伊勢之巻

7話

1,555字 約3分 2006年3月17日 公開

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「お気の毒ながらと申して、お宿を断らせました処、(つれ)が来て泊っている。ともかくも明けい、とおっしゃりますについて、あの、入口の、たいてい原ほどはござります、板の間が、あなた様、道者衆(どうじゃしゅう)充満(いっぱい)で、足踏(あしぶみ)も出来ません処から、(かまち)へかけさせ申して、帳場の火鉢を差上げましたような次第で、それから貴女様(あなたさま)がお泊りの(はず)、立花が来たと伝えくれい、という事でござりまして。

 早速お通し申しましょうかと存じましたなれども、こちら様はお一方(ひとかた)、御婦人でいらっしゃいます事ゆえ念のために、(わたくし)お伺いに出ました儀で、直ぐにという御意にござりましたで、引返(ひっかえ)して、御案内。ええ、唯今(ただいま)の女が、廊下をお連れ申したでござります。

 女が、貴女様このお部屋へ、その立花様というのがお入り遊ばしたのを見て、取って返しましたで、折返して、お支度の程を伺わせに唯今差出しました処、何か、さような者は一向お見えがないと、こうおっしゃいます。またお座敷には、奥方様の(ほか)誰方(どなた)もおいでがないと、目を丸くして申しますので、何を寝惚(ねぼ)けおるぞ、(てまえ)が薄眠い顔をしておるで、お遊びなされたであろ、なぞと叱言(こごと)を申しましたが、女いいまするには、なかなか、洒落(しゃれ)を遊ばす御様子ではないと、真顔でござりますについて、ええ、何より証拠、土間を見ましてございます。」

 いいかけて番頭、片手敷居越に乗出して、

「トその時、お(あが)りになったばかりのお穿物(はきもの)が見えませぬ、洋服でおあんなさいましたで、靴にござりますな。

 さあ、居合せましたもの総立(そうだち)になって、床下まで(のぞ)きましたが、どれも札をつけて預りました穿物ばかり、それらしいのもござりませぬで、希有(けう)じゃと申出しますと、いや案内に立った唯今の女は、見す見す廊下をさきへ立って参ったというて、(あお)くなって震えまするわ。

 (いこ)(こわ)がりましてこちらへよう伺えぬと申しますので、手前駈出(かけだ)して参じましたが、いえ、もし全くこちら様へは誰方もおいでなさりませぬか。」と、(おだやか)ならぬ気色である。

 夫人、するりと膝をずらして、後へ身を引き、座蒲団の外へ手の指を(そら)して()くと、膝を(すべ)った桃色の絹のはんけちが、(つま)折端(おりはし)へはらりと(こぼ)れた。

(いや)だよ、串戯(じょうだん)ではないよ、穿物がないんだって。」

「御意にござりまする。」

「おかしいねえ。」と眉をひそめた。夫人の顔は、コオトをかけた衣裄(いこう)の中に眉暗く、洋燈(ランプ)の光の(くま)あるあたりへ、魔のかげがさしたよう、円髷(まげ)の高いのも艶々(つやつや)として、そこに人が居そうな気勢(けはい)である。

 畳から、手をもぎ放すがごとくにして、身を開いて番頭、固くなって一呼吸(ひといき)つき、

「で、ござりまするなあ。」

「お前、そういえば先刻(さっき)、ああいって来たもんだから、今にその人が見えるだろうと、火鉢の火なんぞ、(つッ)ついていると、何なの、しばらくすると、今の(ねえ)さんが、ばたばた来たの。次の()のそこへちらりと姿を見せたっけ、私はお客が来たと思って、(ことば)をかけようとする内に、直ぐ(せわ)しそうに出て行って、今度来た時には、突然(いきなり)、お支度はって、お聞きだから、変だと思って、誰も来やしないものを。」とさも(いぶか)しげに、番頭の顔を(じっ)と見ていう。

 いよいよ、きょとつき、

「はてさて、いやどうも何でござりまして、ええ、廊下を急足(いそぎあし)にすたすたお通んなすったと申して、成程、跫音(あしおと)がしなかったなぞと、女は申しますが、それは早や、気のせいでござりましょう。なにしろ早足で廊下を通りなすったには相違ござりませぬ、さきへ立って参りました女が、せいせい呼吸(いき)を切って駈けまして、それでどうかすると、背後(うしろ)から、そのお客の身体(からだ)が、ぴったり附着(くッつ)きそうになりまする。」

 番頭は気がさしたか、(そっ)と振返って背後(うしろ)を見た、(かま)の湯は(たぎ)っているが、(ちり)一つ見当らず、こういう折には、余りに広く、且つ余りに綺麗(きれい)であった。

「それがために二三度、足が留まりましたそうにござりまして。」

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