29話 羆の筒袖 二十九
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「阿爺どの、阿爺どの。」
「はい、私かねえ。」
橋から橋へ、河岸の庫の片暗がりを遠慮らしく片側へ寄って、売残りの草花の中に、蝶の夢には、野末の一軒家の明窓で、かんてらの火を置いた。荷は軽そうなが前屈みに、てくてく帰る……お千世が爺の植木屋甚平、名と顱巻は娑婆気がある。
背後をのさのさと跟けて来て、阿爺どの。――呼声は朱鞘の大刀、黒羽二重、五分月代に似ているが、すでにのさのさである程なれば、そうした凄味な仲蔵ではない。
按ずるに日本橋の上へは、困った浪花節の大高源吾が臆面もなく顕れるのであるが、いまだ幸に西河岸へ定九郎の出た唄を聞かぬ。……もっともこのあたり、場所は大日本座の檜舞台であるけれども、河岸は花道ではないのであるから。
変な好みの、萌葱がかった、釜底形の帽子をすッぽり、耳へ被さって眉の隠るるまで低めずらした、脊のずんとある巌乗造。かてて加えて爪皮の掛った日和下駄で、見上げるばかり大いのが、もくもくとして肩も胸も腹もなく、ずんぐり腰の下まで着込んだのは、羆の皮を剥いた、毛をそのままにした筒袖である。
これがもし対丈で、赤皮の靴を穿けば、樺太の海賊であるが、腰の下の見すぼらしさで、北海道の定九郎。
見よかし羆の袖を突出し、腕を頤のあたりへ上げ状に拱いた、手首へ面を引傾げて、横睨みにじろじろと人を見る癖。
「帰るのかあ。」と少し訛る。
「はい。」
むかし権三は油壺。鰊蔵から出たよな男に、爺さんは、きょとんとする。
羆は件の横睨みで、
「おい、帰るのかあ。」
「家へかね。」
「うむ。」と頷く。
「帰りますよ、はい。」
「帰ると……ふん。どこか道寄りはせんのですかい。」と、悪く横柄な癖に時々変徹に丁寧なり。
「道寄りとおっしゃりますと?……」
「何よ、あれだ、お前、今あすこで。」
と人指一本、毛の中へちょいと出し、
「あれよ、芸者と少い男と三人連に逢うたでしょうが。」
「はい、はい。」と大な口を開けて続けざまに頷きながら、目はかえって半ば閉じて、分別したは老功也。
「知ってるだろうが、姉さんはお孝と云うのだ。少い妓はお千世よ。」
「さようでございます、はい。」となお胡散らしく薄目で見上げる。
「阿爺どのは、どうやら大分懇意らしい様子ですな。」
「ええ、いいえ、些少の。何、お前さま。何かその、私に用事で。」
「火を一つ貸してくれ。」
と云う、煙草より前に、蔵造りの暗い方へ、背を附着け、ずんぐりと小溝を股に挟んで大きく蹲み、帽子の中から、ぎろぎろと四辺を見た。が、落こぼれたような影もまばらで、開いているのは、地蔵尊の門と、隣家の煙草屋の店ぐらいに過ぎなかった。
爺さんは遁腰に天秤を捻って、
「さあ、お点けなさりまし、だが、お早く願いますので、はい。」