伊勢之巻

9話

2,503字 約5分 2006年3月17日 公開

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 煙草盆(たばこぼん)(まくら)、火鉢、座蒲団(ざぶとん)も五六枚。

(これは物置だ。)と立花は心付いた。

 はじめは押入と、しかしそれにしては居周囲(いまわり)が広く、破れてはいるが、(むしろ)か、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない(かこい)なぞの荒れたのを、そのまま押入に(つか)っているのであろう、身を忍ぶのは(あつら)えたようであるが。

(待て。)

 案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが(はや)いか、ものをいうよりはまず唇の(おのの)くまで、不義ではあるが思う同士。目を見交(みかわ)したばかりで、かねて算した通り、一先(ひとま)ず姿を隠したが、心の(やみ)より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が()れたせいであろう。

 立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦(まちあぐ)んでいるのであった。

(まず、()し。)

 と(ふすま)(そっ)と身を寄せたが、うかつに出らるる(すう)でなし、(ことば)をかけらるる分でないから、そのまま呼吸(いき)を殺して(たたず)むと、ややあって、はらはらと(きぬ)音信(おとない)

 目前(めさき)(みち)がついたように、座敷をよぎる留南奇(とめぎ)(かおり)、ほの(ゆか)しく身に染むと、彼方(かなた)も思う男の人香(ひとか)に寄る(ちょう)、処を(たが)えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、

「立花さん。」

「…………」

「立花さん。」

 襖の裏へ口をつけるばかりにして、

()いんですか。」

「まだよ、まだ女中が来るッていうから少々、あなた、靴まで隠して来たんですか。」

 表に夫人の打微笑(うちほほえ)む、目も眉も鮮麗(あざやか)に、人丈(ひとたけ)(やみ)の中に描かれて、黒髪の輪郭が、細く円髷(まげ)(くぎ)って(あかる)い。

 立花も莞爾(にっこり)して、

「どうせ、(だま)すくらいならと思って、外套(がいとう)の下へ隠して来ました。」

(うま)く行ったのね。」

「旨く()きましたね。」

「後で私を殺しても()いから、もうちと辛抱なさいよ。」

「お(いな)さん。」

「ええ。」となつかしい低声(こごえ)である。

「僕は大空腹。」

「どこかで食べて来た(はず)じゃないの。」

「どうして貴方(あなた)()うまで、お(まんま)咽喉(のど)へ入るもんですか。」

「まあ……」

 黙ってしばらくして、

「さあ。」

 手を中へ差入れた、紙包を(そっ)と取って、その指が(から)む、手と手を二人。

 (へだて)の襖は裏表、両方の肩で()されて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、(さみ)しく顔を見合せた、トタンに跫音(あしおと)、続いて跫音、夫人は()退()いて小さな(しわぶき)

 さそくに後を(ひし)と閉め、立花は(たなそこ)に据えて、(ひとみ)を寄せると、軽く(ひね)った懐紙(ふところがみ)二隅(ふたすみ)へはたりと解けて、三ツ(うつくし)く包んだのは、菓子である。

 と見ると、白と(くれない)なり。

「はてな。」

 立花は思わず、(ひざ)をついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かならず、低いか、高いか、(さだか)でないが、何となく暗夜(やみよ)の天まで、布一重(ひとえ)隔つるものがないように思われたので、やや急心(せきごころ)になって引寄せて、(そで)を見ると、着たままで隠れている、外套(がいとう)の色が(ほのか)に鼠。

 菓子の色、紙の白きさえ、ソレかと見ゆるに、仰げば節穴かと思う(あかり)もなく、その上、座敷から、()し入るような、透間(すきま)(すこ)しもないのであるから、驚いて、ハタと夫人の賜物(たまもの)を落して、その手でじっと(まなこ)(おお)うた。

 立花は目よりもまず気を判然(はっきり)と持とうと、両手で顔を蔽う内、まさに人道を破壊しようとする身であると心付いて、やにわに手を放して、その手で、胸を打って、がばと(まなこ)を開いた。

 なぜなら、今そうやって(ひざまず)いた(なり)は、神に対し、仏に対して、ものを打念(うちねん)ずる時の姿勢であると思ったから。

 あわれ、覚悟の前ながら、最早(もは)や神仏を礼拝し得べき立花ではないのである。

 さて心がら鬼のごとき目を《みひら》くと、余り強く(おもて)を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、(はるか)に且つ(かすか)に、しかも細く、耳の(はた)について、震えるよう。

 それも心細く、その言う処を確めよう、先刻(さき)に老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処(いどころ)安堵(あんど)せんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて()た。

 人の妻と、かかる(すべ)して忍び合うには、()く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命(いのち)のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命(いのち)よりは便(たより)にしたのであるが。

 こはいかに(たなそこ)は、(いたずら)(くう)()でた。

 (あわただ)しく(ちょう)と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に(やみ)掻探(かいさぐ)ったが、遮るものは何にもない。

 さては、(やみ)の中に暗をかさねて目を(ふさ)いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、()と今度は(かいな)を差出すようにしたが、それも手ばかり。

 はッと俯向(うつむ)き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。

 かっと逆上(のぼ)せて、(たま)らずぬっくり突立(つッた)ったが、南無三(なむさん)物音が、とぎょッとした。

 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫(せきばく)として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省(ふせい)ならんとする、瞬間に異ならず。

 同時に真直(まっすぐ)に立った足許に、なめし皮の樺色(かばいろ)の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然(ぞっ)とした。

 靴が左から……ト一ツ(とま)って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。

 たとえば歩行の折から、爪尖(つまさき)を見た時と同じ(さま)で、前途(ゆくて)へ進行をはじめたので、(あなや)と見る見る、二(けん)(げん)

 十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方(かなた)に隔るのが、どうして目に映るのかと、(あやし)む、とあらず、歩を移すのは(かれ)自身、すなわち立花であった。

 茫然(ぼうぜん)

 世に茫然という色があるなら、四辺(あたり)の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、(みち)もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て(つめた)からず、朧夜(おぼろよ)かと思えば暗く、東雲(しののめ)かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓(こたつやぐら)の形など左右、二列(ふたなら)びに、不揃(ぶぞろ)いに、沢庵(たくあん)(たる)もあり、石臼(いしうす)もあり、俎板(まないた)あり、灯のない行燈(あんどう)も三ツ四ツ、あたかも人のない道具市。

 しかもその火鉢といわず、臼といわず、枕といわず、行燈といわず、一斉に絶えず(かすか)(ゆら)いで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸(いき)のあるは(ことごと)く死して、かかる者のみ(ただよ)う風情、ただソヨとの風もないのである。

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