三太郎の日記 第一

11話 三太郎の日記 1

899字 約2分 2011年8月12日 公開

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 價値ある情調を伴つてこそ知識も、思想も、乃至情緒其物も始めて身に沁みる經驗となる。全心の共鳴を惹起すこともなく、數知れぬ倍音と融け合つて根強い響を發することもなく、離れて鳴り離れて消ゆる思想や知識は餘りに乾枯びて、餘りに貧しい。明るみに輝く焦點の後には、暗きに隱れ、薄明の中に見え隱れする背景がなければならぬ。一度鳴れば心の世界の隅々に反響を起して、消えての後も意識の底の國に餘韻永く響く樣な知識と思想と情緒とが欲しい。一言にして盡せば心の世界に靈活なるシンボリズムの流通を感ずる生活がしたい。

 併し情調の生活は往々にして思想と人格とを拒むの生活となる。現實の生活が餘りに複雜にして思想の單純に括り難いことを知るからである。自我の發動が餘りに移り氣に、變幻多樣を極めて人格の不易に綜合し難いことを知るからである。昨日は何處に彷徨つてゐたやら、明日は如何なる國に漂ひ着くやら、此等は凡て知るを要せぬ、且知ることを得ぬ問題である。唯瞳を燒くが如く明かなるは現在の生活と其情調とである。其時々の情調を噛みしめて、其時々の共鳴を樂んで行くより外に吾人の生きる道がない。吾人の生活は刹那から刹那へとぼ/\と漂ひ流れて行く。

 此の如く永久に刹那々々の情調を追つて行くのがロマンチシズムならば世にロマンチシズム程淋しいものはあるまい。情調の放蕩の外に此世に生きる道がないとしたら他人は知らず自分は耐らない。「昨日」に對する不信の意識も淋しく、「明日」に對する不安の意識も亦淋しい。依つて立ち依つて安んずるに足る可きもの、若しくは包んで温めて呉れるものがなかつたら自分の心は永久に不滿である。自分の心の空は永久に曇天である。我心は漂泊し放蕩する情調を括る不易の或物に向つて喘いでゐる。之に觸れゝば複雜にして移り氣な自我の全體が自然に響き出し躍り出す樣な一つのキイノートに向つて喘いでゐる。嗚呼我が知らざる「我」は何處の空に彷徨つてゐることであらう。

 聖オーガスチンは神の中に憩ふに非ざれば平安あることなしと云つた。自分は要求の點に於て未だ中世に彷徨つてゐる男であらう。思想が欲しい。人格が欲しい。「神」が欲しい。

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