泡鳴五部作 04 断橋

8話

3,110字 約6分 2016年12月31日 公開

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 義雄は、かの未見(みけん)の敵であつた山の客がした如く、敷島の部屋を宿(やど)見た樣にして、晝間は氷峰や、勇や、入院中の森本などをまはり歩いた。

 九月末日の晝頃、北海道實業雜誌社に行つて見た。社長川崎の怒鳴つてゐる聲が玄關まで聞えるので、前から期待されてゐた社長と氷峰との衝突が果して初まつた、な、と思ひながら、這入つて行く。

 川崎と氷峰とは碁を打つたらしい、盤をその間にして、激烈な對談になつてゐた。川崎は眞ツ赤になつて形を正してゐると、氷峰は青くなつて、勝手にしろといふ風に、兩手を膝に置いて肩をいからし、あたまを少し下げて横を向いてゐる。

「ぢやア、お前はどうしてもやめると云ふのか?」川崎は氷峰を(にら)みつけると、

「は、やめます。」氷峰は社長を見返へして、「ほかのものでもやれると社長は云うとるさうぢやから、やれる人を入れたらよからう――僕は雇ひ人ぢや。」氷峰が兼てから不平に思つてゐたことで、社長は渠の實力をあり振れたものの樣に考へてゐるが、氷峰自身には、自分でなければ、現今、この雜誌をやれるものはないと自信してゐるのは、義雄もよく承知してゐる。

 このいや味を含めた確答に接し、

「この野郎!」川崎は重い碁盤をはねのけ、氷峰の膝に迫り行き、「お前はけちな雇ひ人根性(こんじやう)でをるのか?」

「‥‥」

「おれに二千五百圓足らずもつぎ込ませて置いて、まだ雇ひ人根性でをるのか?」

「‥‥」

「返事せい、氷峰! おれはお前の兄から頼まれて、お前の爲めに出してやつたのぢや。」

「然し雇ひ人扱ひをすれば、雇ひ人ぢや。」

「さうひねくれるものぢやないぞ。誰れがこんな事業に澤山なお金を無條件で出すものがある? お前の爲めならばこそぢや。」

「そんなら、その樣にやらせて呉れりやよからうぢやないか? 僕を信じないで、會計を置いたのはまだしも惡いことはない。然しその會計がかういふ仕事に不慣れな爲め出て來る疑ひを、直ぐ僕が不都合でもしとる樣に思ひ取るのは、社長として、間違ひぢやと思はれる。」

「おれも何も知らないのぢやから、會計にもよく分る樣にお前が云うて聽かすがえい。」

「いくら云うても分らなければ仕かたがない、さ――今の樣なことを云うて、僕につツかかつて來るのは失敬ぢや。少くとも、僕は社長に次いで、主幹といふ名義になつてをるのぢや。」

「そりや會計も、主幹の云ふことが分らんのに直ぐおれのところへ苦情を持ち込むのは惡い。」

「島田さん」と、これも青くなつてゐる會計がやツと再び氷峰に向つて口を切つて、「わたしが惡かつたのですから、改めてあなたにあやまります。これからは、十分あなたに教へて貰つて、あなたの云ふ樣に致しますから――」

「無論、さうして貰はねば困る。新聞や雜誌の事業は山の鑛夫を使ふ樣には行かんものぢや。然し、社長、ここ、少くとも百圓の手金を打たねば、印刷屋が原稿を組み出さんぢやないか?」

「だから、おれがそれだけは工面してやると云うとるぢやないか?」

「では、社長からさう云うて貰はう。」かう氷峰は多少氣拔けがしたやうに云つた。と云ふのは、いツそのこと、きのふ社長が斷言した樣に、金はもう一文も出來ないとけふも斷言して貰ひたかつたと、あとで義雄に語つた。渠は、さうして貰つて、雜誌を全く自分の物にして新たに經營し直さうと思つてゐた。それが却つて、「おれがそれだけは工面してやると云うとる」など、實は云ひもしないが空景氣をつけるのは、どうも當には出來ない。「多分、またあの動きのつけなくされる禿安(はげやす)の手にかかるのだらう。」と推察されたが、それでも、手金だけ出來さへすれば、當座の運びはつくからと、氷峰は社長の言葉を捕へたのだ。

澤山(さはやま)を呼べ、澤山を」と、川崎が印刷屋の主人のことを云ふので、氷峰は社員を電話かけに使はす。

 これで衝突の一段落がついたので、義雄は川崎に改めて挨拶すると、

「旅行はどうなりました」と、川崎が尋ねる。

「改めて、遠藤さんと一緒に出ることになりました。」

「それは結構ぢや――さア、一つ。」川崎は自分と義雄との間に碁盤を引き寄せた。氷峰も、會計も、表面は打ち解けた樣になつて、二人の打ち方を見ながら、いろんな口嘴(くちばし)を入れる。

 そのうち、澤山がやつて來た。川崎は碁盤に向つて、局面の不利なのを訴へる樣に、

「おい、大將、しツかりして呉れんと困るぢやないか?」

「わたくしの方でも」と、澤山は受けて、「實際、困つてをるのです。ほかの仕事をことわつても、あなたの方の仕事は間に合はす樣にしてをりますから、世間では全く實業雜誌の印刷所になつたやうに思はれてをりますので――」

「思はれてもえい、さ。」川崎はなほ死に物ぐるひの石を打ち込みながら、「もう、大分お前の方へ入れてあるから。」

「それは無論結構ですが――月末の給料を渡さないと、職工が働きませんので――」

「だから、おれが今云ふのじや。」川崎は少し威猛高(ゐたけだか)になつて、「手金はおれが工面するから、もう二日待て、その代り、第二號をずん/\組んで貰はう。」

「ぢやア、さう願ひます」と、澤山も承知する。

「印刷屋の方はうまく行つたが、」川崎は義雄と氷峰とを見て、「碁は負けぢや、なア。」かう云つて、石を投げてしまふ。そして、氷峰が餘りおれのあたまを亂させるので負けたのだといふ笑ひ聲を殘して、川崎は歸つてしまふ。

 その後で、氷峰は義雄や澤山に向ひ、

「社長はいつも喧嘩さへ吹きかけると、僕の手に乘つてしまふ。きのふまで一文も出來んと云うてをつたのが、おこつたあげく、百圓だけは出すと云うてをつたなどと、勝手な熱を吹くのぢや。然し、結局、出しさへすれば、こちらはえいのぢやから――」

「わたくしの方でも」と、澤山は氷峰に向ひ、「かう毎月ぐれる樣では、それが爲めに雇うて置く職工が動きませんので困ります。」

「そりや實際ぢや。」氷峰が受けて、「いツそ、僕が全くこの仕事をやる樣になれば決してこんなことにはならしやせんが、なア。」

「かう貧乏な身代(しんだい)では、會計が一番困ります」と、會計も口を出す。

「今月も社員の給料は取れないのぢや。僕の下宿料は何とかして延ばして置くにしても、ほかの社員等で女房や子供もあるものは、實におほ困りだらう――僕が先月の樣に少しは立て換へてやりたいにも、もう、質屋に持つて行く物もないし、なア。」氷峰は義雄の方を見て、「また、誰れか金のある女を見つけようか、なア。」

「例のはどうしたか知らないが」と、義雄は貞子に先んじて婆アさんがやりかける陶器事業のことを思ひ出す。「あの岩見澤の陶器に適する土と云ふのは、ほかの人で掘り出すものがあるぞ。」かう云つて、渠が實際に聽いて來た通りを氷峰に話す。

「それぢやから、新らしい事業はうか/\してをられん――直ぐ他人が嗅ぎつけてしまふから。」

「本當だ、ねえ。」

「あれも、然し、おれが相手にせなんだので、困つてをるだらう。」

「そりやア、どうだか分らない。」

 こんな話をしてゐるうちに、澤山は歸つて行つた。そして、氷峰も停車場へ行かなければならないので、義雄も一緒にその社を出た。

 實は、山に歸つてゐたお君さんがけふ母と共に札幌を通過して、相州鎌倉の親戚の方へ向ふのである。これは、氷峰の兄夫婦がお君に氷峰を思ひ切らせる爲め、いよ/\氷峰の建策を實行する樣になつたのだ。

 氷峰は自分の妻にするつもりのお鈴をつれて姉と姪との迎へに行き、一晩は札幌にとまらせようとして、それを勸めたが、「いツそ、おりないで行つた方がよからう」と姉は承知しなかつた。そしてお君はこはい顏をして氷峰を一目見た切りで、渠にも、お鈴にも、口を聽かなかつた。

「實は、姙娠したんぢや」と、氷峰はあとで云つた。

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