1話 偽悪病患者(1)
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(妹より兄へ)
××日附、佐治さんを接近させてはいけないという御手紙、本日拝見致しました。
いつも通り、いろんなことに気を配って下さるお兄様だけれど、喬子、今度の御手紙だけはよく判んない。佐治さんは、喬子が接近したのでもないし、接近させたんでもないの。お兄様だって御承知の通り、お兄様や漆戸と同期生だったんですって。アメリカから帰られると、すぐ漆戸を訪ねていらっしゃって、それ以来漆戸は、病気で退屈で、話相手が欲しいもんだから、佐治さんが来て下さるのを、随分楽しみにしているんですわ。
そういえば思い出すけれど、漆戸が一度いいました。「佐治という男は、学校時代から一寸変ったところがあって、他人から随分誤解されたものだが、芯は、気の弱い正直な男さ」って。喬子、まだ佐治さんがどんな風に変っている人か知らないけれど、お兄様が何かきっと誤解しているんじゃないかしら。まアとにかく、お兄様のいうことは、これまで大抵の場合、嘘だったことはないのだから、その意味で喬子、今度の御手紙のこと、忘れないでいるつもりです。漆戸が、電話をかけて呼んだりなどするのだから、佐治さんが、ここへ足踏みもしないようにするなんてこと、とても出来ないけど。
漆戸の病気、本当はあまり好くなくて、困っています。医者のいうのには、この冬を越せるようだったら、見込みがいくらか出るんだそうです。一週間前に喀血して、近頃は痩せ方もひどい。この冬のうちに、良人と死別れするなんてこと、考えただけでもゾッとしてしまう。それじゃ、喬子があんまり可哀想過ぎると思う。
お兄様の方の御病気はどうなんですの。呉々も身体を大切にしてネ。
(兄より妹へ)
三日ほど前、足試しのつもりで、宿の近くを四五町歩いて見た。歩けたには歩けたが、無理だったと見えて、あとの疼痛が激しく、今日やっと苦痛が薄らいで来た。心配してくれたけれど、僕の病気は大体こんな程度。気長にして、ここの温泉に浸っていればいいのを、時々、焦って足試しなどするのがいけないのだ。リウマチスなんて、老人の罹る病気みたいで、気の利かぬこと夥しいが、いずれしかし、癒ることは癒ると思うから、心配しないで欲しい。旦那様の病気と兄貴の病気と、二つ心配してちゃ、君も堪まらないじゃないか。
さて、佐治佐助の件。
私からの手紙が大変簡単過ぎたため、君には私のいうことがよく呑み込めなかったらしいね。無理もないことだ。佐治は、私にとっても友人だし、彼のことをあまり悪くいわずに置こうなどと考えたのだが、どうもそれでは不徹底で、結局、私の知っていることや考えていることを、ここで全部いって置かねばならないだろう。
佐治を何故接近させてはいけないか、その理由は、大体二つあるが、先ず割に小さな理由の方からいうと、それは彼が非常な美男子であるということだ。
彼の美男振りについては、君が彼と直接知っているし、詳しい説明をしなくてもいいが、大学時代、彼については既に、
「佐治を見た女は不幸だね」
という深い意味の言葉が、ある教授の口からさえいわれたものだった。
彼は牛込の方にある某先輩の家に寄寓していて、一時そこから大学へ通ったことがあったが、その頃彼が通学するために乗る市内電車には、若い女が随分沢山乗ったものだそうだ。女学生、交換手、そのほか職業婦人といった手合が、自分達の時間に遅れるのも構わず、或は殊更に廻り道をして、佐治の電車を待ち構えていたというのだ。まるで嘘のような話だけれど、必らずしも嘘でない証拠には某女学校で佐治に附文をしたため退学された生徒が二人まである。私達より一時代前の学生達は、女義太夫というものを一生懸命で追いかけたというし、現代の女学生はターキーで夢中だ。佐治については、恰度こんなような人気があったのだろう。表面慎しみ深い女でも、どうかするとひどく大胆に勇敢にまた露骨になることがある。往年私は、映画で有名な速水張治郎の実演を某劇場へ見に行ったことがあるが、その時につくづく女の凄じさを見た。張治郎が花道を通ると、花道際にいた女達が、身を乗り出し、手を伸ばして、この美男で名高い俳優の足を撫でようとするのだ。劇場がはねてからは、楽屋から宿へ引上げようとする張治郎のぐるりに、黄色い喚声をあげて女達が押しかける。実にそれこそは露骨で浅間しいくらいのものだったが、佐治も俳優になっていたら、さしずめ張治郎と同じだったに違いない。お転婆な女学生達の間では、彼のことが「バレちゃん」という綽名ですぐ解るほどになっていたというが、それは何でもバレンチノという映画俳優に似ていたからだそうだ。
佐治が寄寓していた先輩の家では、その細君が、離別された。
政治家として知名なS代議士の令嬢は、どこで手に入れたか佐治の写真を持っていたことが発見されたため、実業家M氏の令息との婚約が破れ、その結果がやがてS代議士の財政的破綻政治的失脚になったとも伝えられている。
更に痛ましいのは、前にも一寸述べた某教授の令嬢が、これは気の毒なくらいの醜女だったそうだが、佐治宛に非常に長い手紙を書き、しかもその手紙を実際に佐治のところへ出す勇気もなく、毎日持ち歩いているうちに、彼女はD英語塾というのの生徒だったそうで、その手紙を朋友に見られたのを恥ずかしがり、カルモチン自殺を遂げてしまったことだ。
それでこそ、教授のいった言葉の意味がよく呑み込めるだろう。
佐治が、彼自身から女に働きかけたということをまだ聞かないのは、いささかなりとも彼の面目を保つに足る。だから、正しい意味では、彼は女蕩しだとか色魔だとは呼べないのだが、不幸にも彼は、女に対してそれだけの魅力を持った男だ。漆戸もそのことは知っていた筈なのに、なぜ彼を接近させるか、私は不審でならない。漆戸には、君からこの手紙を見せてやって貰えまいか。そうして君自身も愛する漆戸のため、こういう危険性のある男を避けるがいいのだ。
君が、佐治を相手にして火遊びをする女だとは思わないけれど、用心に若くはなし、敢てこの第一の理由を、あけすけにいって置く次第だ。
理由第二――。
これは、君の旦那さんが「佐治は少し変ったところのある男だ」といったとかで、この言葉に関聯していると見てよい。どこが変っているか、一口にいえば彼は変に悪党ぶる癖がある。このことは、まア漆戸だとか私だとか、佐治ととりわけ親密だったものだけが知っているのだが、彼は一種の偽悪病患者なのだ。学生時代、彼は毎試験期に、頗る巧妙なカンニングの方法を案出した。そしてその方法を誇りがおに皆の前で公表した。ところが彼自身はカンニングなんかしないで、いつも最優秀の成績で試験をパスしているのだ。上野の図書館の本を盗み出す方法とか、電車へ只乗りする方法とか、時には釣銭を詐取する方法とか、いろんなことを考え出したものだが、これらの方法は、実に奇抜で巧妙で誰しも一寸実行して見たくなるようなものばかりだった。彼はある時、友人の名前を利用して、その友人の国元から為替を送らせ、為替を横取りする方法を案出したが、これはKという放蕩者の学生がすぐ真似をし、しかしヘマをやったために、忽ちKはその筋の手で取押えられ、しかも学校からは退学処分に附されてしまった。
このことが、いち早く私達の仲間に知れた時に、佐治は、
「馬鹿な奴さKは。あいつ、僕の出鱈目に喋ったことを、本当に出来ることだと思やがったんだね。ああいう低能児にかかっちゃ敵わない。こっちで迷惑してしまう。僕は元来頭の悪い奴が大嫌いで、世の中の低能児なんてものは、むしろ一時に殺戮してしまった方が、世の中をどんなに愉快にするか知れないと思っているんだが、Kなどは、差しあたりその被殺戮者の筆頭だね。あいつは、結局、順当に学校を卒業しても、決して出世する男じゃないよ。いつかは、今度と同じようなヘマをやって大失敗を重ねる男だ。要するに世の中じゃ、頭がよくって、犯罪を巧みにやるような奴、悪いことをしても、それを誰にも知られないでいる奴が、一番手っ取り早く成功するんだからね。Kなんて、実に下らない存在さ。え? 何、あれにもう少し同情してやれって? 冗談じゃない。いくら僕の喋ったことに誘惑されたのだからって、あんな奴に同情してやるほど、安価なセンチメンタリズムを僕は有っていないよ」
いかにも強がっていったものだ。
あとで聞くと、佐治は、Kのつかまった時警察へ自ら出頭し、実はその為替横取り事件は、これこれで自分が案出した方法だといい、それが実行出来るかどうか、Kと賭けをしたのだという嘘を言い拵えて、そのほかKのために百方陳弁したそうだ。Kに対する佐治の友情で、係官もひどく感激させられたというし、Kは涙を流して、自分が却って佐治に迷惑をかけたことを謝ったという。それのみか、佐治は、Kの既に費消した金を、全部自分で弁償し、とにかくKを警察から救い出してさえいるのだ。
佐治が私達に向っていった強がりと、この実際の行為と、いずれが彼本来の面目であるか、私は、未だに決定することが出来ぬような気がする。
美貌を利用して、女を騙すことぐらい朝飯前だといい、時には、数人の女を事実手玉にとっているが如く見せかけて、一度もそれで尻尾を出したことがない。前いったようにもろもろの恋愛事件が、凡て女の方からの、片思いに過ぎなかったということで鳧のついてしまったのは不思議なくらいだ。
彼は、こうもいったことがある。
「僕はね、どうも君達から、法螺吹きだと思われているらしいよ。悪いことをするような顔をして、一向悪いことはしやしない。だから、正真正銘の僕は、実に気の小さい男だと思われているらしい。だが、僕は、実のところ、小っぽけな悪いことなんかやりたくないのだ。同じやるなら、未だかつて、人類の誰もが案出したことのないような悪事を企らもうと思っているのだ。いわば僕の一生涯は、その悪事のために捧げられるといってもいい。芸術家が一世一代の大作品を作り出すように、科学者が生命を賭して、宇宙の一大神秘を解こうとするように、僕は、前人未踏の境地に分け入って、悪の最高峰を極めようというのだ。大きな悪事をする前に、小っぽけな悪事で、警察へ連れて行かれるなんてのは甚だ不名誉だ。だから僕は、目下出来るだけ謹慎して、時期の到来を待っているのさ」
当時の私は、佐治がいかにもうまいことをいうので感心したものだ。ただ、今にして思えば、佐治が、本音でこんなことをいったのか、それとも面白半分であったのか、その点が多少曖昧にもなって来る。
偽悪病が、最後まで偽悪病であればよろしい。けれども、いずれの日にか、彼の偽悪が偽悪でなくなる時が来ないとは断言出来ない。その意味で私は、佐治を危険人物と見做すことに躊躇しないのだ。大学を出てから彼は×省へ入って役人になり、今度洋行して来たという。昔よりはずっと大人になったし、学生時代のように、無闇と偽悪ぶりを発揮することもあるまいけれど、それこそ反って、肚の底では、本当に何かの悪事を企らみ、その準備にとりかかっているのだと考えることも不可能ではない。
なお彼の警戒すべき性格については、以上のほかいくらでも話があるように思うが、今日は疲れたから、これで擱筆しよう。
僕のいうことは、解ってくれたろうね。
漆戸には、病気を、忍耐で征服しろといって伝えてくれ給え。肺なんか、黴菌と忍耐との闘争で、根気の強い方が勝つもんだそうだよ。愛する妻のために、どんなことがあっても生き伸びてくれなくちゃ困るわっていって、君から甘えてやるのも一つの手だね。
じゃ、左様なら。
(妹より兄へ)
お兄様の心配症なこと、喬子、漆戸と二人で大笑いしちゃいましたわ。今度みたいな面白い手紙は、あたし、今までに誰からも貰ったことがない。モチ、お兄様の気持はよく解るし、それについては、漆戸もどんなにか有難がっているのだけれど、あたしがあの手紙を見せると、お兄様のこと、被害妄想狂だぞこれは――って漆戸がいうの。
偽悪病患者と被害妄想狂なんて、とても、絶好の取組ねえ。
昨日も佐治さんが見えたので、喬子、お兄様の手紙のことなんか無論何も話しやしないけれど、佐治さんをふいに、「バレちゃん」て呼んでやった。佐治さん、ひどく吃驚してしまって顔を真赧にしているじゃないの。どこでそんなことを聞込んだかって、一生懸命気にしていて可笑しいったらない。漆戸と二人して散々揶揄ってやったんだけど、あの人、漆戸のいう通り、本当に気の小さな人ね。お兄様、何も心配することは要らないと思うわ。
漆戸と話している時、あの人、こんなことをいいました。
「ねえ漆戸君。僕は此頃つくづく自分が駄目になったと思うよ。昔は僕も、相当野心家で、勉強もしたし、溌剌たる意気も有っていた。ところが、学生生活を終って社会に実際出て見ると、すっかりもう僕はサラリーマンになり切ってしまって、いつもいつも考えていることは、早くサラリーが上ればいいとか、上役の感情を損ねてはならないとか、役所で何か手柄をして長官に認めて貰いたいとか、それに類した事柄ばかりだ。往年の大言壮語が気まり悪くなって来る。これではいけない、昔の意気や野望を盛り返せという叫びが、時として頭の隅から聞えて来ても、イヤイヤ、現在だって何も不幸ではない。同期の卒業生などに較べると、自分は出世が早い方だし、先ず成功者のうちに入れそうだ。焦ってはならぬという考えが湧いて来てしまう。――実に駄目だね。僕は、もしかして僕を、昔の僕に復帰させようというのなら、結局のところ、ここらで素晴らしい恋愛でもやって、昔の若さを再び燃え立たせにゃ駄目だろうと思っているよ。正直にいって、僕は、女に持て囃され過ぎた。女など、いつでも欲しい時に手に入れることが出来ると思って、かつて一度も心からの恋愛をしたことがない。僕が、手に入れようと思っても、容易に僕を許してくれぬような女があれば、多分僕は、昔の僕に戻れるだろう」
あたし、この言葉こそ、佐治さんの本音だろうと思います。誰かあたしの知っている女のうちから佐治さんが恋をするに相応しい人を見付けてあげたいくらい。
そういう恋人が出来てしまえば、佐治さんは、もっと元気のいい人になるだろうし、かといって、まさか昔の偽悪病患者になどなりっこないわ。
今日、東京は初雪。
漆戸は、あの後、どうしてか妙に身体の工合がいいらしく、この分なら、大丈夫だと自分でいっています。御安心下さい。
(兄より妹へ)
被害妄想狂云々のお手紙、実に参ってしまった。
そういわれれば、成程僕は、被害妄想狂かも知れないと思うのは、今度の君の手紙でも、またまた余計に心配になって来たからだ。僕は佐治について、余り喋り過ぎたのじゃないかしら。そうして、そのために、今まで君の心のうちで、何も知らず眠っていた佐治に対する好奇心を、横っちょから掻き立ててしまったのではないかしら。
喬子。気を付けろ
君は、佐治のために、恋人を探してやろうなんていっている。これは、要らぬことだぞ。決して決してそんなお世話を焼くものじゃない。それはお前が意識せずして、佐治に好奇心を抱き始めた証拠だ。
異性が異性に対する好奇心は、危険な火遊びの第一歩だ。既に、好奇心を有ち始めた君に対して、僕がこういうことを指摘するのは、いいことか悪いことか、僕には判断出来ない。手紙を書きながら躊躇しているのだけれど、とにかく、君はよろしくない。佐治を、悪党だと思ってくれ。頼む。私は、心配だ。リウマチでなかったら、すぐにも東京へ戻って、佐治に絶交を言渡し、お前と佐治とこれ以上の接近を防ぎたいほどに思う。
漆戸宛、別の書信で、佐治を警戒するよういってやった。被害妄想狂と嘲られてもいいから、要するに私は、漆戸とお前との幸福を祈る心で専一なのだ。
(妹より兄へ)
クリスマス、それから年の暮れ。
何だか気持の落着かない時になって来ました。毎年のことで面倒臭い贈物とか、漆戸が、いつもの通り、クリスマスのお祝いを家でやれとかいうので、喬子、目茶苦茶に忙しく、お兄様への御返事、一週間近くも放ったらかしにしてしまった。堪忍してネ。
あたし、此頃になってつくづく思うのだけれど、お兄様、矢っ張し偉いわね。お兄様の手紙で、喬子は、自分の気持をかなりハッキリと解剖することが出来ました。そして、お兄様のいわれた通り、喬子が佐治さんに対して、確かにある種の好奇心を抱いていたことを発見し、自分で吃驚しています。
あたし、いけない女なのでしょうか。
此頃のあたしは、佐治さんと直接視線をカチ合せるのが恐ろしいように思うし、漆戸と佐治さんとが何か話し合っているところへ、紅茶など運んで行っても、変に不安なものを感じてしまう。出来るだけ不愛想に振舞ってはいるつもりだけれど、それが心からの不愛想でないことを、良人からも佐治さんからも、既に看破されているような気がする。
漆戸が、あの後、日増しに元気になってくれたし、いつかは、あたしをもっと力強く護ってくれそうなので、それを心頼みにもしています。そしてあたし、いろいろ考えた末に、最賀さんにお願いして、これから当分、同居して戴くようにしました。
最賀さんは、お兄様も、二三度会って御存じの筈ね。漆戸の後輩で、今は漆戸のやっている事業のパートナーです。無口な、ブッキラ棒な、怖いみたいな人だけれど、事業上の手腕は素晴らしいとかで、漆戸がすっかり信用しています。奥さんを去年亡くして、お淋しいようでもあるし、ここの家に同居していれば、事業上便利でもあり、それに喬子としては、漆戸以上に、喬子をじっと監視してくれる人が欲しい。それやこれやで、最賀さんに来て戴いたわけです。
自分で自分の心を信用出来ず、監視人を置くなんて、喬子も随分おバカさんネ。
でも佐治さん、何だか、ひどく恐ろしい人のように見え出して来たのだから仕方がない。あたしもお兄様の被害妄想狂にかぶれちゃったのかしら。お兄様の御病気は、近頃どうですの?
(兄より妹へ)
御手紙拝見。実に今度は、とりとめのない手紙だったね。私は三度も四度も、今度の君の手紙を読み返して見たのだが、どうも君の真意がよく解らなくて困っているよ。
というのが、君のいうことは、変に不自然じゃないか。
佐治に、君は好奇心を有っているといって、正直に告白しているようだが、その癖、ではなぜ佐治を遠ざけないのだ。佐治を恐れながら、彼の出入を相変らず許していたのじゃ何にもならない。
君は、何か嘘をいっているね。
嘘でない、ほんとの手紙を待っている。
今日はこれだけ――。
(兄より妹へ)
どうしたのだ喬子!
前の手紙を出してから今日で一週間になる。その間にクリスマスも過ぎてしまったが、お前は、まだ私へ返事をくれないね。
君が、嘘をいっていると書いてやったのが気に障ったのか? 気に障ろうがどうしようが、君からの前の手紙は、矢張り嘘だらけだと思う。
もう一度訊くが、君は、本当に佐治をどう思っている? 佐治を、もう君が、好奇心どころじゃない、愛し始めたのではないかと思って、私は気懸りでならない。それに、君から何もいって寄越してくれないのは、君を中心にして、漆戸と佐治との間に、何か恐ろしいことが起りつつあるためではないかという邪推まで起って来る始末だ。それが、単なる被害妄想であってくれたら、どんなに私は嬉しいか。
君の気持を、正直にいえないようだったら、偽悪病患者佐治佐助の最近の動静だけでも知らせてくれ。そうすれば僕は、かなりいろいろのことを判断出来るだろう。私は、実は感冒にやられて、少しまたリウマチを悪くしてしまった。東京へ戻って、直接君や漆戸、その周囲に気を配ってやれないのが残念だと思う。
折返して、御返事を待つ。
(兄より妹へ)
謹賀新年。
今日でまた一週間になるよ。
正月早々、変なことはいいたくない。
賀状ぐらい、くれてもよくはないか。
(兄より妹へ)
去年の暮からかけて、私はスタンダールの小説『赤と黒』を読んだ。そしてこの中の主人公ジュリアンが、少なからず佐治佐助に似ていることを発見した。ジュリアンは、非常に美青年で、頭脳の明晰な男で、しかも野心家だ。美しいレナール夫人は、ジュリアンを避けよう避けようと心懸けつつ、遂にジュリアンと姦通する。また、侯爵令嬢ラ・モール嬢は、身分の賤しいジュリアンを一生懸命軽蔑しようとして、しかも妊娠し、彼を世界で一番偉い男のように尊敬し、愛してしまう。最後にジュリアンは、己れの立身出世せんとする矢先きを、レナール夫人の中傷によって妨げられ、レナール夫人をピストルで殺害する。殺害は、単にレナール夫人を傷つけたのみであったがジュリアンは死刑に処せられるという筋のもので、私は、今偶然にこんな小説を読んだことを、何かの暗合、もしくは不吉な前兆でありはしないかと懼れている。
願わくば、君が、レナール夫人であってくれぬように。そして佐治が、ジュリアンとなってくれぬように。
今日は正月四日。昨日も一昨日も、そして今日一日、私はお前からの便りを待って、結局待ち呆けを食わされてしまった。漆戸からさえ、何ともいって寄来さぬのはどうしたことか。ここで例の如く、僕一流の想像を廻らして見ると、君は、僕から漆戸宛に出した書信を、凡て横取りしてはいないか。僕の言葉を漆戸に聞かせたら、漆戸は、君の佐治に対する気持を知って、佐治を遠ざける。それが恐ろしいものだから、君は、僕と彼との間を遮断して、漆戸を瞞着しているのだ。
愛する妹よ。
まだ時期は遅過ぎはしない。
詳しいことを知らせてくれ。
(妹より兄へ)
ウルシド、シンダ、サジ、ケイサツヘツレテユカレタ、コチラヘコラレヌカ。
(兄より妹へ)
ユカレヌ、イサイ、フミニテシラセ、シンブン、オクレ。