日本橋

48話 生理学教室 四十八

1,243字 約2分 2015年11月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 お孝は黒繻子(くろじゅす)の襟、雪の(はだ)、冷たそうな寝衣(ねまき)(なり)で、裾を()いて、階子段(はしごだん)をするすると下りると、そこに店前(みせさき)三和土(たたき)にすっくと立った巡査に、ちょっと目礼をして、長火鉢の横手の(ひらき)を、すっと縁側へ出て行く。

 そこが中庭になる、錦木の影の浅い濡縁で、合歓(ねむ)の花をほんのりと、一輪立膝の口に含んだのは、五月初の遅い日に、じだらくに使う房楊枝(ふさようじ)である。

 その背後(うしろ)に、座敷が見えて、花は庭よりもそこに咲いて、眉の緑の年増も交る。

 と、下地子(したじっこ)らしい十二三なのが、金盥(かなだらい)を置いて引返して来て、長火鉢の(わき)の腰窓をカタンと閉めたので、お孝の姿は見えなくなった。

 とばかりで、三和土に立った警官は、お孝が降りて来た階子段を(ななめ)(にら)んで、(ひげ)(ひね)る事(もっぱら)なり。で、少時(しばらく)家中が寂然(ひっそり)する。

 一体、不断は千本格子を境にして、やけな奥女中の花見ぐらい陽気な処へ、巡査と見ると騒動(さわぎ)(えら)い。謹むのではない笑うので、キャッキャックックッ、各自(てんでん)があっちこっち、中には奥へ駆込んで転がるまで、胡蝶(ちょうちょう)鸚鵡(おうむ)が笑う怪物(ばけもの)屋敷の奇観を呈する。

 事の起因(おこり)(あん)ずるに、去年秋雨の降くらす、奥の座敷に、女ばかり総勢九人、しかも二組になって御法度の花骨牌(はながるた)。軒の玉水しとしとと鳴る時、格子戸がらり。

「御免。」と掛けた声が可恐(おそろし)(いかつ)い蛮音。薩摩訛(さつまなまり)に、あれえ、と云うと、飛上るやら、くるくる舞うやら、ぺたんと坐って動けぬやら。

 座敷では(たもと)へ忍ばす金縁の度装(どもの)硝子(がらす)を光々さした、千鳥と云う、……女学生あがりで稲葉家第一の口上(いい)が、廂髪(ひさしがみ)阿古屋(あこや)と云う覚悟をして度胸を据えて腰を据えて、もう一つ近視眼(ちかめ)を据えて、(かまち)へ出て、はッと悪く落着いた切口上。

「別にそのでございます。相変りました事はございませんです。」と、戸籍係に(たて)ごかしの三ツ指を()めたと思え。

羅宇(らう)が出来たけえ、……持って来たですッ。」

「何だね、羅宇屋さん、裏へお廻り。」と、婆やが水口(みずぐち)の障子で怒鳴ると、白磨竹(しろみがき)を突着けられた千鳥の前は、拷問(ごうもん)の割竹で、胸を(えぐ)られた体にぐなりとした。

 鍋焼饂飩(うどん)江戸児(えどっこ)でない、多くは信州の山男と聞く。……鹿児島の猛者(もさ)が羅宇の嵌替(すげかえ)は無い図でない。しかも着ていたのが巡査の古服、――家鳴(やなり)震動大笑(おおわらい)

 以来、戸籍(しら)べ、とさえ言えば、食いかけた箸を持って刎廻(はねまわ)(らち)の無さ。当区域受持の警官も、稲葉家では、(笑う。)と()めて、その気で髯を捻るのであったが。

 今日(けさ)のは(おおき)に勝手が違った。

「姉さんは内じゃろうで。」

「はあ、あの……」

「是非、直接に逢いたいんじゃ……取次を頼むです。」

 小女(こおんな)が一度、右の千鳥女史と(ささや)き合って、やがて巡査の顔を見い見い、二階に寝ていたのを起した始末。笑い掛けたのは半途で(おさ)え、噴出(ふきだ)したのは嚥込(のみこ)んで、いやに静かな事よって如件(くだんのごとし)

 (かすか)(しわぶき)してお孝が出た。輪曲(わが)ねて突込んだ婀娜(あだ)な伊達巻の端ばかり、袖を(すべ)って着流しの腰も見えないほどしなやかなものである。

「失礼をいたしました。」

「は、あんた覚えておらるるかね。」

 唐突(だしぬけ)に言うのがそれで、お孝はちょっと分り兼ねつつ、黄楊(つげ)の横櫛を(おさ)えたのである。

目次に戻る

目次