5話 真赤な猫
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「明智探偵七時半上野駅着」の報を受けた福田家では、明智を見知った一巡査を頼んで、自動車で駅まで出迎えに行って貰った。明智の来着と同時に波越警部も福田邸へやって来る手筈になっていた。
ところが、八時頃になって、迎えの自動車は空っぽで帰って来た。巡査の報告する所によると、どうしたことか、福田家の大時計も、運転手の腕時計も、巡査の懐中時計も、揃いも揃って、十五分遅れていたのを、つい気がつかず、駅へ行って見ると、もう七時半の降車客は大半立去ったあとで、いくら探しても明智の姿はなく、止むを得ず引返して来たとのことであった。
幾つもの時計が揃って遅れていたというのには、何か特別の意味がなければならぬ。だが、人々はそこまで深く考えなかった。出迎えが遅れた為に、あの様な一大事が起ろうなどと、誰が想像し得たであろう。
福田氏はとりあえず、まだ庁舎に居残っていた波越氏に電話をかけて、事の仔細を告げ、若しや明智氏がそちらへ立寄ってはいないかと尋ねて見た。
「イヤ、こちらへも来ていません。迎えの車が見当らねば電話をかけてくるでしょうが、それもない所を見ると、予定の汽車に乗り遅れたのかも知れません。明日の朝は大丈夫ですよ。それまで待って見ようじゃありませんか」
と波越氏は存外呑気な返事である。
で、その晩は、二郎青年の外に、明智を出迎えに行った巡査に泊って貰うことにして、福田氏はさして心配もせず寝についてしまった。
福田氏にせよ、波越警部にせよ、そんなに事が迫っているとは知らず、つい油断をしていたのは、誠に是非もないことであった。紙切れの数字は「三」なのだ。仮令福田氏の恐怖が実現するとしても、まだあとに三日を余している。恐ろしいのは、数字が「一」となり「〇」となった時だ。それまでは何事も起る筈はない、明智小五郎の来着が一日遅れたところで、大した問題ではない。と思い込んでいたのだ。
だが、犯罪者はいつもアルセーヌ・ルパンの様に、約束堅い正直者だとは極っていない、殊に、彼等は、どうして探ったのか、明智小五郎の帰京を知って、事を起さぬ前に、先ず大敵の自由を奪った程の曲者だ。福田氏が警察の助力を仰いだことも知らぬ筈はなく、便々と十一月廿日を待って、相手の警戒網を完成させる愚はしないであろう。
それは兎も角福田氏の警護を承った二郎青年と巡査某とは、二階の客用寝室に、ベッドを並べて、横になった。邸内の見廻りは、無駄骨折と分ったので、止してしまい、ただ福田氏の気休めに、泊っているという迄の事である。
彼等両人にも、まだ三日間があるという、無意識の油断があった。それに、いざ十一月廿日が来たところで、どんな事が起るのかまるで見当がついていない。或は何事もないのかも知れぬ。どうやら、何事もない方が当然の様にも思われる。全く雲を掴む様な話なのだ。波越氏が「この事件は明智さんの領分だ」と逃げたのも尤もである。
で、二郎も巡査も、強いて目を覚ましていなければならぬとも思わなかった。起きていた所でどうせ何事もないに極っていると、たかを括っていた。
だが、曲者は、上野駅で明智をさらった手際でも分る様に、人の虚を突く術を心得ていた。一同が幽霊通信に慣れてしまって、寧ろ曲者の巧みな暗示にかかって、油断し切っていたその夜、正しくは十一月十七日の深夜、予告の日限に先だつこと三日にして、突如、戦慄すべき大犯罪は行われたのである。
二郎青年は、真夜中頃、異様な笛の音にふと目を覚ました。
耳をすますと、階下の主人の寝室と覚しきあたりから、何とも云えぬ、物悲しい調子の横笛の音が、細々と響いて来るのだ。定まった曲を調ている訳ではなく、唯なんとなしに、出鱈目に吹き鳴らすといった調子だけれど、その節廻しが、不思議にも哀深く、美しく、例えば綿々たる恨みをかき口説くが如く、尽きせぬ悲愁を歎くが如く、一度耳にしたならば、一生涯忘れることが出来ない様な種類のものであった。
福田氏は横笛なぞ吹けないのだし、それにこんな真夜中、仮令誰にもせよ笛を吹いているなんて変だ。「空耳かしら、いやいや確かに横笛の音だ。しかも、叔父さんの寝室に間違いはない。若しや……」と思うと、二郎はちりけに氷でも当てられた様に、ゾッと身がすくんだ。
やがて、笛の音はパッタリやんだ。もういくら耳をすましても、聞えては来ぬ。
二郎はいきなり、隣のベッドの巡査をゆり起した。
「どうもおかしいことがあるんです。僕と一緒に下へ降りて見てくれませんか」
二人ともパンツのまま横になっていたので、上衣を着ればよいのだ。巡査は用意の為に帯剣までつけて、階下に降りた。邸内は死んだ様に静まり返っている。薄ボンヤリした常夜燈を便りに廊下を一曲りすると、そこに福田氏の寝室なり書斎なりの扉がある。
二郎はビクビクもので、その扉を押し試みたが、内側から鍵をかけたままと見えて、ビクともしない。だが何となく異様な予感がある。
「主人を起して見ましょうか」
「そうですね。念の為に」
巡査も賛意を表したので、二郎はドアの鏡板をトントン叩いて、「叔父さん、叔父さん」と呼んで見た。二三度同じことを繰返したが返事がない。
「やっぱり変ですよ」
二郎はもう真青になって、次に取るべき手だても思浮ばぬ様子だ。
「鍵穴から覗いて見ましょう」
流石巡査は思いつきよく、腰をかがめて鍵穴を覗いていたが、やがて振向いた彼の顔は、恐ろしく緊張して見えた。
「血、血です。……」
「エ、じゃ、叔父さんは……」
「多分もう息はありますまい。この戸を破りましょう」
庭に廻って窓から入ろうにも、鉄格子が邪魔をしているので、火急の場合、その扉を打破る外に方法はなかった。
二郎は廊下を走って、書生を起し、斧を持って来させ、それで扉の鏡板を乱打した。
騒ぎに家中の召使達が(婆やと女中二人)駈けつけて来た。
頑丈な扉であったが、斧の乱撃には耐えず、メリメリと音がして、上部の鏡板が、大部分破れ落ちてしまった。
二郎と、巡査と、召使と都合六つの首が、その破れ目にかたまった。だが、彼等は何も見なかった。見る隙がなかった。恐ろしい勢で顔にぶつかって来る、大きな真赤な何かの塊りを意識して、ハッと飛びしさって、道を開いたからである。
それは一匹の真赤な猫であった。いや真赤な猫なんてある筈はない。実は福田氏が飼っている、純白の雄猫なのだが、それが全身に血潮をあびて、物凄い赤猫と化けてしまったのだ。
不気味な動物は、扉の破目から廊下に飛出すと、二三度ブルッと血震いをして(その度毎に赤インキの様な鮮血が、壁の腰板に生々しくはねかかった)人々に向って、恐ろしい形相で、真赤な背中をムクムクと高くした。
人々はその時、怪猫の口辺を見た。そして余りの恐ろしさに、思わず顔をそむけないではいられなかった。
浅間しい動物は、主人が死んだとも知らないで、全身真赤になる程も、血みどろの死体にじゃれついていたものに相違ない。じゃれついたばかりではない。彼は主人の傷口をなめ、流れる血のりを呑んだのだ。そうでなくて、あんな恐ろしい口になる筈はない。鋸の様な鋭い歯まで真赤に染っていたではないか。舌の上にはとろとろした血のりが溜っていたではないか。彼はその舌で、ポトポトと赤いしずくを垂らしながら、口辺を嘗め廻した。
「ミャオー」と一声、不気味に優しい鳴声を立てると、真赤な猫は、人々の驚きを無視して、点々と血潮の足跡を印しながら、ノソリノソリ裏口の方へ歩いて行った。まるで彼自身が殺人犯人ででもある様に、奥底の知れぬふてぶてしさで。
人々は次に、扉の破目から、室内の様子を眺めた。
ともしたままの明るい電燈の下に、福田氏のパジャマ姿の下半身が横わっていた。胸から上は寝室に隠れて見えぬのだ。恐らくは猫がじゃれついた為であろう、足の先まで血に染っている。
だが、異様に感じられたのは、死体そのものよりも、死体の上やその周囲に、恰も死者を弔い死体を飾るものの如く、夥しい野菊の花が、美しく散り乱れていたことである。
人々は咄嗟の場合、深くも考える余裕を持たなかったけれど、あとになって思い合わせば、此殺人には、奇妙な予告や、全く出入口のない、密閉された部屋を、犯人はどこから這入りどこから逃げたかという様な点を別にしても(それらの点が、この事件全体を妖異不可解ならしめた、著しい特徴であったことは勿論だが)更らにその外に、二郎が耳にした物悲しき横笛の音、今又この死体を飾る、可憐なる野菊の花束、これは果して何を語るものであろう。若しや犯人は、我れと我が殺害した死人を弔う為に、横笛の弔歌を奏で、野菊の花束を贈ったのではないだろうか。だが、どこの世界に、その様な酔狂な手数をかける犯罪者があるであろう。
余談はさておき、兎も角も死体を調べて見なければならぬので、二郎は扉の破れ目から手を差入れて、鍵を廻し、扉を開いて室内に這入った。巡査、召使等も後に従った。
二郎は何気なくツカツカと死体の側へ近づいて行った。そして、血まみれの足の所に立って、寝室との境の壁に隠れていた、死体の上半身を一目見ると、どうしたのであろう、彼は何か木製の人形みたいな恰好で、そこへ棒立ちになってしまった。口を動かしているけれど、余りの事に声も出ない様子だ。
「どうしたんです」
巡査が驚いて駈け寄るのと、二郎の棒の様な身体が、彼の両手の間へ倒れかかるのと同時だった。
「ワッ、これは、……」
流石の巡査も、今二郎が見た、死体の上半身を覗くと、思わず悲鳴を上げた。
一体そこには何があったのか、二郎青年に脳貧血を起させ、商売人の警官を慄え上らせたものは、そもそも何であったのか。