日本橋

29話 羆の筒袖 二十九

1,124字 約2分 2015年11月4日 公開

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阿爺(おやじ)どの、阿爺どの。」

「はい、(わし)かねえ。」

 橋から橋へ、河岸の(くら)の片暗がりを遠慮らしく片側へ寄って、売残りの草花の中に、蝶の夢には、野末の一軒家の明窓(あかりまど)で、かんてらの火を置いた。荷は軽そうなが前屈(まえかが)みに、てくてく帰る……お千世が(じい)の植木屋甚平(じんべい)、名と顱巻(はちまき)娑婆気(しゃばけ)がある。

 背後(うしろ)をのさのさと()けて来て、阿爺どの。――呼声は朱鞘(しゅざや)大刀(だんびら)、黒羽二重、五分月代(ごぶさかやき)に似ているが、すでにのさのさである程なれば、そうした凄味(すごみ)な仲蔵ではない。

 (あん)ずるに日本橋の上へは、困った浪花節の大高源吾が臆面(おくめん)もなく(あらわ)れるのであるが、いまだ幸に西河岸へ定九郎の出た唄を聞かぬ。……もっともこのあたり、場所は大日本座の(ひのき)舞台であるけれども、河岸は花道ではないのであるから。

 変な好みの、萌葱(もえぎ)がかった、釜底形(かまぞこがた)の帽子をすッぽり、耳へ(かぶ)さって眉の隠るるまで()めずらした、脊のずんとある巌乗造(がんじょうづくり)。かてて加えて爪皮の掛った日和下駄で、見上げるばかり(おおき)いのが、もくもくとして肩も胸も腹もなく、ずんぐり腰の下まで着込んだのは、(ひぐま)の皮を()いた、毛をそのままにした筒袖である。

 これがもし対丈(ついたけ)で、赤皮の靴を穿()けば、樺太の海賊であるが、腰の下の見すぼらしさで、北海道の定九郎。

 見よかし羆の袖を突出し、腕を(あご)のあたりへ上げ(ざま)(こまぬ)いた、手首へ(つら)引傾(ひっかた)げて、横睨(よこにら)みにじろじろと人を見る癖。

「帰るのかあ。」と少し(なま)る。

「はい。」

 むかし権三(ごんざ)は油壺。鰊蔵(にしんぐら)から出たよな男に、爺さんは、きょとんとする。

 羆は(くだん)の横睨みで、

「おい、帰るのかあ。」

(うち)へかね。」

「うむ。」と頷く。

「帰りますよ、はい。」

「帰ると……ふん。どこか道寄りはせんのですかい。」と、悪く横柄な癖に時々変徹に丁寧なり。

「道寄りとおっしゃりますと?……」

「何よ、あれだ、お前、今あすこで。」

 と人指(ひとさし)一本、毛の中へちょいと出し、

「あれよ、芸者と(わか)い男と三人連に逢うたでしょうが。」

「はい、はい。」と(おおき)な口を開けて続けざまに頷きながら、目はかえって半ば閉じて、分別したは老功(なり)

「知ってるだろうが、姉さんはお孝と云うのだ。少い()はお千世よ。」

「さようでございます、はい。」となお胡散(うさん)らしく薄目で見上げる。

「阿爺どのは、どうやら大分懇意らしい様子ですな。」

「ええ、いいえ、些少(ささい)の。何、お前さま。何かその、(てまえ)に用事で。」

「火を一つ貸してくれ。」

 と云う、煙草より(さき)に、蔵造りの暗い方へ、(せな)附着(くッつ)け、ずんぐりと小溝を股に挟んで大きく(しゃが)み、帽子の(うち)から、ぎろぎろと四辺(あたり)を見た。が、落こぼれたような影もまばらで、開いているのは、地蔵尊の門と、隣家(となり)の煙草屋の店ぐらいに過ぎなかった。

 爺さんは遁腰(にげごし)天秤(てんびん)(ひね)って、

「さあ、お()けなさりまし、だが、お早く願いますので、はい。」

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