日本橋

50話 生理学教室 五十

1,325字 約3分 2015年11月4日 公開

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 巡査はそこに()いで出した茶を、()まず、じろりと見たばかり。

「事態、(わし)怪訝(かいが)に堪えんもんで、早急(さっきゅう)とはなしに、本郷方面へ、同僚の筋を手繰って(さぐ)りを入れると、葛木晋三と云う医学士はいかにもあるじゃね、そしてです、それは医科に勤めておらるるが、内科、外科、乃至(ないし)婦人科、何でもないのじゃ。大学内のその、生理学教室に()って研究をされつつある……」

 と真顔にお孝に打傾いて、左の手の自脈を取りつつ、

「まるでこの方には関係ない。純粋のその学者じゃとある。で、なお(あやし)いですわい。その晩の挙動なり、……あの余り……貴方(あんた)の前じゃけれどもが、風采の上らん、()せた、薄髯のある、背の(かが)んだ、こう、突くとひょろひょろっとしそうな、人に口を利くにおどおどする、初心らしい、易っぽい、容子と云うのがじゃね、

 人品備わらんですじゃろうが、どうですかね、……きゃッ、きゃッ、きゃッ。」

 空咳(からせ)きに咳入るごとく、肩を(ゆす)って高笑いをする。

「さあ、」と云ったが、ほほほ、とばかり、この際困ったという片頬笑みをして、ちょっと指先で畳をこすり(さま)に、背後(うしろ)を向いて、も一度ほほほ、と莞爾(にっこり)すると、腰窓を(のぞ)いていた、島田と銀杏返(いちょうがえし)が、ふっと消える。

 巡査は、すなわち髯を捻って、

「怪しいものではあるまい。後暗い事は、それは無いのじゃろう。がです……あの晩の人間は名を(かた)った者に相違無い、とどうしても疑われてならんもんで。好奇心にも駆らるるですわ。非常に思切って、医科大学に刺を通じて面会を求めたです。そりゃ、貴方(あんた)、通常服で、そして小倉じゃが(はかま)を着けて出向いたけえな。

 どうか思うたが、取次いだ小使どんが、やや暫時(しばらく)あって引返して、お目に掛ろう言わるる、通れ、とあって、廊下伝い方角を教わって、そしてそれから歩行(ある)き出したがね、――(わし)は先年この岐阜県下ですわ、飛騨(ひだ)のある山家辺僻(へんぴ)に勤務した事があって、深い谷陰、高い崖に煙草の密造をする奴を(しら)べに行ったのじゃね。その節、路も無い処を、いわゆる、木の根巌角(いわかど)ですわい。時々藤蔓(ふじづる)にぶら下って、激流の空を綱渡などしたが、いや、見当の着かぬ心細い事は、――門外漢が学校のその奥へ行く廊下伝いは、奥山を歩行(ある)くどころではなかったです。

 日も西山に没して、前途なお(はるか)なりと云う、遠い向うの峠見たような処に、(おおき)(ドア)の戸を、細う開けて、(うしろ)にして、すっくりと立って、こっちを出迎えておられた。峰の一本の松という姿に見えたのが、何と驚いたねえ、あの晩の(わか)い紳士じゃ、国手(せんせい)じゃったで。

 ぴたりと留まって、思わず、挙手の礼を施したですよ。常服(ふだんぎ)では可笑(おかし)いのじゃが。

 すぐにこれへ、と言われて、大な(ドア)を入ると、ズシンと閉ったと思われい。稲妻のように、目を射られたのは、(へや)一杯に並んだ書架に、ぎっしりと並んだ、独逸(ドイツ)語じゃろうね、原書の背皮の金文字ですわ。

 暮方の空に、これがどうですか。紺地に金泥(こんでい)のごとく、尊い処へ、も一つの(へや)には名も知れない器械が、浄玻璃(じょうはり)の鏡のように、まるで何です、人間の骨髄を(とお)して、臓腑を射照らすかと思う、晃々(こうこう)たる光を放つ。

 (わし)は、よろよろとなったで。あの晩、国手(せんせい)が、私のために、よろよろとなられたごとくじゃ。何と、俗に云う餅屋は餅屋じゃ、職務は(たっと)い。」

 と沈着に、腕を(こまぬ)く。

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