1話 一
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「はい、貴客もしお熱いのを、お一つ召上りませぬか、何ぞお食りなされて下さりまし。」
伊勢国古市から内宮へ、ここぞ相の山の此方に、灯の淋しい茶店。名物赤福餅の旗、如月のはじめ三日の夜嵐に、はたはたと軒を揺り、じりじりと油が減って、早や十二時に垂とするのに、客はまだ帰りそうにもしないから、その年紀頃といい、容子といい、今時の品の可い学生風、しかも口数を利かぬ青年なり、とても話対手にはなるまい、またしないであろうと、断念めていた婆々が、堪り兼ねてまず物優しく言葉をかけた。
宵から、灯も人声も、往来の脚も、この前あたりがちょうど切目で、後へ一町、前へ三町、そこにもかしこにも両側の商家軒を並べ、半襟と前垂の美しい、姐さんが袂を連ねて、式のごとく、お茶あがりまし、お休みなさりまし、お飯上りまし、お饂飩もござりますと、媚めかしく呼ぶ中を、頬冠やら、高帽やら、菅笠を被ったのもあり、脚絆がけに借下駄で、革鞄を提げたものもあり、五人づれやら、手を曳いたの、一人で大手を振るもあり、笑い興ずるぞめきに交って、トンカチリと楊弓聞え、諸白を燗する家ごとの煙、両側の廂を籠めて、処柄とて春霞、神風に靉靆く風情、灯の影も深く、浅く、奥に、表に、千鳥がけに、ちらちらちらちら、吸殻も三ツ四ツ、地に溢れて真赤な夜道を、人脚繁き賑かさ。
花の中なる枯木と観じて、独り寂寞として茶を煮る媼、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の後胤か、北畠殿の落武者か、お杉お玉の親類の筈を、思いもかけぬ上客一人、引手夥多の彼処を抜けて、目の寄る前途へ行き抜けもせず、立寄ってくれたので、国主に見出されたほど、はじめ大喜びであったのが、灯が消え、犬が吠え、こうまた寒い風を、欠伸で吸うようになっても、まだ出掛けそうな様子も見えぬので。
「いかがでございます、お酌をいたしましょうか。」
「いや、構わんでも可い、大層お邪魔をするね。」
ともの優しい、客は年の頃二十八九、眉目秀麗、瀟洒な風采、鼠の背広に、同一色の濃い外套をひしと絡うて、茶の中折を真深う、顔を粛ましげに、脱がずにいた。もしこの冠物が黒かったら、余り頬が白くって、病人らしく見えたであろう。
こっくりした色に配してさえ、寒さのせいか、屈託でもあるか、顔の色が好くないのである。銚子は二本ばかり、早くから並んでいるのに。
赤福の餅の盆、煮染の皿も差置いたが、猪口も数を累ねず、食べるものも、かの神路山の杉箸を割ったばかり。
客は丁字形に二つ並べた、奥の方の縁台に腰をかけて、掌で項を圧えて、俯向いたり、腕を拱いて考えたり、足を投げて横ざまに長くなったり、小さなしかも古びた茶店の、薄暗い隅なる方に、その挙動も朦朧として、身動をするのが、余所目にはまるで寝返をするようであった。
また寝られてなろうか!
「あれ、お客様まだこっちのお銚子もまるでお手が着きませぬ。」
と婆々は片づけにかかる気で、前の銚子を傍へ除けようとして心付く、まだずッしりと手に応えて重い。
「お燗を直しましょうでござりますか。」
顔を覗き込むがごとくに土間に立った、物腰のしとやかな、婆々は、客の胸のあたりへその白髪頭を差出したので、面を背けるようにして、客は外の方を視めると、店頭の釜に突込んで諸白の燗をする、大きな白丁の、中が少くなったが斜めに浮いて見える、上なる天井から、むッくりと垂れて、一つ、くるりと巻いたのは、蛸の脚、夜の色濃かに、寒さに凍てたか、いぼが蒼い。