50話 生理学教室 五十
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巡査はそこに注いで出した茶を、喫まず、じろりと見たばかり。
「事態、私も怪訝に堪えんもんで、早急とはなしに、本郷方面へ、同僚の筋を手繰って捜りを入れると、葛木晋三と云う医学士はいかにもあるじゃね、そしてです、それは医科に勤めておらるるが、内科、外科、乃至婦人科、何でもないのじゃ。大学内のその、生理学教室に居って研究をされつつある……」
と真顔にお孝に打傾いて、左の手の自脈を取りつつ、
「まるでこの方には関係ない。純粋のその学者じゃとある。で、なお怪いですわい。その晩の挙動なり、……あの余り……貴方の前じゃけれどもが、風采の上らん、痩せた、薄髯のある、背の屈んだ、こう、突くとひょろひょろっとしそうな、人に口を利くにおどおどする、初心らしい、易っぽい、容子と云うのがじゃね、
人品備わらんですじゃろうが、どうですかね、……きゃッ、きゃッ、きゃッ。」
空咳きに咳入るごとく、肩を揺って高笑いをする。
「さあ、」と云ったが、ほほほ、とばかり、この際困ったという片頬笑みをして、ちょっと指先で畳をこすり状に、背後を向いて、も一度ほほほ、と莞爾すると、腰窓を覗いていた、島田と銀杏返が、ふっと消える。
巡査は、すなわち髯を捻って、
「怪しいものではあるまい。後暗い事は、それは無いのじゃろう。がです……あの晩の人間は名を騙った者に相違無い、とどうしても疑われてならんもんで。好奇心にも駆らるるですわ。非常に思切って、医科大学に刺を通じて面会を求めたです。そりゃ、貴方、通常服で、そして小倉じゃが袴を着けて出向いたけえな。
どうか思うたが、取次いだ小使どんが、やや暫時あって引返して、お目に掛ろう言わるる、通れ、とあって、廊下伝い方角を教わって、そしてそれから歩行き出したがね、――私は先年この岐阜県下ですわ、飛騨のある山家辺僻に勤務した事があって、深い谷陰、高い崖に煙草の密造をする奴を検べに行ったのじゃね。その節、路も無い処を、いわゆる、木の根巌角ですわい。時々藤蔓にぶら下って、激流の空を綱渡などしたが、いや、見当の着かぬ心細い事は、――門外漢が学校のその奥へ行く廊下伝いは、奥山を歩行くどころではなかったです。
日も西山に没して、前途なお遥なりと云う、遠い向うの峠見たような処に、大な扉の戸を、細う開けて、背にして、すっくりと立って、こっちを出迎えておられた。峰の一本の松という姿に見えたのが、何と驚いたねえ、あの晩の少い紳士じゃ、国手じゃったで。
ぴたりと留まって、思わず、挙手の礼を施したですよ。常服では可笑いのじゃが。
すぐにこれへ、と言われて、大な扉を入ると、ズシンと閉ったと思われい。稲妻のように、目を射られたのは、室一杯に並んだ書架に、ぎっしりと並んだ、独逸語じゃろうね、原書の背皮の金文字ですわ。
暮方の空に、これがどうですか。紺地に金泥のごとく、尊い処へ、も一つの室には名も知れない器械が、浄玻璃の鏡のように、まるで何です、人間の骨髄を透して、臓腑を射照らすかと思う、晃々たる光を放つ。
私は、よろよろとなったで。あの晩、国手が、私のために、よろよろとなられたごとくじゃ。何と、俗に云う餅屋は餅屋じゃ、職務は尊い。」
と沈着に、腕を拱く。