吉田松陰

13話 第八 旅行

7,760字 約16分 2017年8月4日 公開

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 旅行は、実に彼の活ける学問たりき。彼れ嘉永三年鎮西(ちんぜい)の山川を跋渉(ばっしょう)し、四年藩主の駕に扈(こ)して江戸に到り、相房形勢の地を按じ、さらに東北に向って遠征を試みんと欲し、肥後(ひご)の人宮部鼎蔵(ていぞう)と、十二月十五日赤穂義士復讐の日を期して途(と)に就(つ)かんとす。既に藩許を得るも未(いま)だ旅券を得ず、彼毫(ごう)も遅疑(ちぎ)せず、曰く、「一諾(いちだく)山よりも重し、俸禄捨つべし、士籍擲(なげう)つべし、国に報ゆるの業、何ぞ必らずしも区々常規の中に齷齪(あくさく)するのみならんや」。ここにおいて「頭を挙げて宇宙を観れば、大道は到る処に随う」の句を高吟し、短褐(たんかつ)孤剣、武総の野を経て、水戸に赴き、白川に出で、会津に入り、越後に往き、佐渡に航し、転じて羽州を貫き、さらに寒沢(さむさわ)に抵(いた)り、遙かに函館海峡を隔てて松前を望み、転じて仙台より米沢に到り、再び会津を蹈み、日光を経て江戸に帰れり。蓋(けだ)しこの亡邸の一挙たる、彼が身世(しんせい)齟齬(そご)の第一着にして、彼れ自(みずか)らその猛気を用いたる劈頭(へきとう)に加えたり。彼れ何故にかくの如き事を為せしか。

 彼が嘉永三年における鎮西の旅行は、彼が生涯において浅からぬ関渉(かんしょう)を与えたりき。彼は平戸に如(い)き、平戸藩の重臣葉山左内に介し、山鹿素水を見、肥後に入り宮部鼎蔵の家を主として、その徒及び横井小楠の社中と交れり。彼嘗(かつ)て曰く、

僕嘗(かつ)て平戸に遊ぶ、その士林(しりん)を観るに、家ごとに必らず一小舸(しょうか)を置く。少しく余力あれば、洋に出でて魚を捕うるを以て楽と為す。僕知る所葉山左内なる者、食禄五百石、班(はん)中老に列す、その齢(よわい)また已(すで)に六十余、官暇あれば出でて大洋に漁す、常に曰く、「海島の士かくの如くならずんば、事に臨んで用を済(な)さず」と。西南諸国、古(いにしえ)より最も水戦に長ずと称す。而(しこう)して今平戸頗(すこぶ)る古風を存す、蓋(けだ)し由(よ)りて然(しか)るところあるなりと。

 惟(おも)うに彼が海事思想を鼓舞したるもの、実に平戸における観察、与(あずか)りて多きにおらずんばあらず。

 もしそれ肥後における感化に到りては、さらに深かつ大なるものあり。天明の頃、肥後の医師に富田太鳳(たいほう)なるものあり、慷慨(こうがい)にして奇節あり、高山彦九と交驩(こうかん)し、夙(つと)に尊王賤覇の議を唱う。爾来(じらい)林藤次なるものあり、博学篤行(とっこう)、我邦の古典に通じ、敬神家の矜式(きょうしょく)となり、また勤王の木鐸(ぼくたく)となる。宮部、永鳥、轟の徒、みな彼が風を聴いて起るもの。而(しこう)して当時横井小楠また藩学の因循論と相容れず、卓立して実学説を唱え、宮部の徒従ってその議論を上下し、未(いま)だ悉(ことごと)く一致せざるも、また後年彼が開国論を叫破し、ために互いに分裂反目するの甚しきに至らず。松陰の来遊、あたかもこの時にあり。彼が肥後に来(きた)り、天涯知己多きの感をなしたる、豈(あ)に偶然ならんや。彼が交遊の一半は、その真個(しんこ)の同志者の一半は、死に到るまで、肥後人なりとす。彼の死後においても、長州の尊王党と肥後の尊王党とは、恒(つね)に相携提(けいてい)し、元治京師の役よりして、奇兵隊の時に及び、肥人の長軍に投じたるもの一にして足らず。乃(すなわ)ちその淵原はここに存するものと知るべし。

 彼がその帯刀(たいとう)の様(さま)よりその髻(まげ)の結い風にまで、肥後流の質樸にして剛健なるを愛し、自(みず)からこれを模したる如きは、暫らく余事として、彼が江戸の死獄よりして、書を同志に送り、皇室中心主義を主張し、学校を以てその中心点となさんとしたるが如きは、横井小楠『学校問答』中の意見を祖述したるもの、決して掩うべからざるなり。

 その東北行において、最も大なる印象を加えたるは水戸なるべし。彼の尊王論は水戸派の尊王論にあらず。その淵原各々同じからずして、毫(ごう)も水戸派の議論に負う鮮(すく)なきが如しといえども、その実未(いま)だ必らずしも然(しか)りというべからず。然(しか)も王覇の弁、華夷の説、神州の神州たる所以(ゆえん)、二百年来水戸人士のこれを講ずる精かつ詳。後水戸学の宿儒(しゅくじゅ)会沢(あいざわ)、豊田の諸氏に接し、その談論を聞き、喟然(きぜん)として嘆じて曰く、「身(み)皇国に生れ、皇国の皇国たる所以を知らず、何を以て天地の間に立たん」と。嘗(かつ)て彼の「東北日記」の原稿を見るに、その表紙の裏面に、細字を以て『六国史(りっこくし)』云々と乱抹(らんまつ)せるものあり。これ彼が水戸に来りて、自家の邦典に明かならざるを愧(は)じ、発憤以てこれを誌(しる)せるなり。帰来(きらい)急に『六国史』を取ってこれを読み、古(いにしえ)の聖君英主海外蛮夷を懾服(しょうふく)したるの雄略を観て、慨然として曰く、「吾(われ)今にして皇国の皇国たる所以を知れり」と。もしそれ彼の蜻州(せいていしゅう)の頭尾を蹈破して、天下を狭しとするの雄心を生じたるが如きは、活ける学問の学問たる所以と知らずや。

 かくの如く旅行は、彼の活ける学問たりき。然(しか)れども彼は亡邸のために、籍を削られ、禄を奪われ、家に屏居(へいきょ)せしめられたり。彼が行路はここに蹉跌(さてつ)したりき。

 これを要するに彼はその眼中、既に地方的固着心あらざりき。彼は長州藩士として天下に立たず、日本人士として天下に立てり。彼は実に天下の士を以て自(みずか)ら任ぜしなり。その亡邸の挙たる、禄を世にし、籍を世にする封建時代においては、実に非常の事といわざるを得ず。然(しか)るにこれを捨てて、毫(ごう)も意に関せざるが如きは何ぞや。果してこれを捨つる程の非常なる道理ありしか。否。彼はただ友人と発程の日を約束し、その期に違(たが)わんことを恐れて、かくの如き無遠慮の事を為したるなり。発程の期日を延期したりとて、何程の事か有る。この極めて軽小なる事を以て、この極めて重大なるものと易(か)う、顧(おも)うに彼の眼中において果して自(みずか)ら安んずる所あるか。

 かつ彼の一生を卜(ぼく)するに、彼恒(つね)に身を以て艱難(かんなん)を避けざるのみならず、自(みずか)ら艱難を招くもの、その例、即ちこの亡邸の一挙において観るべし。少しくその期日を忍べば、何ぞ故(ことさ)らに亡邸するに至らん、何ぞ故らに浪人と為(な)るに及ばん、何ぞ故らにこの亡邸のために帰国を命ぜらるるに及ばん。然(しか)れども彼はこれを辞せざりしなり。大凡(おおよそ)物はその好む所に聚(あつま)る、彼の艱難(かんなん)の如きも、また焉(いずく)んぞ彼が自ら好んでこれを致したるに非ざる莫(な)きを知らんや。

 蹉跌(さてつ)彼において何かあらん、彼は蜻州(せいていしゅう)の州の」は底本では「蜻艇州の」]頭尾を踏み破りて、満目(まんもく)の江山(こうざん)にその磊塊(らいかい)の気を養えり。彼は故郷に屏居(へいきょ)せしめられたるに係(かか)わらず、知を藩主に辱(かたじけの)うし、再び十年間遊学の許可を得、嘉永六年正月萩を発し、芸州より四国に渡り、大坂に達し、畿内を経、伊賀より伊勢に入り、随処の名士に接し、随処の歴史的古跡、随処の勝区を訪尋し、中山道(なかせんどう)を経、六月一日を以て江戸に達せり。あたかもこれ米国水師提督ペルリ、軍艦四隻を帥(ひき)い、浦賀湾に突至(とっし)し、国書を献(ささ)げ、交親通商の期を迫るに際す。彼が平生(へいぜい)蓄積したる《こうそう》邁往(まいおう)の気、一時に沸発し、正に非常の事を為し、以て非常の功を立てんとす。ここにおいてか万里超海の鵬挙(ほうきょ)は彼を促して、終(つい)に自(みずか)ら禁ずる能(あた)わざりき。

 何故に彼は外国に渡航せんと欲したるぞ。吾人(ごじん)これを詳(つまびら)かにせず、然(しか)れどもその佐久間象山の慫慂(しょうよう)に出でたる事に至っては、復(ま)た断じて疑うべからず。象山夙(つと)に航海術の、我が四面環海の邦に必要なるを看破し、その議を幕府に献じ、而(しこう)して顧(かえりみ)られず。松陰に語りて曰く、「男子宜(よろし)く海外に遊び、宇内(うだい)の形勢に通じ、以て緩急の用に資せざるべからず」と。乃(すなわ)ち知る、彼が万里の外土を踏まんとする一片の火鎌(ひうちがま)、象山の燧石(ひうちいし)と相鑽(う)つ、焉(いずく)んぞ雄心勃如(ぼつじょ)たらざるを得ん。かくて端(はし)なくペルリは、明年の再来を期して艦を回(めぐ)らせり。而(しこう)して七月に至りては、露国の使節、軍艦四隻を帥(ひき)いて長崎に来りて互市(ごし)を乞う。米艦僅かに去れば露艦来り、天下の人心、漸く乱を思わんとす。彼は九月江戸を発し、驀地(ばくじ)九州に入り、豊肥を経、長崎に赴き、露艦に乗じ、海外に航せんとす。即ち異日における象山が買禍(ばいか)の本案たる、「この子に霊骨有り」の送詩は、この時に為(つく)りしなり。而(しこう)して露艦幾(いくばく)もなく去り、復(ま)た為すべき無し、ここにおいてか十二月復た江戸に来れり。

 惟(おも)うに彼が外国に航せんと欲したるは、種々の企謀ありしに相違なしといえども、その重(おも)なる点は、則ち彼を知り己れを知るの意にして、以て一種の間諜(かんちょう)たらんと欲したりしなり。いわゆる象山が「微臣別に謀を伐(う)つの策有り、安(いずく)んぞ風船を得て聖東(ワシントン)に下らん」といいしは、また以てその意の存する所を知るべし。然(しか)れどもさらに一層を突進して論ずれば、その非常の事たりしがためのみ。彼は非常を愛して、凡俗の行をなすを厭う。もし衆人みな独木橋(まるきばし)を渡らば、彼奚(いずく)んぞ喜んで渡らん。ただ人の為すを敢えてせざること、彼敢えて為さんと欲するのみ。

 彼は志を達せずして江戸に帰りぬ。然れどもその志は、死灰(しかい)に帰する能(あた)わず。あたかも好し、安政元年正月十八日、前言の期を違(たが)えず、ペルリは軍艦四隻、汽船三隻を帥(ひき)いて、江戸羽根田に闖入(ちんにゅう)し、また退(しりぞ)いて神奈川に投錨(とうびょう)す。識者の予測したる、愚者の夢視せざる、三百年来未(いま)だ曾(かつ)てこれなき大刺激は来れり。大挑発は試みられたり。怯者懼(おそ)れ、勇者奮(ふる)い、愚者驚き、智者憂い、人心動乱、停止する所を知らず。この時において彼豈(あ)に徒爾(とじ)にして已(や)まんや。蹈海(とうかい)の雄志は奔馬(ほんば)の鞭影(べんえい)に驚きたるが如し。彼豈(あ)に徒爾にして已(や)まんや。

 彼はこの志を齎(もたら)し、暗にその兄に別を告げて曰く、今より風塵を鎌倉に避け、ただ読書を事とせんと。而(しこう)してその兄に向って誓文を与えて曰く、

今甲寅(こういん)の歳より壬戌(じんじゅつ)の歳まで天下国家の事をいわず、蘇秦、張儀の術をなさず、退(しりぞ)いては蠧魚(とぎょ)と為(な)り、進んでは天下を跋渉(ばっしょう)し、形勢を熟覧し、以て他年報国の基を為(な)さんのみ。富岳(ふがく)崩るといえども、刀水涸(か)るといえども、誓ってこの言に負(そむ)かざるなり。

 而(しこう)して翌日その交友を会し、その志を告げ、大書して曰く、

丈夫見る所有り、意を決してこれを為す、富岳崩るといえども、刀水竭(つ)くといえども、また誰(たれ)かこれを移易(いえき)せんや。

 かくの如く富岳、刀水は、一方においては鎌倉蟄居(ちっきょ)の保証人たり、他方においては、米艦に搭(とう)じて外国に行くの保証人たり。山水霊(れい)あらば、当(まさ)にその濫証(らんしょう)を笑うべしといえども、彼の真意は、前者に在らずして固(もと)より後者に在るなり。ここにおいて彼は、その友金子重輔(じゅうすけ)と与(とも)に神奈川に抵(いた)り、横浜に赴き、外艦に近づくの策を講ず。時に象山また横浜にあり、互に相謀り、謀(はかりごと)いよいよ出でていよいよ差(たが)い、あるいは神奈川に返り、あるいは横浜に赴き、あるいは外艦を趁(お)うて羽根田に抵(いた)るも、陸上より艦を眺め、陸上より艦を追うのみにして、遂に望を達するの機会を得ざりしなり。而(しこう)して今やペルリの軍艦は、去りて下田に泊す。故に彼もまた去りて下田に往く。而(しこう)して下田においても、またその策なかりしなり。則ち五たび策を画して五たび違い、今は如何ともすべからず。百計究する所、遂に自(みずか)ら漁舟を窃(ぬす)んで、直ちに外艦に投ぜんとせり。時これ三月二十七日、外人の上陸するを見て、予(か)ねて草したる漢文の書翰を投じ、柿崎弁天祠に入りて潮の来るを俟(ま)ち、その沙洲に繋(つな)ぎたる漁舟に乗り出でんとす。あたかもこれ天地も眠る丑(うし)時にして、独り天上の星、地上の海波これを知るのみ。生憎(あいにく)や櫓(ろ)柱損じて如何ともする能(あた)わず、急に犢鼻褌(ふんどし)を解き、櫂(かい)を左右の舷(げん)に結び、二人極力これを揺(うご)かす、忽ちにして褌(ふんどし)絶つ。急に帯を解き、これを結び、蒼皇(そうこう)以て舟を行(や)る。その具素(もと)より備わらず、術また熱せず、舟動(やや)もすれば木葉の如く波上に廻旋して前(すす)まず、波濤漠々として前途茫たり、最早(もはや)力竭(つ)き、腕脱し、如何ともする能(あた)わざる場合に迫りしも、遂に一徹の精神は船を送りて、漸くミシシッピー号に達せしめたり。来る者は誰ぞ。艦上の人は怪んで船灯を下しこれを照らす。彼その光を借りて漢字を書して曰く、「吾(われ)ら、米利堅(メリケン)に往かんと欲す、君、幸いにこれを大将に請え」と。梯子(はしご)を攀(よ)じて上り、船員の来(きた)るを見てこれに与う。彼れ語意半ば通じ半ば解せず、手語してボウパタン号に往くを示す、これ旗艦にして、ペルリここにあり。ここにおいて彼ら復(ま)た小舟に乗る。行くこと一丁、遂に旗艦の内側に近づかんとして得ず、波に動かされてその外側に達す。小舟船梯(せんてい)の底に入り、浪と共に上下し、激して声を成す、船員驚き怒り、棍を携え、梯子に立ち、二人の船を衝き却(しりぞ)けんとす。松陰梯(はしご)に躍(おど)ってその梯に在り、金子を顧みて纜(ともづな)を攬(と)らしむ。外人なお船を衝て止(や)まず、金子もために却(しりぞ)けられんことを恐れ、舟を捨て躍って梯に在り。而(しこう)して彼らを送りし船は、已(すで)に去りて浩蕩(こうとう)の濤に擒(とりこ)にせられ水烟渺漫(びょうまん)の裡(うち)に在り、腰刀、行李(こうり)またその中に在りて行く所を知らず。彼らはかくの如く辛苦して達せり、殆(ほと)んど生命を賭して達せり、而(しこう)して已(すで)に艦に上れり、然(しか)れどもその志を達する能(あた)わざるなり。彼らは懇請せり、哀愬(あいそ)せり、その有る限りの力を竭(つく)して相談せり、然(しか)れども頑として動かざるなり。船員曰く、君らの志は善し、然(しか)れども二国交親せんと欲するの今日において、私(ひそか)に君らを載せ去る、二国の国交を如何せんと。万里鵬挙(ほうきょ)の志またここにおいて蹉(さた)たり。

 昔はハンプデン、クロンウエル相率いて、チャールス王の圧制を逃れ、米国に奔(はし)らんとし、既に船に乗じてテームス河に在り。事に隔(へだ)てられてその志を達せず。而(しこう)して英国革命の演劇は、実にこの二人の役者に由(よ)りて演ぜられたり。松陰の事むしろこの類(たぐい)なる莫(な)からんや。

〔註〕左に掲ぐるは、余が今春熱海漫遊の後、『国民新聞』に寄せたる「熱海だより」中の一なり。その語る所未(いま)だ全く松陰手録の「廿七夜記」と符合せざるものあれども、当時の情況概見すべし。

 兼(かね)て松陰吉田氏の事に付いては取り調べたき事もこれ有り、旁(かたが)た都合もあらば下田港まで探検に出懸けたきつもりにて、その旨熱海小学校訓導内田氏に相話し候処、同氏申さるるよう、ただ今当学校裁縫科の教師たる岡崎総吉と申す仁(ひと)こそ下田において松陰を宿泊せしめたる旅亭の主人の子なれば、多少承知致しおらんと。遂に同氏の紹介にて岡崎氏に面会致し候。その仁は五十前後とも覚えられ、職人膚を帯びたる温厚の人物に見受け申し候。今小生の問うに応じて彼(かの)人の答えたる一斑を左に申上げ候。

 自分が家は下田港の近傍岡方村と申し、父なるもの旅人宿を営み岡方屋と申し候。その頃は純粋の旅亭と申すは自分宅の外僅かに他に一軒あるのみにて、外船到来後は衆客輻輳(ふくそう)致し候。

 安政元年の春暮なんとする頃、二人の武士入り来り候。彼らは天城山を越えて来りたる様子にて、随分疲労したるかと見受け候。両人共に二十三、四とも見ゆる若者にて、下田見物のため罷(まか)り越したと申し候。而(しこう)して彼らは二階の奥座敷を占め申し候。

 下田見物のため罷(まか)り越せしと申せども、ただ着後直(ただ)ちに自分の父を呼び寄せ下田の模様逐一聞きたるのみにて、その後は別にかけ廻りて見物する模様もなく、ただ寐(ね)たり転んだり立ったり坐りたりして日を送るのみにてこれ有り候。最もある日外より帰りがけに瘠形の小男自分の父に余り景色が面白きままに城山に登りたりと申し候を傍耳(はたみみ)に記臆致し候。

 右の瘠形の小男と申すは、満面薄き痘痕(とうこん)ばらばらと点じ、目は細く光りて眦(まなじ)りはきりきりと上に釣り、鼻梁隆起して何となく凸様の顔面をなし候。両頬は下殺(げっそり)し顎(あご)にチリチリしたる薄き蒼髯(あおひげ)乱れ生じ、髪は大束の野郎に結び申し候。序(ついで)ながらその来泊したる当時の風俗を申せば、木綿藍縞の袷衣(あわせ)に小倉の帯を締め無地木綿のぶっ割き羽織を着し、鼠小紋の半股引に脚半(きゃはん)をあて前後に小き小包物を負いおり候(看よ看よ、一個の吉田松陰彼の話頭より活躍し来らんとす)。

 この人はとんと衣服などには構い申さずと覚え、家にある時は勿論外に出るさえ羽織も着けず、ただ小倉の帯をぐるぐる廻したるのみにて御坐候。一切沈黙したる風にて、家内の者共にも何とも話し懸けず、ただ食後にはトントン廊下を運動し、時々は余りの足音にて家の者共は内々小言(こごと)を申し候。昼の間は動(やや)もすれば二階の簷(のき)を飛び超えて家根に上り、それより幾時間となく海を眺め外船の阿那の点にあるを見守りたることもこれ有り候。

 食事も普通にて別に物好みもこれ無く、ただ器械的に箸より口へ移すまでにてこれ有り。いわんや酒を飲みたることなきは勿論、婦人に戯言(ざれごと)を吐きたることなきは勿論、遊廓などに足蹈みしたる様(さま)は一向に見受け申さず候。

 夜は書きものやら書見やらなし、十一時半頃就寝し、それより二人窃々(ひそひそ)相話し、何やら分り申さず候えども、その声は二時過ぎまで聞え申し候。而(しこう)して朝も五時頃には起き出で、自分が掃除に行く時にも既に例の小包なども室隅に片附けこれ有り、別段自分に挨拶することもなく、ただ箒(ほうき)を握りて立ち寄れば彼人(かのひと)は邪魔にならぬよう傍に身を側(そば)め申し候位にて、さらに異状も認め申さず候。

 彼らの滞留も確実覚え申さず候えども、十日前後なりしかと存じ候。而(しこう)して後の五、六日は雨天打ち続き申し候。珍らしく晴れたれば彼らは外出し五時半頃帰宿致し候。その翌日も朝より外出して正午頃に帰り、午後三時頃より再び外出致し候。

 はて不思議、滅多(めった)に外出したことなき御客様が今まで帰らぬとは、イヤイヤ若者の常なれば何処にか引っかかりたらんなど噂取りどりに致し候。待てども待てども帰り来(きた)らず、今は断念して戸を閉じ一家就眠致し候。

 未明に柿崎村名主小沢某より自分父を呼びに来り候。如何なる事と心驚きながら父は倉皇(そうこう)出で行きたるに、南無三(なむさん)内の客人が御国法を犯し外国船に乗り込まんとして成らず自首したりとの事にて、一方には柿崎村民が褌(ふんどし)を以て櫓綱(ろづな)となし大小(刀)行李(こうり)などその中にある漁舟の漂着したるを認め、名主に訴え出でたるより、かれこれ自分の客人なりと分明し、かくてこそ呼び出しに相成りたる理由に御座候。

 イヤ驚いたの、驚かぬのと、かれこれ申す次第にはこれ無く候。客人は重き罪人として網輿(あみかご)に送られ江戸に赴き候。自分家は御叱りの上七日間門を鎖(とざ)し営業停止申し附けられ候。

 客人らが如何にして何時の間に包物を持ち出したるやとんと気付き申さず候。後より取り調べ候えども何物もなし。ただ預け置きたる二組の半股引と脚半(きゃはん)こそ遺物にして、現に自分母はこれを投げつけ、如何にも貧乏神が舞い込みたり、宿代を払わぬのみかかかる迷惑をかけて、而してこれがその償いになるものかと罵り申し候。最も当時の旅籠(はたご)代は三食一泊にて八百文の由なれば、両人十日として一円六十銭ばかりに相成り候。右は岡崎総吉と申す人の物語りに御坐候。小生申すよう、御宅には宿帳あらば多分この客人の名前も記しあるべし、一見致したしと。彼人(かのひと)御安きことなり、早速下田なる母の元に申し遣(つか)わすべし、最早(もはや)旅人宿も廃業し父も早く死したれは、果して存在しおるや否や受合い申さずと語られ候。最早当時の名主も死し自分父も死したれば、下田にて彼人(かのひと)の事を知るもの一人もなかるべしとの言葉にて、小生も下田港へ行くことはその儘(まま)見合わせ申し候。しかしながら、この人より承り及び、大いに当時の情象を合点したるかと存じ申し候。

 松陰の一代記を案ずるに、安政元年三月金子重助と共に蹈海(とうかい)の志を実行せんと欲し、神奈川横浜の際を彷徨(ほうこう)し、遂に米艦を趁(お)うて下田に赴(おもむ)かんとし、十四日程ヶ谷を発し根府川の関所をば熱海入浴の客と瞞してこれを過ぎ、十八日下田に達し、千辛万苦の末二十七日の夜二時頃漁舟を盗みこれに乗じて米国の旗艦に赴かんとし、遂にこれに達したれども、米将その志を嘉(よ)みしその事を許さず、壮志磋跌(さてつ)、而(しこう)してこの蹉跌、さらに彼を駆りて革命の先達とならしめ候委細は、他日出版の松陰論にて開陳致すべく候。先(まず)は右まで草々頓首。

明治二十六年三月二十七日蘇峰生

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