悪獣篇

1話 悪獣篇(1)

7,218字 約14分 2006年12月19日 公開

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       一

 つれの夫人がちょっと道寄りをしたので、銑太郎(せんたろう)は、取附(とッつ)きに山門の峨々(がが)(そび)えた。巨刹(おおでら)の石段の前に立留まって、その出て来るのを待ち合せた。

 門の柱に、毎月(まいげつ)十五十六日当山説教と貼紙(はりがみ)した、(かたわら)に、東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。(すか)して見ると、灰色の浪を、斜めに森の(なか)にかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、厳穴(いわあな)の趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎ()てた、浴衣、襯衣(しゃつ)上衣(うわぎ)など、ちらちらと(なぎさ)に似て、黒く深く、背後(うしろ)の山まで(なかくぼ)になったのは本堂であろう。輪にして段々に(とも)した(ろう)の灯が、黄色に燃えて描いたよう。

 向う側は、袖垣(そでがき)枝折戸(しおりど)、夏草の茂きが中に早咲(はやざき)の秋の花。いずれも此方(こなた)を背戸にして別荘だちが二三軒、(ひさし)海原(うなばら)の緑をかけて、(すだれ)に沖の船を縫わせた(こしら)え。刎釣瓶(はねつるべ)の竹も動かず、蚊遣(かやり)の煙の(なび)くもなき、夏の(さかり)の午後四時ごろ。浜辺は煮えて(にぎや)かに、町は寂しい樹蔭(こかげ)の細道、たらたら(ざか)を下りて来た、前途(ゆくて)は石垣から折曲る、しばらくここに(くぼ)んだ処、ちょうどその寺の苔蒸(こけむ)した青黒い段の下、小溝(こみぞ)があって、しぼまぬ月草、紺青の空が漏れ透くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、(やぶ)は自然の寺の垣。

 ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、草鞋(わらじ)、草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根は(かや)ぶきの、且つ破れ、且つ古びて、幾秋(いくあき)の月や()し、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、(あやう)掘立(ほったて)の、柱々、放れ(ばな)れに傾いているのを、(かれ)は何心なく見て過ぎた。連れはその店へ寄ったのである。

「昔……昔、浦島は、小児(こども)(とら)えし亀を見て、あわれと思い買い取りて、……」と、(すさ)むともなく口にしたのは、別荘のあたりの夕間暮れに、村の小児等(こどもら)の唱うのを聞き覚えが、折から心に移ったのである。

 銑太郎は、ふと手にした巻莨(まきたばこ)に心着いて、唄をやめた。

早附木(マッチ)を買いに入ったのかな。」

 うっかりして立ったのが、小店(こみせ)(かた)に目を注いで、

「ああ、そうかも知れん。」と夏帽の中で、(うなず)いて独言(ひとりごと)

 別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。

一日(あるひ)大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん――」

 帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、此方(こなた)の袖に隠れるので、(みち)対方(むこう)へ。別荘の袖垣から、(ななめ)に坂の方を透かして見ると、(つれ)の浴衣は、その、ほの暗い小店に(えん)なり。

「何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。」

 と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、軒を離れそうにもせぬのであった。

「店ぐるみ総じまいにして、一箇(ひとつ)々々袋へ入れたって、もう片が附く時分じゃないか。」

 と(つぶや)くうちに真面目(まじめ)になった、銑太郎は我ながら、

串戯(じょうだん)じゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、おかしいな。」

       二

 とは思ったが、歴々(ありあり)彼処(かしこ)に、何の異状なく(たたず)んだのが見えるから、憂慮(きづかう)にも及ぶまい。念のために声を懸けて呼ぼうにも、この真昼間(まっぴるま)。見える処に(つれ)を置いて、おおいおおいも茶番らしい、殊に婦人(おんな)ではあるし、と思う。

 今にも来そうで、出向く気もせず。火のない巻莨(まきたばこ)を手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと其方(そなた)を。

 (なん)となくぼんやりして、ああ、家も、(みち)も、寺も、竹藪(たけやぶ)を漏る蒼空(あおぞら)ながら、(つち)の底の世にもなりはせずや、(つれ)は浴衣の染色(そめいろ)も、浅き紫陽花(あじさい)の花になって、小溝(こみぞ)(やみ)(おもかげ)のみ。我はこのまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、婦人(おんな)は軒を離れて出た。

 小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと爪尖(つまさき)白く、濃い黒髪の(ふさ)やかな双の(びんづら)浅葱(あさぎ)(ひも)に結び果てず、海水帽を絞って(かぶ)った、(ゆたか)(ほお)(つや)やかに(なび)いて、色の白いが薄化粧。水色縮緬(みずいろちりめん)蹴出(けだし)(つま)、はらはら(はちす)(つぼみ)(さば)いて、素足ながら清らかに、草履ばきの(ほこり)も立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。

「叔母さん、」

 と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、(もゆ)るような朱の唇、ものいいたさを先んじられて紅梅の花(ゆら)ぐよう。黒目勝(くろめがち)(すず)しやかに、美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、五日月(いつかづき)青柳(あおやぎ)の影やや深き趣あり。浦子というは二十七。

 豪商狭島(さじま)の令室で、銑太郎には叔母に当る。

 この路を去る十二三町、停車場(より)の海岸に、石垣高く松を(めぐ)らし、廊下で(つな)いで三棟(みむね)に分けた、門には新築の長屋があって、手車の車夫の控える身上(しんしょう)

 (もすそ)(いと)う砂ならば路に黄金(こがね)を敷きもせん、空色の洋服の褄を取った姿さえ、身にかなえば(から)めかで、羽衣着たりと持て(はや)すを、白襟で襲衣(かさね)の折から、(うすもの)(あや)の帯の時、湯上りの白粉(おしろい)扱帯(しごき)は何というやらん。この人のためならば、このあたりの浜の名も、狭島が浦と(とな)えつびょう、リボンかけたる、(こうがい)したる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた美女(たおやめ)

 帽子の(うち)の日の蔭に、長いまつげのせいならず、(おい)を見た目に(さえ)がなく、顔の色も薄く曇って、

「銑さん。」

 とばかり云った、浴衣の胸は呼吸(いき)ぜわしい。

「どうしたんです、何を買っていらしったんです。吃驚(びっくり)するほど長かった。」

 打見(うちみ)に何の仔細(しさい)はなきが、物怖(ものおじ)したらしい叔母の(さま)を、たかだか例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、(なさけ)らしく(じっ)と見て、

「まあ、呑気(のんき)らしい、早附木(マッチ)を取って上げたんじゃありませんか。」

 はじめて、ほッとした様子。

「頂戴! いつかの靴以来です。こうは叔母さんでなくッちゃ出来ない事です。僕もそうだろうと思ったんです。」

「そうだろうじゃありませんわ。」

「じゃ、早附木ではないんですか。」

       三

「いいえ、銑さんが煙草(たばこ)を出すと、早附木(マッチ)がないから、打棄(うっちゃ)っておくと、またいつものように、煙草には思い()りがない、監督のようだなんて云うだろうと思って、気を利かして、ちょうど、あの店で、」

 と身を横に、(かかと)を浮かして、(こわ)いもののように振返って、

「見附かったからね、黙って買って上げようと思って入ったんですがね、お(かげ)で大変な思いをしたんですよ。ああ、恐かった。」

 とそのままには足も進まず、がッかりしたような風情である。

「何が、叔母さん。この日中(ひなか)に何が恐いんです。大方また毛虫でしょう、大丈夫、毛虫は追駈(おっか)けては来ませんから。」

「毛虫どころじゃアありません。」

 と浦子は(うしろ)見らるる(さま)。声も低う、

「銑さん、よっぽどの間だったでしょう。」

「ざッと一時間……」

 半分は懸直(かけね)だったのに、夫人はかえってさもありそうに、

「そうでしたかねえ、私はもっとかと思ったくらい。いつ、店を出られるだろう、と心細いッたらなかったよ。」

「なぜ、どうしたんですね、一体。」

「まあ、そろそろ歩行(ある)きましょう。何だか気草臥(きくたび)れでもしたようで、頭も脚もふらふらします。」

 歩を移すのに引添うて、身体(からだ)(かば)うがごとくにしつつ、

「ほんとに驚いたんですか。そういえば、顔の色もよくないようですよ。」

「そうでしょう、悚然(ぞっ)として、(いま)だに寒気がしますもの。」

 と肩を(すぼ)めて俯向(うつむ)いた、海水帽も前下り、(うなじ)白く(しお)れて連立つ。

 少年は顔を斜めに、近々と帽の中。

「まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。」

 これには答えず、やや石段の前を通った。

 しばらくして、

「銑さん、」

「ええ、」

帰途(かえり)に、またここを通るんですか。」

「通りますよ。」

「どうしても通らねば不可(いけ)ませんかねえ、どこぞ(ほか)に路がないんでしょうか。」

「海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、岐路(わかれみち)といっては背後(うしろ)の山へ()くより(ほか)にはないんですが、」

「困りましたねえ。」

 と、つくづく云う。

「何ね、時刻に因って、(しお)の干ている時は、この別荘の前なんか、岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方干ないかも知れません。」

「船はありますか。」

「そうですね、渡船(わたしぶね)ッて別にありはしますまいけれど、頼んだら出してくれないこともないでしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。」

「そうね。」

「何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、()ぐことは僕にも漕げます。僕じゃ危険(けんのん)だというでしょう。」

(なん)でも()うござんすから、銑さん、貴郎(あなた)、どうにかして下さい。私はもう帰途(かえり)にあの店の前を通りたくないんです。」

 とまた俯向(うつむ)いたが恐々(こわごわ)らしい。

「叔母さん、まあ、一体、何ですか。」と、余りの事に微笑(ほほえ)みながら。

       四

「もう聞えやしますまいね。」

 と(はばか)る所あるらしく、声もこの時なお低い。

「何が、どこで、叔母さん。」

「あすこまで、」

「ああ! 汚店(きたなみせ)へ、」

「大きな声をなさんなよ。」と吃驚(びっくり)したように(あわただ)しく、(ひとみ)を据えて、(そっ)という。

「何が聞えるもんですか。」

「じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、早附木(マッチ)を買いに入ると、誰も居ないのよ。」

「へい?」

「下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、鼠の家の三階建のような、取附(とッつき)の三段の古棚の(うしろ)のね、物置みたいな暗い中から、――藻屑(もくず)()いたかと思う、汚い服装(なり)の、小さな(ばあ)さんがね、よぼよぼと出て来たんです。

 髪の毛が真白(まっしろ)でね、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割には(しわ)がないの、……顔に。……身体(からだ)()せて骨ばかり、そしてね、骨が、くなくなと柔かそうに腰を曲げてさ。

 天窓(あたま)でものを見るてッたように、白髪(しらが)を振って、ふッふッと息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、そこらを()うようにして店へ来るじゃありませんか。

 早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔を(なが)めてさ。目で承りましょうと云うんじゃないの。

 お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、(じっ)と視めていたッけがね。

 その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり俯向(うつむ)くと、白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、(てのひら)が大きいの。

 それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、片々(かたかた)人指(ひとさし)ゆびで、こうね、左の耳を教えるでしょう。

 聞えないと云うのかね、そんなら()うござんす。私は何だか一目見ると、(いや)な心持がしたんですからね、買わずと()いから、そのまま店を出ようと思うと、またそう()かなくなりましたわ。

 弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、耳を、私の顔の(そば)へ横向けに差しつけたんです。

 ぷんと(にお)ったの。何とも言えない、きなッくさいような、醤油(おしたじ)の焦げるような、厭な(におい)よ。」

「や、そりゃ困りましたね。」と、これを聞いて少年も(ひそ)んだのである。

「早附木を下さい。

(はあ?)

(早附木よ、お婆さん。)

(はあ?)

 はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。

(早附木、)ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。

 ただもう()げ出したくッてね、そこいら《みまわ》すけれど、貴下(あなた)の姿も見えなかったんですもの。

 はあ、長い間よ。

 それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして合点(がってん)々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。

 そんなには要らないから、包を破いて、自分で一つだけ取って、ああ、厄落し、と出よう、とすると、しっかりこの、」

 と片手を下に、(そで)をかさねた(たもと)(ゆす)ったが、気味悪そうに、胸をかわして(そっ)と払い、

「袂をつかまえたのに、引張られて動けないじゃありませんか。」

「かさねがさね、成程、はあ、それから、」

       五

「私ゃ、銑さん、どうしようかと思ったんです。

 何にも云わないで、ぐんぐん引張って、かぶりを()るから、大方、剰銭(つり)寄越(よこ)そうというんでしょうと思って、留りますとね。

 やッと安心したように手を放して、それから向う向きになって、(さし)から穴のあいたのを一つ一つ。

 それがまたしばらくなの。

 私の手を引張るようにして、(てのひら)()れました。

 ひやりとしたけれど、そればかりなら()かったのに。

御新姐様(ごしんぞさま)や)」

 と浦子の声、異様に震えて聞えたので、

「ええ、その(ばば)が、」

「あれ、銑さん、聞えますよ。」と、一歩(ひとあし)いそがわしく、ぴったり寄添う。

「その婆が、云ったんですか。」

 夫人はまた吐息をついた。

(ばあ)さんがね、ああ。」

(御新姐様や、御身(おみ)ア、すいたらしい人じゃでの、安く、なかまの値で進ぜるぞい。)ッて、皺枯(しわが)れた声でそう云うとね、ぶんと頭へ響いたんです。

 そして、すいたらしいッてね、私の手首を(じっ)と握って、真黄色(まっきいろ)な、(ひらっ)たい、小さな顔を振上げて、じろじろと見詰めたの。

 その握った手の冷たい事ッたら、まるで氷のようじゃありませんか。そして目がね、黄金目(きんめ)なんです。

 光ったわ! 貴郎(あなた)

 キラキラと、その(すご)かった事。」

 とばかりで重そうな(つむり)を上げて、(にわ)かに黒雲や起ると思う、憂慮(きづか)わしげに仰いで(なが)めた。空ざまに目も恍惚(うっとり)(ひも)(ゆわ)えた(おとがい)の震うが見えたり。

「心持でしょう。」

「いいえ、じろりと見られた時は、その目の光で私の顔が黄色になったかと思うくらいでしたよ。(あかり)に近いと、赤くほてるような気がするのと同一(おんなじ)に。

 もう私、二条(ふたすじ)針を刺されたように、背中の両方から悚然(ぞっ)として、足もふらふらになりました。

 夢中で二三(げん)()け出すとね、ちゃらんと音がしたので、またハッと思いましたよ。お(あし)を落したのが先方(さき)へ聞えやしまいかと思って。

 何でも一大事のように返した剰銭(つり)なんですもの、落したのを知っては追っかけて来かねやしません。銑さん、まあ、何てこッてしょう、どうした婆さんでしょうねえ。」

 されば叔母上の(のたま)うごとし。年紀(とし)七十(ななそじ)あまりの、髪の真白(まっしろ)な、顔の(ひらた)い、年紀の割に(しわ)の少い、色の黄な、耳の遠い、身体(からだ)(にお)う、骨の軟かそうな、挙動(ふるまい)のくなくなした、なおその(ことば)に従えば、金色(こんじき)に目の光る(おうな)とより、銑太郎は他に答うる(すべ)を知らなかった。

 ただその、早附木(マッチ)一つ買い取るのに、半時ばかり()った仔細(しさい)が知れて、(うたがい)はさらりとなくなったばかりであるから、気の毒らしい、と自分で思うほど一向な暢気(のんき)

「早附木は? 叔母さん。」と魅せられたものの背中を一つ、トンと打つようなのを唐突(だしぬけ)に言った。

「ああ、そうでした。」

 と心着くと、これを嫗に握られた、買物を持った右の手は、まだ左の(たもと)の下に包んだままで、撫肩(なでがた)(ゆき)をなぞえに、浴衣の筋も水に濡れたかと、ひたひたとしおれて、片袖しるく、悚然(ぞっ)としたのがそのままである。大事なことを見るがごとく、(そっ)とはずすと、銑太郎も(のぞ)くように目を注いだ。

「おや!」

「…………」

       六

 黒の唐繻子(とうじゅす)と、薄鼠(うすねずみ)に納戸がかった絹ちぢみに宝づくしの(しぼり)の入った、腹合せの帯を漏れた、水紅色(ときいろ)扱帯(しごき)にのせて、美しき手は芙蓉(ふよう)花片(はなびら)、風もさそわず無事であったが、キラリと輝いた指環(ゆびわ)(ほか)に、早附木(マッチ)らしいものの形も無い。

 視詰(みつ)めて、夫人は、

「…………」ものも()いわぬのである。

「ああ、剰銭(つり)と一所に遺失(おと)したんだ。叔母さんどの辺?」

 と気早(きばや)に向き返って()こうとする。

「お待ちなさいよ。」

 と遮って上げた手の、仔細(しさい)なく動いたのを、嬉しそうに、少年の肩にかけて、見直して呼吸(いき)をついて、

「銑さん、お()しなさいお止しなさい、気味が悪いから、ね、お止しなさい。」

 とさも一生懸命。(おさ)えぬばかりに引留めて、

「あんなものは、今頃何に()っているか分りませんよ、よう、ですから、銑さん。」

「じゃ止します、止しますがね。」

 少年は余りの事に、

「ははははは、何だか妖物(ばけもの)ででもあるようだ。」と半ば(つぶや)いて、また笑った。

「私は妖物としか考えないの、まさか居ようとは思われないけれど。」

「妖物ですとも、妖物ですがね、そのくなくなした処や、天窓(あたま)歩行(ある)きそうにする処から、黄色く《うね》った処なんぞ、何の事はない(ばば)の毛虫だ。毛虫の(ばあ)さんです。」

(いや)ですことねえ。」と身ぶるいする。

「何もそんなに、気味を悪がるには当らないじゃありませんか。その婆に手を握られたのと、もしか樹の上から、」

 と上を見る。(やぶ)は尽きて高い石垣、(えのき)が空にかぶさって、浴衣に薄き日の光、二人は月夜を()く姿。

「ぽたりと落ちて、毛虫が頸筋(くびすじ)へ入ったとすると、叔母さん、どっちが厭な心持だと思います。」

「沢山よ、銑さん、私はもう、」

「いえ、まあ、どっちが気味が悪いんですね。」

「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちとも言えませんね。」

「そら御覧なさい。」

 説き得て()しと思える(さま)して、

「叔母さんは、その婆を、妖物か何ぞのように大騒ぎを()るけれど、気味の悪い、厭な感じ。」

 感じ、と声に力を入れて、

「感じというと、何だか先生の仮声(こわいろ)のようですね。」

「気楽なことをおっしゃいよ!」

「だって、そうじゃありませんか、その気味の悪い、厭な感じ、」

「でも先生は、工合(ぐあい)()いとか、妙なとか、おもしろい感じッて事は、お言いなさるけれど、気味の悪いだの、厭な感じだのッて、そんな事は、めったにお言いなさることはありません。」

「しかしですね、(つま)らない婆を見て、震えるほど(こわ)がった、叔母さんの(ふう)ッたら……工合の()い、妙な、おもしろい感じがする、と言ったら、叔母さんは怒るでしょう。」

当然(あたりまえ)ですわ、貴郎(あなた)。」

「だからこの場合ですもの。やっぱり厭な感じだ。その気味の悪い感じというのが、毛虫とおなじぐらいだと思ったらどうです。別に不思議なことは無いじゃありませんか。毛虫は気味が悪い、けれども(あやし)いものでも何でもない。」

「そう言えばそうですけれど、だって婆さんの、その目が、ねえ。」

「毛虫にだって、(にら)まれて御覧なさい。」

「もじゃもじゃと白髪(しらが)が、貴郎。」

「毛虫というくらいです、もじゃもじゃどころなもんですか、沢山毛がある。」

「まあ、貴下(あなた)の言うことは、蝸牛(でんでんむし)の狂言のようだよ。」と寂しく笑ったが、

「あれ、」

 寺でカンカンと(かね)を鳴らした。

「ああ、この路の長かったこと。」

       七

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