15話 海火事
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二人は顔を見合わせて、何ともいえぬ苦笑いをした。
「僕はどうかしているね。あいつは何だか苦手だ」
恒川氏は、ちょっと恥かし相にいった。
人形でないことは分り切っている。それを「若しや」と思うのは、相手を恐れているからだ。鬼刑事の名に恥じなければならぬ。
隅田川の川口を離れる頃には、追手の船は、警察ランチ一艘ではなかった。
町で泥棒を追駆ける時、必ず弥次馬がついて走る様に、水の上でも、弥次舟が、どこからともなく現われて来て、ランチと先を争う様に、賊の風船めがけて、波を切る、三艘のモーターボートがあった。
その内、一艘は、競争用の舟と見えて、形も小さく、速力が馬鹿に早かった。さすが警察の快速艇も、この小型ボートには及ばず、見る見る抜かれて行った。
ボートの中には、一人の黒い洋服を着た男が、まるで競馬の騎手か、自転車競争の選手みたいに、猫背になって、ハンドルの上に、かがみ込み、傍目もふらず、前方を見つめていた。
「畜生め、やけに早い野郎だなア」
警察ランチの運転手はしばらく競漕して見たが、とても抜き返せないことを知ると、腹立たしげにつぶやいた。
「あいつ、何だろう。まさか同類じゃあるまいな」
一刑事が不審を抱いた。
「いくら何でも、そんな無茶はしないだろうぜ。いくら速力が早いからといって、この荒れ模様に、あんな小さな舟で、賊を救って、逃げおおせるなんて、思いもよらぬことだよ。……素人の物好きさ。警察のお手伝いをして、ほめてもらうのが楽しみの特志家だよ。いつでも、あんな連中が、二三人、飛出して来るものだ」
水上署の老巡査が、多年の経験から割出して、事もなげに答えた。
警察ランチ、お手伝いのモーターボート、都合四艘の快速船が、吹きつのる北風に、波立つ海を、真ッ二つに切り裂いて、四つの鋭いのこぎりの様に、勇ましく突き進んで行った。
一方、賊の風船は、第一のお台場を越したあたりで、遂に全く浮力を失い、ダブダブにしわのよった気嚢を、巨大な章魚の死骸の様に、水面に浮べた。
墜落した刹那、下部に、ぶら下っていた賊は、ザブンと水中にもぐり、したたか潮水を呑まされたが、もがきにもがいて、やっと水面に浮上り、漂う気嚢の片隅にすがりつくことが出来た。
彼はもう疲れ切っていた。屋根から空、空を半日も吹き流されて、落ちた所は、荒れ狂う波の上だ。大抵の者なら、とっくに気を失っていたであろうが、さすがは怪物、まだへこたれぬ。
気嚢は波のまにまに、突き上げ、押しおとし、ブランコの様に、めちゃめちゃに揺れ動く。そのすべっこい表面に、とりついている努力は、並大抵ではなかった。
ザブンザブンと波がかぶる。その拍子に手が辷って、サッと一間程も押し流される。もがきにもがいて、やっとまた、気嚢にとりすがる。それが、幾度となく、むごたらしく繰返されるのだ。人間界の怪物も、自然力に対しては、みじめであった。
だが、彼の大敵は、自然力ばかりではなかった。もっと恐ろしい奴が、追手の舟共が、舳をそろえて、まっしぐらに迫って来るのだ。
彼は波と戦いながら、隙を見てチラチラ振返った。振返るごとに、敵の船体は、大きくなっていた。慌ただしいエンジンの響きも、刻々その音が高まって来た。
しかし、彼はまだへこたれなかった。
見るも無慙な努力を続けて、とうとう気嚢の上によじ昇り、その平な中央に、ヨロヨロと立上って、図太くも、追手の船を迎える様に、身構えた。
警察ランチと、先頭の小型モーターボートとの距離は、いつの間にか、二丁程も隔たっていた。
その異常に熱心な素人追撃者は、今、風船ボートの上に、スックと立ちはだかった怪賊めがけて、舳が空に飛び上る程の快速力で、まっしぐらに進んで行く。
「オイ、もっとスピードは出ないのか。あの舟に追つけないのか」
警察ランチの上では、恒川警部が、いらだたしく、運転手に呶鳴りつけた。
警官一同、何とも名状し難い不安に襲われていた。やっぱり、あの快速艇に乗っている奴は、賊の同類ではあるまいか。あんなにめちゃめちゃに急ぐのは、警察を出し抜いて、賊を救う為ではあるまいか。という、恐ろしい疑いが湧き上って来るのを、どうすることも出来なかった。
見る見る、モーターボートは、賊に近づいて行った。そしてもう一二間という所で、波の為に思う様に接近出来ず、木の葉の様にもまれているのが、眺められた。
近づいては、押しもどされ、近づいては、押しもどされている内に、ボートの舳が、流れる気嚢にぶつかったかと思うと、賊の方から、ヒラリと、ボートに飛込んで行った。
アア、やっぱりそうだ。あの舟は賊の同類なのだ。でなければ、賊の方から飛込んで行く筈がないではないか。
「ア、いけない。早く、早く」
警官達は走るランチの上で、じだんだを踏む。
だが、あれは何だ? 同類なれば、なにもあんなに、とっ組み合うことはない筈だ。
賊はボートに飛び移ったかと思うと、いきなり運転席の洋服男につかみかかって行った。こちらも負けてはいなかった。立上ると、これを迎えて、たちまち、小舟の上の烈しい格闘となった。
ブランコの様に揺れ漂う、狭い舟の中の、奇怪な立廻り。つかみ合うのは、双方とも黒い洋服姿。こちらからは、どれが賊とも味方とも、ハッキリ見分けがつかぬ丈けに、猶更ハラハラさせられる。
警察ランチとても、並々ならぬ速力だ。見る見る、現場へ接近して行く。だが、ボートの中の格闘は、それよりも早く、アッと思う間に、かたづいてしまった。
一方が打倒されて、舟の底に見えなくなったかと思うと、勝った奴が、いきなり運転席にしゃがみ込んで、ボートを操縦し始めた。
勝ったのは賊に極っている。一人と一人で、あの怪物を取りひしぐ程の勇者があろうとは思われぬ。悪運強き怪賊は、追手の舟を逆用して、あの恐ろしい速力で、逃げ去ろうとしているのだ。
ボートは波を切って、走り出したかと思うと、突如として、世にも恐ろしい椿事が起った。
ボートの上に、パッとのろしの様な火炎が上ったかと見ると、非常な物音が波を伝って聞えて来た。
どうしてそんな馬鹿馬鹿しいことが起ったのか、あとになっても、その原因をつきとめることは出来なかったが、ガソリンに引火して、それの金属製タンクが、ひどい勢いで爆発したのだ。
舟一面に燃え上る火。
その火炎の中に、あわてて海中へ身を投じる怪物の姿。同時に、ボートは烈しく揺れて転覆してしまった。
ガソリンが海一面に拡がった。
人々は、あとにも先にも、あの様に奇怪な、しかも美しい光景を見たことがなかった。
海火事だ。荒れ狂う波が、焔となって燃え立つのだ。
暫くは、顛覆したボートに近づくことも出来なかったが、やがて聞もなく、焔は螢合戦のくずれる様に、海上に散り乱れて、消えて行った。
見ると、顛覆したボート間近く、浮きつ沈みつする人の姿。「ソレッ」というので、ランチは現場へと走り出した。
溺れている人物が、敵か味方か判然しなかったけれど、いずれにもせよ、捨ててはおけぬ。
大急ぎでランチを近寄せ、二三人がかりで、その人物を引上げた。引上げられたのは何者であったか。あの恐ろしい唇のない怪物か。イヤ、そうではない。だが、その顔を一目見るや、恒川警部が、頓狂な叫び声を立てた。
「オヤ、これは例の畑柳家の知合の三谷という人物だぜ。僕は二三度会ってよく知っている」
それでは、あの快速艇の主は、事件に関係浅からぬ三谷青年であったのか。彼なれば、あの様に無我夢中で、賊を追駆けたのも、無理ではない。
三谷は、さして水を飲んでいないらしく、一同の介抱に、間もなく正気を取戻した。
「アア、恒川さんでしたか。どうも有難う。もう大丈夫です。あいつは? あいつはどうしましたか」
先ず尋ねたのは、賊のことだ。
「今の爆発でやられたかも知れません。これから探すところです。だが、三谷さん、君はどうして、僕達を出し抜いて、あんなことをしたのです。僕達のランチを待合わせてくれたら、こんなことにはならなかったのですよ」
三谷青年が、存外しっかりしているので、恒川氏は、つい相手を叱る様な口調になった。
「申訳ありません。あいつには、これまで度々、今ちょっとの所で、うまく逃げられていますので、今度こそはと、ついあせったのです」
「だが、賊はかえって、君に飛びかかって来た」
「そうです。僕は自分の腕力を頼みすぎたのです。あいつが、あれ程強いとは思いませんでした。僕はたちまち、あいつの一撃を食って、ボートの中にぶっ倒れてしまいました。それ切り、何も知りません。ボートが爆発したというのも、今聞くのが初めてです」
「それが、君の仕合せだったかも知れません。何も知らず、ボートの顛覆と共に、水の中へもぐったまま、もがき廻らなかったので、焼けどもせず、大して水も飲まなんだのです、賊の方はきっと大怪我をしているでしょう」
この恒川氏の想像は、たちまち的中した。丁度その時、さい前から舟を徐行させて、海面を探し廻っていた警官達が、とうとう賊の死骸を発見したのだ。
死体は直様ランチに引上げられたが、どう介抱して見ても、無駄であった。
爆発の時か、それとも海面をもがき廻っている間にやられたのか服は無慙に焼けこげ、手足にも焼けどをしていたが、殊更顔は、二目と見られぬ物すごい形相に変っていた。
「気味が悪いようだね。よくも、これまでひどく焼けただれたものだ」
人々は、その顔面を、正視するに忍びなかった。
たださえ恐ろしい、鼻も唇もない顔が、更に焼けただれて、滅茶滅茶にくずれ流れた様子は、この世のものとも思われぬ。
「何だか変だね。これが本当の人間の顔だろうか」
ふと気づいた様に、恒川警部が妙な事をいい出した。彼は何か思う所あるらしく、死体の上にかがみ込んで、しばらく、死人の物すごい形相を熟視していたが、ヒョイと手を出して、頬のあたりをおさえて見た。
おさえたかと思うと、ビックリして手を放したが、同時に、彼の顔に、非常な驚きの表情が浮んだ。
「アア、これはどうしたというのだ。僕達は、ひょっとしたら、賊の為に、まんまと一杯食わされていたのかも知れない」
彼はそういって、一同の顔を見返した。
人々はその意味を解し兼ねて、目をパチパチやるばかりだ。
「この焼けただれたものは、本当の人間の顔ではないというのさ」
恒川氏は、益々変なことをいう。
一同、思わず賊の恐ろしい顔を見つめたが、見つめていると、段々、恒川氏の妙な言葉の意味が分って来る様に思われた。
だが、果してそんなことがあるのだろうか。あまりにも奇怪な着想である。いつの間にか、空一面、鼠色の雨雲に覆われ、ランチはわき返る波に、たとえば大時計の振子の様に、ほとんどリズミカルに、絶え間もなく動揺していた。見渡せば、眼路の限り、黒い波が、無数の怪物の頭の様に、根気よくうごいていた。
その船の中に横たわっている死骸の、この世のものとも思われぬ、恐ろしい形相。
今朝からの、奇想天外な賊の逃走といい、打ち続く奇怪事に、人々は異様な悪夢を見続けているような気がした。ジワジワとあぶら汗がにじみ出す程、何ともいえぬ恐怖を感じた。
恒川氏は、思い切って、賊の顔に両手をかけると、力をこめて、メリメリとその皮をはいだ。
醜怪極まる、怪物の顔が、薄気味悪く、めくれて行く。
アア、何という残虐、牛の皮をはぐように、たとい死人とはいえ、顔の皮をはぎとるとは。
人々はドキンとして、思わず目を閉じた。めくれた皮の下から、黒血がほとばしって、ベロベロの、見るも無悪な赤肌が現れて来ることを、想像したからだ。
しかし、血も流れなければ、肉も現れなかった。醜怪な皮の下から出て来たのは、全く違った、もう一つの顔であった。つまり、焼けただれた唇のない顔は、世にも巧みな蝋製の仮面であったのだ。
人々は、それが蝋細工と分っても、そんなもので、どうして長い間、世人を欺くことが川来たのかと、不思議にたえなかった。
だが、蝋細工の技術は、我国でも、ちょっと想像も及ばぬ程、進歩しているのだ。ショウウィンドウの蝋人形が、本当に生きて見えるのも、お菓子や、果実の蝋細工が、本物と寸分違わぬのも、何にでも化ける、蝋というものの、不気味な性質を語るものだ。
現に俳優は、自分の顔と生写しの、蝋製の仮面を使って、度々一人二役の舞台を勤めている事実さえある程だ。
「これが賊の正体だ。長い間、唇のない顔で、我々をおどかしていたのは、こいつなんだ」
恒川氏は、はぎ取った、蝋面を手にしたまま、賊の顔を凝視していった。
誰も、その顔を知らなかった。三十五六歳の、無の男だ。これという特徴もない。その顔の所々に、熱い蝋にやけどをして、異様な斑紋が現れている。
「三谷さん、君は岡田道彦の顔を記憶しているでしょうね」
恒川氏がたずねた。
「エエ、決して忘れません」
三谷青年は、幽霊の様に、真青な顔をして、力なく答えた。
「で、この男が、その岡田道彦ですか」
「イヤ、違います。僕は岡田だと信じ切って、明智さんと彼のアトリエを調べに行ったりしたのです。岡田が薬で顔を焼いて、あの恐ろしい変装をしていたのだと思い込んでいたのです。ところが、この男は、岡田ではありません。全く見知らぬ人物です」
三谷は、信じ切れない様な、困惑の表情でいった。
局面は俄に一変した。犯人は岡田ではなかったのだ。とすると、どういう事になるのだ。あのアトリエに、死体の石膏像を作ったのは、岡田に違いはない。では、この賊は、あの殺人事件については、全く無罪であったのか。二つの全然別な犯罪事件が、三谷の頭の中で、こんがらがっていたのであろうか。