私の祖母が十も若くて、丈夫だ/\と云はれながら歯もろくに役立たず、家の中で因循な動作をしてゐるのから見ると、婆さんは祖母よりは却つて十も若い者よりはもつと確つかりした働きをしてゐたかもしれません。彼女は誰にも腰の低い愛想のいゝ悧巧な女でした。しかし、私が最初にその婆さんの恐ろしい意地つ張りを見たのはその婆さんの娘に対してでした。
婆さんの娘は、私の家の三四軒先きの石屋のかみさんでした。そのかみさんが狐につかれたと云ふ噂が拡がりました。私達は恐がつて一しきり其の家のまはりに寄りつきませんでした。色の蒼い眼の釣り上つたヒステリツクな顔や、ひよろ長い体を私は二度ばかり見ましたけれど、二度とも、もう決して見まいと思つた程凄い印象を受けたのでした。
けれども、其の後だん/\内儀さんは狂ひ出して、手のつけやうのない程暴れ出すやうになりました。
何んとも云ひやうのない苦しそうな圧されるやうな嫌やな呻き声がするかと思ふと突然甲走つた息も絶え/\な泣き声がします。さうかと思ふと、ぞつとするやうなマニアツクな引つゝれるやうな笑ひがとめどもなく続きます。私達子供は、不思議な恐いもの見たさの好奇心から石屋の家に近づきます。けれど初めのうちは皆んな進んでその中を見やうとする気はありませんでした。しかしだん/\その不思議な声だけでは満足が出来ずに何時か其処の戸のふし穴や障子の破れからそつと覗くことを覚えました。其処には、紐でギリ/\手も足も縛られた内儀さんがころがされてゐます。白髪頭をふり乱した婆さんがその細い病人の体を長煙管をふり上げて所きらはずピシ/\打ち据えてゐました。最初に覗いた時に眼にうつつた此の光景は私の頭に深くしみ込んでゐました。私は当座夢の中にさへ度々その光景や叫び泣きの声に脅やかされた程でした。
或時はまた、寒い北風の吹く中で井戸端の立木に内儀さんは後ろ手にゆはへつけられてゐました。婆さんは井戸から水を汲み上げては自分もかゝりながら内儀さんの頭からザアザア浴びせかけては『これでも出ないか』『まだゆかないか』と責めてゐました。冷たい水を掛けられる度びに病人のあげる悲鳴が長いこと近所の人を悩ましました。私の母はその声に驚いて馳けつけて、その光景を見ると寒気がすると云つて寝込んだ程でした。
婆さんはそれでも未だ足りないと見て此度は病人の口から一切の食物を奪ひました。さうして夜昼責め続けました。婆さんは狐を逐ひ出す為めには、可愛いゝ娘の肉体を責める位は当然の事と思つてゐました。若し其の為めに死んだ処で仕方がないとまで云ひ張つてゐました。人間がけだものに馬鹿にされてゐるよりは死んだ方がいゝと云ふ主張でした。誰も彼もが婆さんの『気丈』に驚くよりは怖れてゐました。一年ばかりさう云ふ事が続いた末、内儀さんは遂々死んでしまひました。婆さんは死ぬる際まで狐に対する苛責の手を少しもゆるめませんでした。近所の人達は、死人に同情のあまり婆さんに責め殺されたのだとさへ云ひ合つてゐました。しかし婆さんは平気でした。涙一滴こぼさずに甲斐々々しく後始末の為めに働きました。そして芳公と二人で百姓の手伝ひをしたり、小間物の行商をしたりして若い者の到底及びもつかない働きぶりを見せてゐました。
婆さんが弱り始めたのは二三年前からでした。さうして誰の世話にもならず、馬鹿の芳公が働いて来る僅かな金に貯蓄した分をたしては此の二三年をしのいで来たのださうです。婆さんは、さうした貧しい暮らしの中からでも他人の世話にはなるまい為めの可なりな貯蓄を持つてゐたのださうです。しかしそれにしても、半病人の婆さんの惨めな生活に同情して、たつた一人の孫が兵隊に行つたのを皆んなで奔走して帰して貰つて、婆さんの面倒を見さす事にしました。しかしその孫が帰つて来ると直ぐ、
『ありがたい事だ。けれど、未だもつとどうしても介抱して貰はねばならないやうになる迄精出して働いて来い』
と云つて追ひ出して了つたさうです。近所の人も、婆さんは終には何うしても他人の世話にならなくちやならないやうになつたら舌でも噛んで死ぬのだらうなどと云ひ合つてゐました。