三太郎の日記 第二

15話 四 形影の問答 4

2,034字 約4分 2011年9月17日 公開

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「君は近頃少し評判がよすぎるやうだ。一體君はどつちかと云へば怜悧過ぎる方の性質だから、いゝ氣になつて擔ぎ上げられてゐるやうな事はまアあるまいが、君は怜悧過ぎる癖にまた隨分拔作でもあるから、そのために不知不識自分自身を過信(オーヴアーエスチメート)するやうな事は或はないとも云へないだらう。其處が恐ろしい處だ。」

「君の云ふ通り、全く僕は少し評判がよすぎるやうだ。君も知つてゐる筈だが、僕は決して自分自身をアンダー・エスチメートし過ぎる方の性質ではない。それだのに、世間の一部では、僕が僕自身を評價してゐるよりもまだ評判がいゝんだから恐ろしい。假令一部分の人からにもせよ、自分の眞價以上に見積られると云ふ事は恐ろしい事だ。昔の偉い人は一生懸つてもその眞價を認められずに死んで了つたのに、僕は今の若さで自分の自信以上に認められてゐる。僕のやうな底の淺い者は、さうなるのが當然の運命で、當然以上の幸運なのかも知れないけれども、當人になつて見れば、今から Popular Writer になつて了つては堪らないと思ふ。之は君だけの話だが、近頃僕は時々、自分でも知らずにゐる間に、僕は今僕に許された Fame の絶頂に立つてゐるのではないかしらと思ふ事がある。僕は直にそんな事があつて堪るものかと強く此感じを打消して了ふが、併し僕は又、お前の先輩はお前よりも若くてそのフエームの絶頂に登つた、さうしてお前の年頃にはもう忘れられて居た、こんな事は現在の日本では決してあり得ない事ではないと反省しない譯に行かない。僕はそんな事を思ふと、評判のいゝのが嬉しいよりも、寧ろ不安で、淋しくて、馬鹿馬鹿しい氣がする。却々評判に浮かされて居る處の騷ぎぢやない。

 僕はそんな氣がする毎に、顧て自分の Life を思ふ。フエームはそれとして、お前のライフはどうだ、お前は今お前のライフの絶頂に立つてゐるのかと自ら質問する。さうすると即座に山彦のやうに返つて來るものは、まだだまだだ、俺のライフはまだ碌に青くさへならないと云ふ返事だ。此返事を得て僕は安心する。僕にとつて肝要な問題はフエームではなくてライフだからだ。フエームなぞは御天氣次第で昇つても降つても、僕は屹度僕のライフを高く、高く、高く、上の方に推し上げて見せる。僕は可なり注意深く僕のライフを檢査して見たが、僕の目に映ずるものは見渡す限り問題の芽、いのちの芽だけで、僕のライフが頂點に達した徴候は――況して下り坂になつた徴候などは、藥にしたくも見つける事が出來なかつた。尤も僕は近頃少し自己肯定をやり過ぎた氣がしてゐる。云つた事は嘘だとは思はないが僕はまだまだ貪慾に貯め込まなければならない時機なのに、少しの施與位は出來さうな顏をした事を極りが惡いと思つてゐる。僕があれを云ふ時には、俺があれ位の事を云つたつて世間の人も笑ふまい位の氣はあつたから、多少世間の評判を當にした氣味合ひもないとは云へないけれども、その重なる點から云へば僕を輕蔑する奴の前に自分の地歩を占めて置く必要があつたからだ。僕のライフの半熟な處は僕自身の眼に餘りはつきり映り過ぎてゐるから、少しの評判ぢや中々胡魔化しきれやしない。君の親切は誠に有難いが、此點だけは安心してくれ給へ。

 僕はもう青春と云ふ時代もどうにか通り越してしまつた。僕は此時代との別離が隨分辛かつた。僕は夢にも、戀にも――人生のあらゆる華かなものに別れて了ふやうな氣がして非常に心細かつた。併し今はもう此別離を大して悲しい事とは思はない。僕は昨今になつて頻に人間は長生しなければ駄目だと思つてゐる。人間の魂が本當に成熟するのはどうしても老年になつてからの事だ。大きい、靜かな、波のうねりの深い、見晴らしの廣い、重味のある生活は若い者にはとても味はれさうにもない。僕はロダンや、イプセンや、トルストイや、ゲーテの老年を思ふと恐ろしく、懷かしく、望みに充ちたやうな氣になる。死ぬ前にはゲーテのやうな顏になつて死にたいと云ふのが、おほ氣なくも僕の大野心だ。それだのに、今からライフの頂點に達したり、降り坂になつたりして堪るものか。日本の先輩が、これまで、早く衰へて了つたのは、彼等の心掛けが惡かつたせいだ。彼等に仕事をさせた力が、一生を貫く内面の要求ではなくて、一時的な青年の情熱に過ぎなかつたからだ。フエームに浮かされたり、酒色に耽溺したりして、直に内面の要求を見失つたからだ。内面の要求を緊乎と握つてゐる者には、老衰などは滅多に來る筈のものではない。先輩が早老だからと云つて、何も後輩がその眞似をしなければならない譯がないから、先輩が早老であればある程、僕達は晩老の新事例を開いて遣る責任があるのだ。僕は一つ晩老の模範を示してやらうと云ふ大野心を持つてゐる身だ。僕はフエームの沒落に就いて淋しさを感ぜずにゐられる程練れた人間でもないけれども、中々自信以上のフエームを甘受して一緒になつて増長してゐられる程の馬鹿でもない積りだ。」

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