尾生の信

1話 尾生の信

1,628字 約3分 1998年12月8日 公開

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 尾生(びせい)は橋の下に(たたず)んで、さっきから女の来るのを待っている。

 見上げると、高い石の橋欄(きょうらん)には、蔦蘿(つたかずら)が半ば()いかかって、時々その間を通りすぎる往来の人の白衣(はくい)の裾が、鮮かな入日に照らされながら、悠々と風に吹かれて行く。が、女は未だに来ない。

 尾生はそっと口笛を鳴しながら、気軽く橋の下の()を見渡した。

 橋の下の黄泥(こうでい)の洲は、二坪ばかりの広さを(あま)して、すぐに水と続いている。水際(みずぎわ)(あし)の間には、大方(おおかた)(かに)棲家(すみか)であろう、いくつも(まる)い穴があって、そこへ波が当る度に、たぶりと云うかすかな音が聞えた。が、女は未だに来ない。

 尾生はやや待遠しそうに水際まで()を移して、舟一艘(いっそう)通らない静な川筋を眺めまわした。

 川筋には青い(あし)が、隙間(すきま)もなくひしひしと生えている。のみならずその蘆の間には、所々(ところどころ)川楊(かわやなぎ)が、こんもりと円く茂っている。だからその間を縫う水の(おもて)も、川幅の割には広く見えない。ただ、(おび)ほどの澄んだ水が、雲母(きらら)のような雲の影をたった一つ鍍金(めっき)しながら、ひっそりと蘆の中にうねっている。が、女は未だに来ない。

 尾生は水際から歩をめぐらせて、今度は広くもない()の上を、あちらこちらと歩きながら、おもむろに暮色を加えて行く、あたりの静かさに耳を傾けた。

 橋の上にはしばらくの間、行人(こうじん)の跡を絶ったのであろう。(くつ)の音も、(ひづめ)の音も、あるいはまた車の音も、そこからはもう聞えて来ない。風の音、蘆の音、水の音、――それからどこかでけたたましく、蒼鷺(あおさぎ)の啼く声がした。と思って立止ると、いつか潮がさし出したと見えて、黄泥(こうでい)を洗う水の色が、さっきよりは間近に光っている。が、女は未だに来ない。

 尾生は険しく(まゆ)をひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、いよいよ足早に歩き始めた。その内に川の水は、一寸ずつ、一尺ずつ、次第に洲の上へ上って来る。同時にまた川から立昇(たちのぼ)()の《におい》や水のも、冷たく肌にまつわり出した。見上げると、もう橋の上には鮮かな入日の光が消えて、ただ、石の橋欄(きょうらん)ばかりが、ほのかに青んだ暮方(くれがた)の空を、黒々と正しく切り抜いている。が、女は未だに来ない。

 尾生はとうとう立ちすくんだ。

 川の水はもう沓を濡しながら、鋼鉄よりも冷やかな光を(たた)えて、漫々と橋の下に広がっている。すると、(ひざ)も、腹も、胸も、恐らくは頃刻(けいこく)を出ない内に、この酷薄(こくはく)な満潮の水に隠されてしまうのに相違あるまい。いや、そう云う内にも水嵩(みずかさ)(ますます)高くなって、今ではとうとう両脛(りょうはぎ)さえも、川波の下に没してしまった。が、女は未だに来ない。

 尾生は水の中に立ったまま、まだ一縷(いちる)の望を便りに、何度も橋の空へ眼をやった。

 腹を(ひた)した水の上には、とうに蒼茫(そうぼう)たる暮色が立ち()めて、遠近(おちこち)に茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりした(もや)の中から送って来る。と、尾生の鼻を(かす)めて、(すずき)らしい魚が一匹、ひらりと白い腹を(ひるがえ)した。その魚の躍った空にも、(まばら)ながらもう星の光が見えて、蔦蘿(つたかずら)のからんだ橋欄(きょうらん)の形さえ、いち早い宵暗の中に(まぎ)れている。が、女は未だに来ない。……

       ―――――――――――――――――――――――――

 夜半、月の光が一川(いっせん)の蘆と柳とに(あふ)れた時、川の水と微風とは静に(ささや)き交しながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。が、尾生の魂は、寂しい天心の月の光に、思い(こが)れたせいかも知れない。ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水の《におい》や()のが音もなく川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。……

 それから幾千年かを隔てた(のち)、この魂は無数の流転(るてん)(けみ)して、また生を人間(じんかん)に託さなければならなくなった。それがこう云う私に宿っている魂なのである。だから私は現代に生れはしたが、何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、ただ、何か(きた)るべき不可思議なものばかりを待っている。ちょうどあの尾生が薄暮(はくぼ)の橋の下で、永久に来ない恋人をいつまでも待ち暮したように。

(大正八年十二月)

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