吉田松陰

16話 第十 攘夷

7,577字 約15分 2017年8月4日 公開

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「去年は雲外の鶴、今日は籠中の」。蹈海(とうかい)の蹉跌(さてつ)は、乍(たちま)ち徳川政府の訊(と)う所となり、江戸伝馬町の獄に繋がれ、延いて佐久間象山に及び、遂に「重き御国禁を犯し候段不届(ふとどき)に付き、父杉百合之助へ引渡し在所において蟄居(ちっきょ)申し付ける」の宣告を得、檻輿(かんよ)長門に下り、野山の獄に投ぜられたり。これ実に安政元年九月十月の交とす。

 吾人(ごじん)はこれよりこの前後における、彼が畢生(ひっせい)の本領たる攘夷尊王説の発達変化について、観察するを要す。

 彼は攘夷家(むしろ敵愾家(てきがいか))にして鎖国家に非ず、彼は尊王家にして討幕家に非ず。而(しこう)してその遂に鎖国に類するの策を主張し、討幕の率先者となりたるは、惟(おも)うに時勢の刺激然(しか)らしむるためと知らずや。

 彼は嘉永六年癸丑(きちゅう)、米国軍艦が、江戸近海に繋泊(けいはく)するに際しては、固(もと)より主戦論者にてありき。彼れ曰く、「理宜して天下の大義を伸べて、逆夷の罪を征討すべし」と。その理由を問えば、曰く、「その情固(もと)より狡黠(こうかつ)にして、その状またすこぶる猖獗(しょうけつ)なり」と。これ果して征討するに適当なる理由たるや否や。狡黠猖獗(こうかつしょうけつ)の熟字は、要するにただ抽象的の文字にして、その「何故に」、「如何にして」、「如何なる」ということを説明せざる限りは、殆んどただ一種の悖論(はいろん)たる勿(なか)らんや。而(しこう)して如何にして戦わんとするや。

 彼は韜(とうけん)を以て家学と為せり、彼れ『武教全書』を講じ、彼れ山鹿流の兵法を学び、彼れ象山に就いてほぼ西洋流の砲術タクチックを聴く、然(しか)らば彼れ果して充分なる防戦の策無かるべからず。而(しこう)してその策する所を観れば、曰く、「今の戦法は、これを先(さき)んずるに海戦を以てし、これを終るに陸戦を以てすべし」と。その海戦の法は、如何、曰く、「相模(さがみ)、上総(かずさ)、安房(あわ)等の海浜にて漁船中の最も堅牢(けんろう)快速なるもの五十艘(そう)ばかりに屈竟(くっきょう)の舸子(かこ)を併せ雇い、士卒に各々小銃一個を授けて、毎船十名ばかりを載せ、就中(なかんずく)大砲を善くする者を択び、砲一門に打手五名を副え、船に乗り込ませ各船各々長鳶口(ながとびくち)、長熊手、打鈎(うちかぎ)、竹梯子等を備え置くべし〔漁船にはその容量重きに失せざるか〕」と、これ即ち準備なり。

 さてその戦略は如何。「かくの如き船を備え置き要港に隠伏し、夜陰に乗じ先ず二十艘(そう)ばかり乗出し、夷船の繋泊(けいはく)する所の三、四町内まで乗附け〔如何にして乗附け得べき〕、大砲を連発すべし。夷船は大的なれば、大砲の百発百中固(もと)より疑いなし〔大いに然(しか)り〕。あるいは夷舶の堅牢(けんろう)破り難きを説く者あれども、夷の船制を審(つまびら)かにするに深く懼(おそ)るるに足らず〔何故に〕。船内火起り夷輩騒動するを見ば、小銃にてこれを狙撃(そげき)すべし。また脚船を押寄せ支うるならば、急に飛附き、長鳶口(ながとびくち)、長熊手、打鈎(うちかぎ)を以て引寄せ乗遷(うつ)り船中の夷輩を鏖殺(おうさつ)し脚船を奪うべし〔何ぞ壇の浦の戦に似たる〕。また軍艦中騒擾(そうじょう)の様子を看(み)ば、急に乗附き梯子を架して飛乗り、腰刀にて手詰めに夷輩を鏖殺し軍艦を奪うべし〔何ぞ蒙古襲来の役に類する〕。軍艦水上一間半二間ばかり位なれば、三間梯子にて取登ること何の難き事かあらん〔先生下田の経験に依(よ)れば果して如何〕」。

 また焼討の奇策あり、その方左に叙(の)ぶべし。「百石積(づみ)以上の船に焚草を積み油の古樽をこれに交え火薬を以て火口とし、長縄を以て五、六艘(そう)を聯(つら)ね、船々相離るること十間ばかりにして風上より夷船へ乗掛け火を放ち、火起るを俟(ま)ち、乗行く人数は脚船にて乗還るべし〔またこれ赤壁火攻の術か、殊に敵の脚船を奪いこれにて乗りて還るなどは最も妙策とす〕」。

 海戦の術かくの如し、然(しか)らば陸戦は如何。「もしこれらの襲撃に懲(こ)りずして陸地に押掛け上陸せんか、その上陸の混乱に乗じ軍艦を奪い取り、もしくは脚船を乗取るべし。要港に備えある三十艘(そう)の船は機を察して出戦すべし」。もしそれ陸戦の法に至っては、いわゆる「山林を右背にし、田沢を前左にし、高きを負い、低きに臨み、本陣を据え、相待つべし〔これ孫子流の兵法か〕」。その討つべきは、「軍艦より脚船を卸(おろ)して陸に近づく所」一なり、「脚船より上陸し、備えを立つる所」二なり、「備えを進め、砲台を築き、足留を拵(こしら)ゆる所」三なり。この三箇条は、あるいは砲銃を用い、あるいは刀槍を用ゆ、各々その便に従うべし。ここにおいてか彼れ曰く、「勝を制するの易々(いい)たる固(もと)より毛を燎(や)くが如し」と。

 吾人(ごじん)は今日においてこの策論を読み、その妄誕(ぼうたん)不稽(ふけい)に驚くといえども、これがために松陰の松陰たる価値において、一分一毛を減ずる所無きを見るなり。彼がこの論を草するは、これ嘉永六年癸丑(きちゅう)の八月なり、即ち二十四歳なる少壮者の議論なり。その個人的年齢を以て推し、その歴史的時日を以て推し、その時勢的境遇を以て推せば、かくの如き論の、かくの如き人の口より、かくの如き世に出で来るは、復(ま)た異(あや)しむに足らず。看よ、今日においてすら、なお長白山頭の雲を踏み破り、馬を呉山の第一峯に立て、東洋に新帝国を作為(さくい)するなどの迷夢を抱く者あるに非ずや。

 然(しか)りといえども、彼は横井小楠の如く直覚的の活眼を有せず、佐久間象山の如く推歩打算的経綸を有せず、また藤田東湖の如く時勢の潮汐を察して、一世の人心を籠絡(ろうらく)する大権数(けんすう)を有せずといえども、また決して無謀の攘夷(じょうい)家に非ず。ただ攘夷を口実としてその野心を逞(たくまし)うせんとする浮浪に非ず。彼が攘夷は敵愾心(てきがいしん)の凝結したるものにして、その立意誠実にして、また一種の経綸ありしや、また決して疑を容れず。

 彼は神奈川条約調印の後においては、最早(もはや)主戦論を擲(なげう)てり。その安政二年三月月性(げっしょう)に与えたる書中の一節に、「魯墨講和一定す、決然として我よりこれを破り信を夷狄(いてき)に失うべからず、但し章程を厳にし、信義を厚うし、その間を以て国力を養い、取り易き朝鮮、満洲、支那を切随え、交易にて魯墨に失う所は、また土地にて鮮満にて償うべし」と。また同年四月、来原(くりはら)良蔵に与うる書中にもいえり、「癸丑(きちゅう)、甲寅(こういん)は一大機会なりしに、乃(すなわ)ち坐してこれを失う。然れども事已(すで)に往(い)けり。今の計を為さんには、和親して以て二虜を制し、間に乗じて国を富まし兵を強くし、蝦夷(えぞ)を墾(ひら)き満洲を奪い、朝鮮を来たし南地を並(あわ)せ、然るのち米を拉(ひし)ぎ欧を折(くじ)かば、則ち事克(か)たざるは無し。向(さき)の機を失いしは未(いま)だ深く惜しむに足らざるなり」と。ここにおいてか知る、彼は既に主戦論者に非ずして和親論者となりしを。ただその敵愾の本領に至っては、少しも変ずることなく、いわゆる侵略主義を以て、国権を外に耀(かがや)かし、弱を撃ちて強に及ぶの策を執りしや、火を睹(み)るよりも明らけし。

 然(しか)らば則ち彼は、遂に和親論者にて終りしか。否々(いないな)、彼は熱心なる非和親論者となれり。事実は今その所以(ゆえん)を説明すべし。ペルリーが日本に来(きた)り、安政元年三月、神奈川条約なるものを締結するや、いわゆる和親条約にして、両国の人民、誠意不朽の親睦を取結び、両国人民交親を旨とすというに過ぎず。その目(もく)僅かに十二箇条にして、下田、箱館の両港を開き、米国船に、薪水(しんすい)、飲料、石炭等欠乏の品を売り渡すというに過ぎず。而(しこう)してその真個に開国の大運動を生じたるは、米国総領事、タオンセント・ハリスが締結したる下田条約にして、而してその条約こそ、他の十六箇国条約の標準となり、かつ今日まで維持し来れる現行条約の原本にして、実にその締結の始末は、松陰をして熱心なる非和親論者とならしめたりき。蓋(けだ)しこの下田条約は、我邦外交史中における一大関鍵にして、維新開国の主脳、断じてここに在りというも、また誣(し)いざるなり。

 かえって説く、米国総領事タオンセント・ハリスは、神奈川条約の明文に従い、米国大統領の国書を齎(もた)らし、和親貿易条約のためその全権使節として日本に来れり。これ実に安政三年七月、吉田松陰があたかもその禁錮(きんこ)中において特許を得、松下村塾を興したる同年同月にてありしなり。蓋(けだ)しハリスは、前に述ぶるが如く、大なる獲物を得んと欲して来りし者にして、直ちにその意を徳川政府に通じ、ここにおいて同年十月徳川政府は貿易取調掛を命じ、下田奉行をして談判の手始を開かしめたり。時あたかも英清戦争に際して、清国敗北の風評頻(しき)りに聞えければ、ハリスはこれを奇貨とし、歩々(ほほ)相薄(せ)まり、遂に安政四年二月に至っては、当時の閣老堀田備中守をして、外国人接待応接の式方を改めこれを優遇せしめ、終(つい)に安政四年五月下田奉行は、ハリスに逼(せま)られて、規程章八箇条に調印し、いわゆる安政五年調印、現行条約の濫觴(らんしょう)を造れり。この規程章は、同年六月閣老より天下に報告し、これがためにいよいよ世論を激起したるに際し、ハリスはさらにその和親通商条約の全権委員たる資格よりして、直ちに徳川将軍に謁(えつ)し、大統領の国書を奉呈し、幕閣に向ってその談判を開くの要求を為し、而(しこう)して幕閣はハリスに逼(せま)られ、同年七月を以て謁見応接の礼式を定めしめ、八月を以て米使謁見の議を天下に達し、遂に同年十月を以てハリスは下田より江戸に到り、将軍に謁見して国書を奉呈し、さらに堀田閣老の邸に抵(いた)り、大凡(おおよそ)六時間の会話を以て、開国貿易の日本の独立において、国是(こくぜ)において、利益において、已(や)むべからざるを陳述し、遂にこれがために独り勢に迫らるるのみならず、理においても、情においても開国の已(や)むべからざるの新思想を以て、堀田備中守を始めとし、井上、川路、岩瀬、堀、その他の幕吏中の秀才に洗礼を施せり。

 かくて井上、岩瀬らは、日本の全権となり、ハリスが呈出したる草案に拠り、討論熟議、漸く同年十二月二十五日に至りて、これを規定せり。而(しこう)して同年十二月を以て、三百諸侯に開港の已(や)むべからざるを伝え、その意見を問い、また林大学頭、津田半三郎を以て京都に上申し、その勅許を得んことを求めたり。而して京都は兼(かね)てより鎖国論の本拠にして、唯(ひと)り勅許を得ざるのみならず、断々然として不承諾の意を示せり。これがために堀田閣老自(みずか)ら京都に到り、遊説(ゆうぜい)を為したるに拘(かかわ)らず、遂に捗々(はかばか)しき事も無く、堀田の江戸より京都に往復したる時日は、五年正月より四月に亙(わた)りたれども、遂にその要領を得る能(あた)わず。ただ天下に雷の如く響きしものは、勅答として出でたる「神洲の大患、国家の安危、容易ならざる事」といい、「今般仮条約の趣にては、御国体立ち難くと思召(おぼしめ)さる」というに過ぎず。要するに京都の議論は、その説明において冷熱の相違あり、その実行において、晦顕(かいけん)の差ありといえども、鎖国攘夷の精神に至っては、始終一轍(いってつ)に出でざるものなきは、当時の情勢断じて疑うべからず。何となれば京都を動かすものは、彼(か)の智勇弁力の徒なればなり。

 然(しか)るに一方においては、かくの如く国論沸騰、廟議紛擾(ふんじょう)その統一を失うたるに際して、他方においては、宿約たる安政五年三月五日調印の期日を失し、遂に遷延(せんえん)五月二日に至り、いよいよ七月二日を以て、調印する旨改めて閣老連署の書面を以て、ハリスへ申込を為(な)せり。而(しこう)してこの時において、幕府には、継嗣論一大難題となり、これがために井伊直弼、安政五年四月二十五日に大老職に就(つ)き、その余勢の及ぶ所、遂に勅許を経ずして、六月仮条約に調印し、ここにおいていわゆる違勅(いちょく)の大抗議を天下に喚起せり。而(しこう)してこれと同時に、その反対者たる尾張、水戸、越前に蟄居(ちっきょ)を申付け、一橋慶喜の登城を差留め、いわゆる攘夷党、水戸派、もしくは一橋を儲君(ちょくん)とするの派、その他自家の反対党と目指すものはその諸侯と幕臣たるとを問わず、尽(ことごと)くこれを黜罰(ちゅつばつ)したり。則ち堀田閣老彼自身さえも免職者の一人たりしなり。而(しこう)してこれと同時に、その股肱(ここう)間部詮勝(まなべあきかつ)を京師(けいし)に遣(つか)わし、以て朝廷の意見を飜えし、以て公卿中の非和親論者を威嚇し、而して京都にある横議の処士、重(おも)なる攘夷論者、及び水戸派、一橋立儲君派らを拘留(こうりゅう)せしめ、以て安政大獄の端を啓(ひら)けり。

 以上は時勢変遷の概略にして、また以て松陰がこの時勢に遭遇して、再び熱心なる非和親論を主張するに至りたるの已(や)むべからざるを知るに足らん。

 彼は神奈川条約を已(や)むを得ずして是認せり、然(しか)れども下田条約に至っては、決して是認せざりしなり。その所以(ゆえん)何ぞや。彼れ自(みずか)らこれを解(と)いて曰く、「京坂、江戸は天下のいわゆる三都会なり。彼は已(すで)に商館を起こし、已に重員を置けば、豈(あ)にそれ拱黙(きょうもく)して為すこと無からんや。吾を以てこれを度(はか)るに、我が国に乞丐(きっかい)甚だ衆(おお)ければ、彼れ必ず貧院を起こし、棄児甚だ衆ければ、彼れ必ず幼院を設け、疲(ひりゅう)残疾、貧賤にして治療する能(あた)わざるもの甚だ衆ければ、彼れ必ず施薬の医院を造らん。これ下手の一着にして、已に愚民の心を結ぶに足る」。これ衆民を籠絡(ろうらく)するを慮(おもんばか)りたるなり。また曰く、「これに次いで字を識り文を作るの徒を募り、博物材技の流を雇わん。ここにおいて利を知りて義を知らず、書を知りて道を知らざるの人、翕然(きゅうぜん)として附同し、蟻集して蠅(よう)集せん」と、これまたその杞憂(きゆう)の一理由なり。また将軍継嗣論の未(いま)だ定まらざるに就いては彼れ曰く、「夷官の来たり居るや、後必ずこの議に預(あずか)らん。これ石敬塘の事遠からざるなり」。彼れまた米使が諸侯を籠絡するの術を説いて曰く、「諸侯の苦しむ所のものは、参勤交代のみ。夷官は必ず曰わん、日本は海国なり、陸道もて奔走すること、数百千里なれば、幣(へい)を費すこと甚だ巨(おお)し、火輪船を用いるの愈(まさ)れりと為すに如かざるなりと。諸侯辞するに船なきを以てせば、彼れ必ず曰わん、船は米利堅(メリケン)の富む所なり、多寡はその需(もと)むる所に任ぜん、その価直の若(ごと)きは、五年もしくは十年を待ちて、漸次に償清せよと。因りて一郡もしくは一島を以て質と為し、五年、十年の間を以て、貧幼薬医の諸院を設立し、以てその地方の人民を勾誘し、而して諸侯もまたその船を得るの利を楽しまば、決してその人民を誘うを怪(あや)しまざるなり」と。

 彼がいわゆる和親の憂とする所かくの如し。而(しこう)してこれを却くるの術如何。彼れ自らこれを却くるの術を説いて曰く、「大統領は吾が国のために謀ること深く、貴使臣は吾が国のために慮(おもんばか)ること厚し。吾(わ)れ固よりその辱を拝す。ただ吾が国は三千年来、未(いま)だ曾(かつ)て人のために屈を受けず、宇内(うだい)に称して、独立不覊(ふき)の国と為す。今貴国の命を受くれば、乃(すなわ)ちその臣属と為り、今貴国の教を奉ずれば、乃(すなわ)ちその弟子と為ること、勢い已(や)むを得ざるなり。三千年独立不覊(ふき)の国、一旦降りて人の臣属弟子と為る、豈(あ)に大統領、貴使臣の、人のために謀慮するの意ならんや。果して吾がために謀慮せば、願わくば幸いに引き去れ」と、これその拒絶の本辞なり。また曰く、「近日の事、名は親切なれども、実は人を陥(かんせい)に擠(おとしい)るるなり。もし貴国引き去らずんば、名を正し罪を責め宇内(うだい)に暴白せん」と。また「もし米国の使臣、世界各国みな交通するに、独り日本のみ拒みて従わず、勢い兵に訴えざるべからずという時には、先ず亜細亜(アジア)諸国悉(ことごと)く貴国のいう所に従うて、而(しこう)して我なお従わざれば曲、我にあり。然(しか)れども諸国未(いま)だ同意せずして、我独り同意せざるを尤(とが)む、これ曲、汝にあり」、これその拒絶の副辞なり。而していよいよこれを聴かざるときにおいては、「退かざればこれを《とりこ》にし、これを誅(ちゅう)し、而してこれと戦うのみ」といえり。これいわゆる彼が主戦論なり。

 然(しか)れども彼は決して鎖国家に非(あら)ず、彼れ自(みずか)ら曰く、「戦を主とするは鎖国の説なり、和を主とするは航海通市の策なり。国家の大計を以てこれを言わんに、雄略を振いて四夷を馭せんと欲せば、航海通市に非ざれば、何を以て為さんや。もし乃(すなわ)ち関を封じ国を鎖(とざ)し、坐して以て敵を待たば、勢屈し力縮み、亡びずんば何をか待たん」と。この言に拠(よ)りて観れば、彼はあくまで鎖国論者に非ざるなり。而してなお鎖国に類するの方針を執るに到りたる所以(ゆえん)のものは何ぞ。当時の開国論者の多くは真の開国論者に非ず、ただ敵愾(てきがい)の気を失し、外人の恫喝(どうかつ)に辟易(へきえき)し、文弱、偸安(とうあん)、苟且(こうしょ)の流にして、而して彼(か)の鎖国論者中にこそ、かえって敵愾、有為(ゆうい)、活溌(かっぱつ)の徒あり。この儘にして開国する時においては、国家の元気索然(さくぜん)として、遂に復(ま)た奮わず、この膝一たび屈して遂に復(ま)た伸びず、故に一時逆流に立ち、天下の人心を鼓舞作興し、然(しか)る後徐(おもむろ)に開国の国是(こくぜ)を取らんと欲したるのみ。彼の意見は、期せずして水戸派の意見と一致したりき。

 されば彼は曰く、「およそ皇国の士民たるもの、公武に拘らず、貧賤を問わず、推薦抜擢して軍師、舶司と為し、大艦を打造(うちつく)り、船軍を習練し、東北にしては蝦夷(えぞ)、唐太(からふと)、西南にしては流叫(りゅうきゅう)、対馬(つしま)、憧々(しょうしょう)と往来し、虚日あることなく、通漕捕鯨し、以て操舟を習い海勢を暁(さと)り、然(しか)る後往きて朝鮮、満州及び清国を問い、然る後広東、咬(カルパ)、喜望峯、豪斯多辣理(オーストラリ)には、みな館を設け将士を置き、以て四方の事を探聴し、かつ互市(ごし)の利を征す。この事三年を過ぎずしてほぼ弁ぜん。然(しか)る後、往きて加里蒲爾尼亜(カリホルニア)を問い、以て前年の使に酬い、以て和親の約を締(むす)ぶ。果して能(よ)くかくの如くんば、国威は奮興し、材俊は振起し、決して国体を失うに至らざるなり」と。

 また言えることあり。「鎖国の説は、一時は無事に候えども、宴安(えんあん)姑息(こそく)の徒の悦ぶ所にして、始終遠大の御大計に御座なく候。一国に居附き候と天下に跋渉(ばっしょう)仕(つかまつ)るとは、人の智愚労逸、近く日本内にても懸絶致し候事、いわんや四海においてをや。何卒(なにとぞ)大艦打造(うちつく)り、公卿より列侯以下万国航海仕(つかまつ)り智見を開き、富国兵強の大策相立て候よう仕(つかまつ)りたき事に御座候。また交戦の上を以て申し候えば、鎖国は一人の取籠りものの如くに御座候。前後に気を配り左右へ眼を使い昼夜とも安寝出来ざる故、終に気力弛み生捕(いけどり)に合い候事毎々に御座候。一時の戦略は如何ようとも出来申すべく候えども、永世へ掛け始終海岸防禦にのみ財力を竭(つく)し、国貧しく民窮するに至り大敵来攻ども致し候わば、一人の取籠者と同日の談にこれ有るべく候。外国の事情を知らずして徒(いたずら)に海岸を守り貧窮に困(くる)しみ候は誠に失策にこれ有るべく、英吉利(イギリス)、仏蘭西(フランス)などの小国にてさえ万里の遠海へ渡り人を制し候は、皆々航海の益に御座候。この所早く御着眼これ無く候ては覚束なく存じ奉り候」。

 彼が開国の識見、未(いま)だ一膜を隔てたるに係(かかわ)らず、その鎖国の陋習(ろうしゅう)を洞察する、ここにおいてまた尽せりというべし。航海遠略は、実に彼の活ける経綸たりしなり。

 彼また曰く、「吾曾(かつ)て象山師に聞くことあり、云(いわ)く、出(で)交易は可なり居(い)交易は不可なり、余曰く、国力強盛にて外夷を駕馭(がぎょ)するに余らば、居交易もまた可なり、いわんや出交易をや。外夷の威勢に畏懾(いしょう)して已(や)むを得ざるに出でば、出交易もまた不可なり、いわんや居交易をや。ただ出交易は識見を広め学芸を進むるの便あるのみ。象山師これを頷(うなず)く」と。

 以上の言う所に拠りて観察すれば、彼が決して鎖国論者に非ず、また無謀の攘夷論者に非ざるは、吾人(ごじん)敢て彼が識見を讃嘆する者に非ずといえども、また識認せざるべからざるものあり。ただその宇宙の大勢を達観し、経国の大計を画するに到りては、彼に向って望むべからず、また責むべからざるなり。

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