14話 殺人第三
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その翌日、例になく早起きをした二郎が、庭を散歩しながら、何気なく玄関の前まで来かかると、音吉爺さんが、西洋館の入口の大扉を、せっせと雑巾で拭いているのに出合った。見ると、彼は漫然と雑巾がけをしているのではなくて、その扉へ誰かが白墨でいたずら書きをしたのを、拭きとっていたのだ。
二郎はハッと立止って、思わず声をかけた。
「爺や一寸御待ち、消しちゃいけない」
音吉はびっくりして、手を止めたが、文字は已に大部分拭きとられて無意味な一線を残しているばかりだ。
「爺や、お前そこに書いてあった字を覚えているだろうね」
二郎の目の色が変っているので、音吉爺さんドギマギしながら、答える。
「ヘエ、誰がいたずらをしたんだか、困った奴等です」
「イヤ、そんなことどうだっていい。爺や思い出しておくれ。何という字が書いてあったのか。まさか数字じゃあるまいね」
「ヘエ、数字、アア、そうおっしゃれば、数字だったかも知れません。あたしゃ横文字は苦手でございましてね。よく読めませんが、エートあれは幾つという字だったか」
「そこへ指で形を書いてごらん」
「形は訳ございませんよ。この横の棒の下に、こう斜っかけに一本引張ってあったんで」
「それやお前、7という字じゃないか」
「アア、そうそう、七だ、七でございますね」
二郎は真青になって立ちすくんだ。昨日は8、今日は7だ。いたずら書きと云ってしまえばそれまでだが、この一目下りの数字の出現が、果して偶然の一致だろうか。下手くそな落書きみたいなもの丈けに、一層不気味にも思われるのだ。
その翌日は、二郎の方で、例の数字の出現を心待ちに待ち構えていた。しまいには邸中をアチコチと歩いて、どこかの隅に6という字が現われていはしないかと、探し廻りさえした。すると、アア、彼は又しても怪文字に出くわしたのである。
今度は進一少年が発見者だった。二郎が探しあぐんで、やっぱり気のせいだったかと、稍々安堵を感じながら自分の部屋へ戻って来ると、そこに進一少年がいて、彼が這入るなり声をかけた。
「小父さん、こんなにカレンダーめくってしまって、いたずらだなあ。今日は十一月の二十四日でしょう。それに、十二月六日だなんて」
云われてそのカレンダーを見ると、なる程6という字が大きく現われている。
「進ちゃん、君だね。こんないたずらしたのは」
二郎は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
進一がそんな悪さをしないことは分っていた。無論、何者かがその部屋に忍込んで、例の数字を書く代りに、カレンダーを破って、6という字を示して置いたのだ。前二回は屋外であったのが、今度は屋内のしかも二郎自身の部屋だ。魔術師の様な怪物は、誰にも見とがめられず、自由自在にこの邸内を歩き廻っているのだ。二郎はもう黙っている場合ではないと思った。
翌晩日の暮れ暮れに玉村氏の自動車は、京浜国道を大森の自邸へと走っていた。東京の店からの帰りだ。二郎もこの車に父と同車していた。彼はこの頃気がかりな父の身辺を守る為に、人知れぬ苦労をしているのだ。
話そうか、どうしようか。若しあれがただのいたずらだったら、忙しい父に無用の心配をかけることはないがと、迷っている内に、車は大森駅を過ぎて、もう山の手にさしかかっていた。とっぷり日が暮れて、ヘッドライトが点ぜられた。
「お父さん、僕はもっと用心をした方がいいと思いますね」二郎は思い切って云い出した。
「お前、あいつのことを云っているのかい。充分用心しているじゃないか。雇人も増したし、わしの往復にはこうしてお前がついていてくれるし」
「駄目ですよ。僕の想像が間違いでなかったら、あいつは、もう僕等の家の中へ這入り込んでいるんですよ」
と、二郎は三日間の出来事をかいつまんで話した。すると父玉村氏は笑い出して、
「馬鹿馬鹿しい。お前の気のせいだよ。いくらなんでもあの大勢の雇人の目をかすめて、家の中を歩き廻ったり出来るものかね。魔法使いじゃあるまいし」
「イヤ、それが油断です。あいつは魔法使なんだ。福田の叔父さんの時で分っているじゃありませんか」
云い争っている内に車はいつか玉村邸の長いコンクリート塀に添って走っていた。
「すると、今日は5という数字が現われる勘定だね。ハハハハハ、お前はそれを信じている様だね」
車は門前に着いて、グルッと方向転換をした。門の脇のコンクリート塀に、ヘッドライトが幻燈の様な円光を投げた。
「僕は殆どそれを信じています。殆ど……」
二郎はそこまで云ってハッと息を呑んだ。
「君、車を動かしちゃいけない。そのままじっとしているんだ」彼はまるで違った声になって、叫ぶ様に云った。「お父さん。ごらんなさい。あれを、あれを」
見よ、塀に写し出されたヘッドライトの円光の中に、まるで検微鏡で覗いた微虫の群かなんぞの様に、ボンヤリと、それ故に一層不気味に5という数字が現われているではないか。
幻燈文字はエンジンの響きにつれて、塀の上で微動している。ヘッドライトのガラスに墨で書かれたものだ。それが恐ろしく拡大されて塀に写ったのだ。
偶然であったか、故意であったか、丁度そこへ音吉爺さんが出迎えに出て来た。彼も円光の中の数字を見た。そして、「オヤッ」と一種異様の叫声を立てた。
「これは誰が書いたんだ。お前達か」
善太郎が激しい声で運転手を叱りつけた。
「ちっとも存じませんでした。いつの間にこんなものを書きやがったんだろう」
運転手も小首を傾けるばかりだ。恐らく、東京の店の前に停車している間に、何者かが手早く書込んだものに相違ない。
流石の玉村氏も、この不気味な幻燈を見ては、もう二郎の臆病を笑う訳には行かなかった。この出来事が家内の晩餐の席の話題にも上り、雇人達にも知れ渡った。玉村氏は之を波越警部にも伝え、所管署からの見張りの刑事を増して貰う交渉もした。
今や玉村邸は、不気味な化物屋敷であった。家内の人々はお互の足音にも、ビクッとして聞耳を立てる程におびえていた。
日が暮れぬ先から門を閉め、方々の戸締りを固め、書生は交代で寝ずの番をするし、表門裏門には私服刑事の立番だ。これではいかな魔法使いでも、忍び入る隙はあるまいと思われた。
だが、一目下りの怪数字は、相も変らず、毎日毎日邸内のどこかに現われる。その一々を記しては退屈だから凡て省くが、毎朝妙子さんの飲む牛乳の瓶に、墨黒々と4の字が書いてあったかと思うと、次の日は二郎青年の書斎の窓から吹き込んだ一葉の枯葉に、3の字が現われているといった調子で、2と進み、遂に1となった。それが十一月二十九日のことだ。若しこれをあと一日という通知状だとすれば、翌三十日は、愈その当日である。
第一は福田氏、第二は明智小五郎、次いで怪魔の兇刃に倒れるものは、抑も何人であるか、賊の予告が漠然と日附を示すのみで、その人を指名しない。不気味な曖昧さが恐怖を幾倍した。
その当日、玉村邸の人々は、誰も外出しないで、朝から一間に集って、恐怖をまぎらす為の遊戯や雑談をしていた。主人の善太郎も店を休んだ上、屈強の店員五六名を呼んで、いやが上にも厳重な防備を固めた。
ところが予期に反して何の変哲もなく日が暮れ、八時九時と夜が更けて行っても、邸内に別状はなかった。ナアンだ思った程でもない。この厳重な固めには、流石の魔法使いも策の施し様がないじゃないか。と、人々はやや安堵を感じ始めた。
十時には家内一同寝室に退いた。無論寝室の扉に締りをすることは忘れなかったし、玄関の書生部屋には寝ずの番が二人がんばっていた。その外には、表門裏門の刑事だ。
二郎青年もベッドに這入ったが、なかなか睡気を催さぬ。外の人々は安心しても、彼丈けは怪物の神変不思議な手並を、まざまざと見せつけられていたからだ。
遙か頭の上の、例の不気味な時計塔から、葬鐘の様な十一点鐘が聞えて来た。それから三十分もたったであろうか、二郎はふと妙な音に気づいた。
聞える。確かに聞えている。空耳ではない。あの恐ろしい笛の音だ。福田氏の惨殺された時と同じ節廻しだ。
二郎青年は用意のピストルを握りしめて、ベッドを飛びおりた。
彼は笛の音は、已に兇行が行われたか、或は正に行われんとしているか、いずれにもせよ、一瞬の猶予もならぬ、きわどい場合であることを知っていた。家人を起し廻っている暇はない。彼は矢庭に叫び出した。訳の分らぬ雀でも追う様なわめき声を発しながら、笛の音に向って突進した。洋館を貫く長い廊下を走った。走りながら考えると、それはどうやら妹の妙子の部屋らしい。「アア第三の犠牲者は妹だったのか」咄嗟の場合、頭の中で合点が行った。
と見る、妙子の寝室のドアの前に蠢く黒怪物。二郎はハッと立止った。腋下から冷い汗がツーッと辷った。遂に遂に、恐るべき怪物をまのあたりに見ることが出来た。彼は死にもの狂いの声をふりしぼった。
「何者だッ。動くなッ。動くと打つぞ」
だが、不甲斐もなくピストル持つ手がワナワナと震えていた。
「二郎さまですか」
怪物が答えた。何ということだ。怪物は音吉爺やであったのだ。
「変な笛の音がしたもんですから、念の為に見廻ったのですが、お嬢さまの部屋が何だか妙でございますよ」
「そうか。よしッ。ドアをぶち破れ」
二郎は気負って叫ぶ。
幸いドアは福田邸のものの様に頑丈ではなかった。二人の気を揃えた力で、何なく開いた。
二人ははずみを喰って、寝室へ転がり込んだ。と同時に、アッと迸る驚愕の叫び声。