33話 重井筒 一
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井戸一ツ地境に挟まりて、わが仮小屋にてその半を、広岡にてその半ばを使いたりし、蓋は二ツに折るるよう、蝶番もて拵えたり。井戸の蓋と隔ての戸とをこれにて兼ね、一方を当てて夜ごとには彼方と此方を垣したる、透間少し有りたる中より、奮発みたる鞠のごとく、衝と潜り出でて、戸障子に打衝る音凄じく、室の内に躍り込むよと見えし、くるくると舞いて四隅の壁に突当る、出処なければ引返さむとする時、慌しく立ちたるわれに、また道を妨げられて、座中に踞りたるは汚き猫なりき。
背をすくめて四足を立て、眼を瞋らして呻りたる、口には哀れなる鳩一羽くわえたり。餌にとて盗みしな。鳩はなかば屠られて、羽の色の純白なるが斑に血の痕をぞ印したる。二ツ三ツ片羽羽たたきたれど、早や弱り果てたる状なり。
「畜生!」
と鋭く叫び、小親片膝立てて身構えながら、落ちたる煙管の羅宇長きを、力籠めて掉かざせし、吸残りけむ煙草の煙、小さく渦巻きて消え失せたり。
「あ痛、あ、あ、痛。」
うつくしき眉を顰めつつ、はたと得物を取落しぬ。
驚きてわが走り寄る時、遁路あきたれば潜り抜けて、猫は飛び出で、遠く走る音して寂然となりたり。
「どうしたんだね、姉さん、どうしたんだね。」
小親は玉の腕投げ出して、右手もて擦りながら肱を曲げ、手の甲を頬にあてて、口もてその脈の処を強く吸いぬ。
「僂麻質かい、姉さん。」
と危ぶみ問いたる、わが声は思わず震いぬ。
「あら、顔の色を変えて、真蒼だね。そんなに吃驚したのかね、気の弱い。」
かえってわれを激ましぬ。
「いいえ、猫にも驚いたけれど、りゅうまちじゃあないかい、え、僂麻質じゃあないかい。」
「ちょいとだよ。何でもないんだよ、何をそんなに。たかがりゅうまちだもの、生命を取られるほどのことは無いから。」
「でも、私はもう、僂麻質と聞いても悚然するよ。何より恐いんだ。なぜッてまた小六さんのように。」
「磔!」
言いたる小親も色をかえぬ。太き溜息吻とつきて、
「鶴亀、々々。ああ、そういったばかりでも、私ゃ胸が痛いよ、貢さん、ほんとに小六さんもどうおしだろうね。」
物語の銀六は、蛇責の釜に入りたる身の経験ありたれば、一たびその事を耳にするより、蒼くなりて、何とて生命の続くべきと、老の目に涙泛べしなり。されど気丈なる女なれば、今なお恙なかるべし。
小親いまだその頃は、牛若の役勤めていつ。銀六も健かに演劇の真似して、われは哀なる鞠唄うたいつつ、しのぶと踊などしたりし折なり。
あたかもいま小親が猫を追わむとて、煙管翳したるその状なりしよ。越前府中の舞台にて、道成寺の舞の半ばに、小六その撞木を振上げたるトタンに左手動かずなり、右手も筋つるとて、立すくみになりて、楽屋に舁かれて来ぬ。
しからざりし以前より、渠はこの僂麻質の持病に悩みて、仮初なる俥の上下にも、小幾、重子など、肩貸し、腰を抱きなどせしなり。
月日に痛み重るを、苦忍して、強いて装束着けたりしが、その時よりまた起たずなりき。
楽屋にては小親の緋鹿子のそれとは違い、黒き天鵞絨の座蒲団に、蓮葉に片膝立てながら、繻子の襟着いたる粗き竪縞の布子羽織りて被つ。帯も〆めで、懐中より片手出して火鉢に翳し、烈々たる炭火堆きに酒の燗して、片手に鼓の皮乾かしなどしたる、今も目に見ゆる。
手の利かねば、割膝にわが小さき体引挟みて、渋面つくるが可笑とて、しばしば血を吸いて、小親来て、わびて、引放つまでは執念く放たざりし寛闊なる笑声の、はじめは恐しかりしが、果は懐しくなりて、そと後より小さき手に目隠して戯れたりし、日数もなく、小六は重き枕に就きつ。
湯を呑むにさえ、人の手かりたりしを、情なき一座の親方の、身の代取りて、その半不随の身を売りぬ。
買いたるは手品師にて、観世物の磔にするなりき。身体は利かでも可し、槍にて突く時、手と足|《もが》きて、苦と苦痛の声絞らするまでなれば。これにぞ銀六の泣きしなる。
「ほんとにねえ、貢さん。」