伊勢之巻

1話

1,424字 約3分 2006年3月17日 公開

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「はい、貴客(あなた)もしお熱いのを、お一つ召上りませぬか、何ぞお(あが)りなされて下さりまし。」

 伊勢国古市(ふるいち)から内宮(ないぐう)へ、ここぞ(あい)の山の此方(こなた)に、(ともしび)の淋しい茶店。名物赤福餅(あかふくもち)の旗、如月(きさらぎ)のはじめ三日の夜嵐に、はたはたと軒を(ゆす)り、じりじりと油が減って、早や十二時に(なんなん)とするのに、客はまだ帰りそうにもしないから、その年紀頃(としごろ)といい、容子(ようす)といい、今時の品の()い学生風、しかも口数を利かぬ青年なり、とても話対手(はなしあいて)にはなるまい、またしないであろうと、断念(あきら)めていた婆々(ばば)が、(たま)り兼ねてまず物優しく言葉をかけた。

 宵から、灯も人声も、往来(ゆきき)の脚も、この前あたりがちょうど切目で、後へ一町、前へ三町、そこにもかしこにも両側の商家軒を並べ、半襟と前垂(まえだれ)の美しい、(ねえ)さんが(たもと)を連ねて、(かた)のごとく、お茶あがりまし、お休みなさりまし、お(まんま)上りまし、お饂飩(うどん)もござりますと、(なま)めかしく呼ぶ中を、頬冠(ほっかむり)やら、高帽やら、菅笠(すげがさ)(かぶ)ったのもあり、脚絆(きゃはん)がけに借下駄(かりげた)で、革鞄(かばん)を提げたものもあり、五人づれやら、手を()いたの、一人で大手を振るもあり、笑い興ずるぞめきに(まじ)って、トンカチリと楊弓(ようきゅう)聞え、諸白(もろはく)(かん)する()ごとの煙、両側の(ひさし)()めて、処柄(ところがら)とて春霞(はるがすみ)、神風に靉靆(たなび)く風情、()の影も深く、浅く、奥に、表に、千鳥がけに、ちらちらちらちら、吸殻も三ツ四ツ、(つち)(こぼ)れて真赤(まっか)な夜道を、人脚(しげ)(にぎや)かさ。

 花の中なる枯木(こぼく)と観じて、独り寂寞(じゃくまく)として茶を煮る(おうな)、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の後胤(こういん)か、北畠(きたばたけ)殿の落武者か、お杉お玉の親類の(はず)を、思いもかけぬ上客(じょうかく)(にん)引手夥多(ひくてあまた)彼処(かしこ)を抜けて、目の寄る前途(さき)()き抜けもせず、立寄ってくれたので、国主(こくしゅ)見出(みいだ)されたほど、はじめ大喜びであったのが、(あかり)が消え、犬が()え、こうまた寒い風を、欠伸(あくび)で吸うようになっても、まだ出掛けそうな様子も見えぬので。

「いかがでございます、お(しゃく)をいたしましょうか。」

「いや、構わんでも()い、大層お邪魔をするね。」

 ともの優しい、客は年の頃二十八九、眉目秀麗(びもくしゅうれい)瀟洒(しょうしゃ)風采(ふうさい)(ねず)の背広に、同一(おなじ)色の濃い外套(がいとう)をひしと(まと)うて、茶の中折(なかおれ)を真深う、顔を(つつ)ましげに、脱がずにいた。もしこの冠物(かむりもの)が黒かったら、余り(ほお)が白くって、病人らしく見えたであろう。

 こっくりした色に配してさえ、寒さのせいか、屈託でもあるか、顔の色が()くないのである。銚子(ちょうし)は二本ばかり、早くから並んでいるのに。

 赤福の(もち)の盆、煮染(にしめ)の皿も差置いたが、猪口(ちょく)も数を(かさ)ねず、食べるものも、かの神路山(かみじやま)杉箸(すぎばし)を割ったばかり。

 客は丁字形(ていじけい)に二つ並べた、奥の方の縁台に腰をかけて、(てのひら)(うなじ)(おさ)えて、俯向(うつむ)いたり、腕を(こまぬ)いて考えたり、足を投げて横ざまに長くなったり、小さなしかも古びた茶店の、薄暗い隅なる(かた)に、その挙動(ふるまい)朦朧(もうろう)として、身動(みうごき)をするのが、余所目(よそめ)にはまるで寝返(ねがえり)をするようであった。

 また寝られてなろうか!

「あれ、お客様まだこっちのお銚子もまるでお手が着きませぬ。」

 と婆々は片づけにかかる気で、前の銚子を(かたえ)()けようとして心付く、まだずッしりと手に(こた)えて重い。

「お燗を直しましょうでござりますか。」

 顔を(のぞ)き込むがごとくに土間に立った、物腰のしとやかな、婆々は、客の胸のあたりへその白髪頭(しらがあたま)を差出したので、(おもて)を背けるようにして、客は()(かた)(なが)めると、店頭(みせさき)(かま)に突込んで諸白の燗をする、大きな白丁(はくちょう)の、中が少くなったが斜めに浮いて見える、上なる天井から、むッくりと垂れて、一つ、くるりと巻いたのは、(たこ)の脚、夜の色(こまや)かに、寒さに()てたか、いぼが(あお)い。

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