毒瓦斯発明官 ――金博士シリーズ・5――

1話 毒瓦斯発明官 ――金博士シリーズ・5――(1)

7,053字 約14分 2005年6月23日 公開

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     1

 ()(あつ)い或る夜のこと、発明王金博士(きんはかせ)は、(そで)のながい白服に、大きなヘルメットをかぶって、飾窓(かざりまど)をのぞきこんでいた。

 南京路(ナンキンろ)雑沓(ざっとう)は、今が真盛(まっさか)りであった。

 金博士の視線は、さっきから、飾窓の小棚(こだな)にのせられてある洋酒の群像に(くぎ)づけになっている。いや、正しくいえば、その洋酒の(びん)にぶら下げられた値段札の数字に釘づけになっていたという方がいいだろう。

「あはは……」

 博士がとつぜん声をあげた。これは決して博士が笑ったのではない。実は大歎息(だいたんそく)をしたのである、あははと……。およそ歎息というものは、感極(かんきわ)まってその窮極に達すればあたかも笑声のような音を発するものである。嘘だと思ったら、読者は御自分で(ため)してみられるがよろしかろう。

「あはは、あの味のわるいウィスキーが一壜五百(げん)とは、べら棒な値段じゃ。その昔、重慶相場(じゅうけいそうば)というのがあったがその上をいく暴価(ぼうか)じゃ。同じ五百元でも、こっちのペパミントがいい。こいつを、氷の中に叩きこんで、きゅっきゅっとやると、この殺人的暑さは嵐にあった毒瓦斯(どくガス)の如く逃げてしまうことじゃろうが、それにしても五百元とは高い、今のわしの財政ではなあ」

 金博士は、このごろアルコールに不自由をしている上に、金にも困っていると見え、さてこそ極限歎息(きょくげんたんそく)次第(しだい)相成(あいな)ったらしい。

 丁度(ちょうど)そのときであった。金博士の頭を目がけて、一匹の近海蟹(がざみ)のようによく()えた大蜘蛛(おおぐも)が、長い糸をひいてするすると下りてきた。そして、もうすこしで、金博士のヘルメットにぶつかりそうになって、ようよう(さが)るのを停めた。おそるべき大蜘蛛だ。こんなやつに(くび)のあたりを喰いつかれ、生血(いきち)をちゅっちゅっ吸われたら、いかな頑固爺(がんこおやじ)の金博士であろうと、ひとたまりもなかろうと思われた。

「もしもし金博士(せんせい)、おなつかしゅうございますなあ」

 とつぜん、その大蜘蛛が金博士に言葉をかけたのだった。冗談(じょうだん)じゃない……。

「うん」

 博士の鼓膜(こまく)に、その声が入ったのか、博士は生返事(なまへんじ)をした。生返事をしただけで、彼はなおも飾窓の青いペパミントの値段札に全身の注意力を集めている。

博士(せんせい)は、いつに変らず御壮健(ごそうけん)で、おめでとうございます。この前、金博士にお別れをしてから、もうかれこれ五六年になりますなあ」

 その化け物のような大蜘蛛は、しきりに金博士をなつかしむのだった。これを横から眺めていると、博士も(また)、蜘蛛の化け物じゃないかという疑いが()いてくる。そういえば「新青年(しんせいねん)」誌上にのっている金博士の顔は、蜘蛛の精じみた風貌(ふうぼう)をもっているよ。

 閑話休題(さて)、金博士は、ようやく注意力の二割がたを、蜘蛛の声に向けて()いた。

「おう、そういうお前は醤買石(しょうかいせき)じゃな。お前はまだ生きていたんか」

 醤買石といえば、あの有名なる抗日遷都(こうにちせんと)将軍の名である。すると醤買石も、ついに人間の皮を(かぶ)っては遷都する先がなくなって、遂に大蜘蛛に化けたのであるか。それとも、彼はオーストラリヤで戦車にのし烏賊(いか)られて絶命し、魂魄(こんぱく)なおもこの地球に(とどま)って大蜘蛛と化したのであるか。

「あれ、金博士(せんせい)。醤はそう簡単に死にませんよ。しかしとにかく、博士にお目にかかりたいばかりに、部下もつれずに単身、きびしい監視網(かんしもう)をくぐって、ようやくここまで参りました。そしてとうとう博士に行き会いまして、こんな嬉しいことはございません。ふふふふ」

 ふふふふは、醤の笑い声ではない。感激の泣き声である。泣き声がその極致に達すれば笑い声に似たる――ああもうその解説はよろしいか。なるほど前にも鳥渡(ちょっと)書きましたなあ。

「泣くなよ、醤。お前は小便小僧(しょうべんこぞう)時代から泣きべそじゃったな。東に(くすのき)の泣き男あり、西に醤買石ありで、ともに泣きの一手(ひとて)で名をあげたものじゃ。で、わしに会いに来たというのでは、また何か大それた無心じゃろう」

 金博士は、やっぱり前跼(まえかが)みになって、飾窓の中をのぞきこみながら口を動かした。博士は、まさか頭の上に忍びよったる大蜘蛛と話をしているのだとは気がついていない様子に見えた。

「やあ、そのとおり、それが図星(ずぼし)でございますよ。()――いや小生(しょうせい)はこのたびぜひとも博士(せんせい)にお願いをして、毒瓦斯(どくガス)をマスターいたしたいと決心しまして、そのことで遥々(はるばる)南海の孤島(ことう)からやって参りました」

「毒瓦斯の研究か。そんなむずかしい金のかかるものは、お前の(がら)じゃないぞ」

「いえ博士(せんせい)、そう仰有(おっしゃ)らないで、是非にお願いいたします。今こそ孤島に小さくなっていますが、昔日(せきじつ)の太陽を呼び戻すには、猛毒瓦斯を発明し、その力によってやるのでないと全く見込みなしとの結論に達し、博士にお(すが)りに参りました。ぜひともこの醤を(あわ)れと思召(おぼしめ)し……その代り、お礼の方はうんときばり、博士のお好みのものなれば、ウィスキーであろうとペパミントであろうと……」

「そうか。それは本当じゃな。男の言葉に二言(にごん)はないな――というて相手がお前じゃ仕様(しよう)がないが……」

 といいながら、博士は飾窓から顔を放して腰を真直(まっすぐ)にのばしたものだから、さっきから()れ下っていた大蜘蛛が一揺(ひとゆ)れ揺れると、博士の顔へぴしゃと当った。さあたいへん、(あやう)いかな博士の一命! 生かまたは死か?

     2

 ……筆勢(ひっせい)あまって(おど)し文句を(つら)ねてはみたが、ここで金博士が、間髪(かんぱつ)()れず、顔にあたった大蜘蛛(おおぐも)を払いのけ、きゃあとかすうとかいってくれれば、作者も張合(はりあい)があるのであるが、当の博士は、別に(おどろ)きもなにもしない。(はなは)だ張合いのない次第であった。

 愕くどころか、博士は、矢庭(やにわ)に手をのばして、その大蜘蛛の胴中(どうなか)をつかんだものである。

 すると、ガラガラと、ラジオの雑音のようなものが聞えた。

 金博士は、つかまえた大蜘蛛を口のところへ持って行き、声を一段と低くして、

「おい醤買石、今すぐわしは、お前の居る屋上へ上っていくから、すこし待って居てくれ。しかしお前も、こんどというこんどは余程(よほど)()りたと見え、屋上から、蜘蛛に見まがうような擬装(ぎそう)のマイクと高声器をつり下げて、わしに話しかけるなんて、中々機械化してきたじゃないか、はははは」

「いや、ちとばかりソノ……」

「しかし、この無細工な蜘蛛を屋上からこの人通りの多い通りに()り下ろすなんて、やっぱりお前は、(あか)ぬけのしないこと(おびただ)しい。この次からは、もっといい智慧を働かすがいい」

 ()められたと思った醤は、とたんにぺちゃんこにやっつけられた。

 さて、ここは屋上である。例の洋酒店のあるビルの屋上であった。

 のっそりと、非常梯子(ひじょうばしこ)からあがってきたのが金博士であった。非常梯子の上り口に立って、うやうやしく挙手(きょしゅ)の礼をして立っている二人の白いターバンに黒眼鏡に太い(ひげ)印度人巡警(インドじんじゅんけい)! 脊の高い()せた方が醤買石(しょうかいせき)で、脊が低く、ずんぐり肥っている方が、醤が特選して連れてきた前途有望な瓦斯師長(ガスしちょう)燻精(くんせい)であった。二人は、まるで舷門(げんもん)から上って来た司令官を迎えるように、(きわ)めて(げん)たる礼をもって金博士に敬意を(ひょう)した。

 博士は、几帳面(きちょうめん)に礼をかえすどころか、いきなり醤の瘠せた肩をどんと叩いて、

「おい、ウィスキーにペパミントの約束、あれはまちがいないじゃろうな。一本が五百元もするぜ。お前そんなに金を持っとるか」

 と、無遠慮(ぶえんりょ)な問いを発した。

「や、それはもう大丈夫です。御承知のとおり、昔からイギリスと深い関係がありますものですから、武力こそ瘠せ細っていますが、黄金であろうとダイヤモンドであろうとウィスキーであろうと、そんなものは、うんとストックがあります」

「ほ、ん、と、ですか」

「もちろん本当です。(くに)(やぶ)れて洋酒ありです。(もっと)も早いところストックにして置いたのですがね……しかし博士(せんせい)、毒瓦斯の方のことですが……」

「うん、毒瓦斯なんて、他愛(たあい)もないものじゃ。ウィスキーになると、そうはいかん」

「いや博士(せんせい)、ウィスキーなんて()びるほどあります。毒瓦斯の研究となると、そうはいかん」

「よろしい、バーター・システムで取引しよう。一体どんな毒瓦斯が入用(いりよう)か。フォスゲン、ピクリンサン、ジフェニルクロルアルシン、イペリット、カーボンモノキサイド、どれが()しいかね」

 下は人工灯(じんこうひ)の海、上は星月夜(ほしづきよ)、そして屋上は真暗(まっくら)だった。その真暗な屋上に立って、金博士は大きく両手をひろげる。

「そんなものは、どれも欲しくありません」

 醤は人一倍大きな頭を左右に振る。

「ほう、これじゃ気に入らんのか」

博士(せんせい)()――いや私の欲しいものは、そんな従来(じゅうらい)から知れている毒瓦斯ではありません。そんな毒瓦斯は、吸着剤(きゅうちゃくざい)活性炭(かっせいたん)と中和剤の曹達石灰(ソーダーせっかい)とを通せば(さえぎ)られるし、ゴム()ゴム手袋ゴム靴で結構(けっこう)()けられます。そういう防毒手段のわかっている毒瓦斯は、今じゃどこへ持っていって()いても、効目(ききめ)がありません。もっとよく効く、目新らしいものがいいですなあ」

 南京虫退治(ナンキンむしたいじ)新剤(しんざい)を探しているようなことをいう。

 博士は、別段困った顔もせずに(うなず)き、

「わしのところには、どんなものでもあるよ。今お前のいった防毒面をどんどん通して、今までの防毒面じゃ役に立たない毒瓦斯があるがこれはどうじゃ」

「それはいいですなあ。しかしそれは○○○、○○○○○じゃないのですか」

「ほう、それを知っているか。この種のものはドイツと○○だけが持っているので、従来の防毒面ではまるで防ぐ力がない」

「しかし博士(せんせい)、それも駄目ですよ。なぜといって、他の国には無いかもしれないが、ドイツなどには、その超毒瓦斯(ちょうどくガス)を防ぐ仕掛をちゃんと持っている。そういう防ぐ手段のあるものは全然駄目です。私は、全然防ぐ用意のない毒瓦斯が欲しいのです。博士、ぜひお力をお貸しねがいたい」

 醤は、熱心を(おもて)にあらわしていった。

「ほうほう、だいぶん熱心じゃが、それもあるにはある。しかしこれを教えるには、大分高価(こうか)につくが、いいかね。まずウィスキーならダース(いり)函単位(はこたんい)でないと取引が出来ないが……」

「ダース函でも何でも提供しますとも」

「ほい、お前にも似合わん、えらく気が大きいじゃないかい」

博士(せんせい)、わしの報復(ほうふく)()るかどうかという瀬戸際(せとぎわ)なんです。あに真剣にならざるを()んやです」

「そうか。なら、よろしい。ちょっとここに出してみようか」

「あ、待ってください。それはあぶない。ここで出されたんでは、私が死んでしまうじゃないですか。そればかりは遠慮します」

「なにをうろたえとるか。出すといっても、本当の毒瓦斯を出すとはいっておらん。こういう毒瓦斯があるという話をしようかという意味でいったのじゃ」

「ああ、そうでしたか。やれやれ安心しました。とにかく博士(せんせい)と来たら、(きょう)が乗れば、敵と味方との区別なんかもう滅茶苦茶(めちゃくちゃ)で、科学の力を残酷(ざんこく)に発揮せられますからなあ。これまでに私は、博士のそのやり方で、ずいぶんにがい体験を()て来たもんです」

「醤よ、科学は残酷なものじゃよ。わしはそう思っとる。だから人間は出来るだけ早く科学を征服しなければならないのじゃ。ドイツに於ては――」

「博士、ドイツの話はもう沢山です。それで私のお願いは、ここに立っている腹心(ふくしん)の部下で、新たに毒瓦斯発明官に任じました燻精を一週間だけお預けいたしますから、その期間にこの男に対し、新毒瓦斯研究の方針とか企画とか設備とか経費とか、ありとあらゆることを吹きこんでいただきたい。私は、この男の帰還を待って、早速(さっそく)全世界覆滅(ふくめつ)の毒瓦斯を発明する鬼と()して、全力をあげ全財産を()げうって発明官と一緒にやるつもりです」

 醤は、満天の星を吸いこもうとするのではないかと思われるような大口をあいて、芝居気たっぷりに、途方もない重大決意を(わめ)き散らしたのであった。

「ええ加減にしろ。大言(たいげん)よりは、ウィスキーじゃ。ペパミントじゃ」

 金博士が、醤に負けないような大きな声を出し、(おこ)った蟷螂(かまきり)のような恰好(かっこう)で、拳固(げんこ)で天をつきあげた。

     3

 博士の例の地下研究所の一室において、白い実験衣(じっけんい)を着た金博士と発明官燻精(くんせい)とが向きあっていた。

 二人は、手に手に(さかずき)を持っている。

 実験台の上には、いろんな形をした洋酒の壜が、所も狭く並んでいる。

 博士は盃を唇のところへ持って行き、黄色い液体を一口ぐっとのんで、後はしばらく唇と舌とをぴちゃぴちゃいわせた。

「……ふーん、どうもおかしい。燻精、お前のんでみろ」

「はい」

 燻精が盃を唇のところへ持っていった。

「はい、のみました。実にこたえられない、いい酒ですなあ」

「そうかね。わしには、それほどに感じないが……」

博士(せんせい)、それは先生のお身体の工合(ぐあい)ですよ。どこかどうかしていられるのです。糖分(とうぶん)が出ているとか、熱があるとかでしょう。私には、十分うまいですよ。やっぱりイギリス製のウィスキーだけありますねえ。これは英帝国(えいていこく)(さか)んなりし時代の生一本(きいっぽん)ですよ。間違いなしです」

「相当にうるさいね、君は」

「いや、酔払(よっぱら)ったんです。これもこの酒の芳醇(ほうじゅん)なる(ゆえ)です。そこで先生、酒の実験はこのくらいにして、お約束ですから、かねがねお願いしてありました毒瓦斯研究の指導を早速(さっそく)お始めいただきたいのですが……」

「ふん、毒瓦斯研究の件か」

 博士は何となく不機嫌(ふきげん)に、盃をがちゃんと台の上に置いて、

「では醤との契約に基き、(まさ)しく履行するであろう。神経瓦斯について講義をする」

「あ、その神経瓦斯というものなら、既にドイツ軍がエベンエマエル要塞戦(ようさいせん)に使ったということを聞いています。それはもう陳腐(ちんぷ)な毒瓦斯で……」

「ドイツ軍が使ったという話のある神経瓦斯は、一時性(いちじせい)の神経麻痺瓦斯だ。それを()いだベルギー兵は、恍惚(こうこつ)となって、しばらく何も彼もわからなくなった。もちろん、機関銃の引金(ひきがね)を引くことも忘れて、とろんとしておった。気がついたときには、(そば)にドイツ兵がいたというのだ。これは一時性の神経瓦斯だ。一時性では効力がうすい。これに対してわしが考えたのは、持久性(じきゅうせい)の神経瓦斯だ。これをちょっと嗅ぐと、まず短くても一年間は麻痺している。人によっては三年も五年もつづく。そうなると、その患者はもはや常人として責任ある任務をまかせて置けなくなる。どうだ、すごいだろう」

 博士は、ようやく機嫌をとりかえした。

「それは、生理学からいうと、どんな作用をするのですか」

「つまり、脳細胞を電気分解し、その(ゆが)みを持続させるのじゃな」

「はあはあ、脳細胞を電解して歪みを持続させる……、それはおそろしいことだ。しかし電解させるというのなら、それは怪力線(かいりょくせん)の一種ではありませんか。毒瓦斯とはいえないでしょう」

 燻精師長は、さすがに醤の信任があついだけに、するどく博士に突込(つっこ)む。

「怪力線の如きものでは、ぴりぴりちかちかと来て、相手に知れるから、よろしくない。もっと緩慢(かんまん)なる麻痺性のものでないといけぬ。わしの作った神経瓦斯は、全然当人に自覚(じかく)がないような性質のものだ。臭気(しゅうき)はない、色もなくて透明だ、もちろん味もない、刺戟(しげき)もない。もちろん()く緩慢な麻痺作用を起すものだから、はじめから刺戟を殺してあるのだ。しかもその後いつまでたっても当人は、瓦斯中毒になっているという自覚が起らないのだ。つまり常人(じょうにん)と殆んど変りない精神状態におかれてあって、しかも脳の或る部分が日と共に完全麻痺に(おちい)る。そうなると、たとえば、にこにこ笑って人と話をしていながら、手に握ったナイフで相手の心臓の真上(まうえ)をぐさりと刺すといったようなことを、一向昂奮(こうふん)もせず周章(あわ)てもせず、平気でやる。まあ、そういう最も常人らしい狂人に変質させるのが、わしのいう持久性神経瓦斯の効果じゃ。どうじゃな。君もそういう方向のものを考えてみてはどうかな」

「す、すばらしいですなあ」

 燻精師長は、盃を置いて、金博士に抱きついた。

「よせやい、気持のわるい」

 と、金博士は燻精を突き放し、

「さあ、もうそれだけのヒントを与えてやれば、お前は醤のところへ帰って、早速(さっそく)発明研究を始めていいじゃろう。さあさあ、とくとく醤の陣営へ戻れ」

「はい。では、引揚げましょう。永々(ながなが)御配慮(ごはいりょ)ありがとうございました」

「いやなに、たった十分間の講義だけじゃ。しかしあのウィスキーにペパミント百四十函は、授業料としては至極(しごく)やすいものじゃ」

「あれだけの(おびただ)しい洋酒を(ささ)げても、まだ先生の方が御損(ごそん)をなさいますか」

「それはそうじゃ。(はなは)だわしの方が損じゃ。帰ったら醤に、そういっていたと伝えてくれ。しかし神聖なるバーター・システムの(ちか)いの手前、こっちでもぬかりなく按配(あんばい)しておいたと、あの醤めにいってくれ。さあ、引取るがよろしかろう」

「はいはい承知いたしました」

 燻精には、何やら腑におちかねる点もあったが、今が引揚(ひきあげ)潮時(しおどき)だと思ったので、博士をいい加減(かげん)にあしらった。着換えをすますと彼は博士の前に出て恭々(うやうや)しく三拝九拝の礼を捧げ、(きびす)をかえして、部屋を()でんとすれば、何思ったか金博士は、急にうしろから()()めた。

「ああ、お帰りはこちらだ。この狭い廊下をずっといって、やがて突当ると、自動式の昇降機がある。それに乗って一階へ出なさい。すると至極(しごく)交通に便なところへ出る」

 と博士は、壁の(ボタン)を押し、壁に仕掛けてあった秘密の(くぐ)り戸を開いて、指した。

「ああそれはどうも。こっちに通路があるとは、全く存知(ぞんじ)ませんでした」

「こっちは特別の客だけしか通さないんだ。(しばら)く誰も通さなかったから、顔に蜘蛛(くも)の巣がかかるかもしれない。手で払いのけながら、そろそろ歩いていきたまえ」

「いや、御親切に、ありがとう」

「どういたしまして。はい、さようなら」

 潜り戸を入った燻精師長のうしろで、ぱたんと(ドア)のしまる音がした。と同時に、博士が扉の向うで、さめざめと(すす)り泣くような声を聞いたと思ったが……。

     4

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