三太郎の日記 第一

61話 三太郎の日記 1

2,248字 約4分 2011年8月12日 公開

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 俺は茲に一生の祕密を書きつける。俺の名は實は青田三太郎と云ふのではない。俺の親達は俺に瀬川菊之丞と云ふ美しい名前をつけて呉れたのだ。併し段々成長するに從つて此美しい名前は俺の御荷物になつて來た。俺は此のクラツシカルな美しい名前を護る爲に手も足も出ない達磨大師になつて了つた。俺の生活は正しく、嚴肅に、世間の眼から見て一點の非の打ち處もない生活であつた。併し同時に俺の生活の内容は、空しい、貧しい、仔の成長して了つた後の蜂の巣のやうなものであつた。俺の靈は、繼母の爲に糧を斷たれた小兒の樣に、日毎に青ざめて、痩せ衰へて來た。其處で俺は神樣に哀求して轉身(メタモルフオゼ)の祕蹟を行つて貰つた。世間の奴は俺の前身を知らないが俺が青田三太郎となつたのは其時からである。瀬川菊之丞が青田三太郎となつたのは、表面から見れば、下情に通ずることを求める爲めに、殿樣が襤褸を着て御菰になつた趣があるとも云へよう。併し魂の方から見れば――之が本當の見方である――廣い世間を喰詰めた無頼漢が、河岸を變へて新しい眞面目な生活を始める爲に僞名をしてゐるのだと見る方が適當である。瀬川菊之丞の名を想出すのは恐ろしい。悲しい。だから俺は今まで自分の意識にさへ此事を祕密にしてゐた。俺は今一期の大事を打明ける樣におど/\しながら此事を自分の魂に囁くのだ。俺の云ひ樣が巫山戲てゐると云ふ人があるならば夫は巫山戲なければこんなことは云へないからだ。我魂よ、君は戀人を口説く前に酒を飮む男を卑怯だと許り貶して了ふ氣なのか。

 菊之丞は三太郎になると共に思ひ切り「惡い子」になつてやらうと思つてゐた。苟も靈の糧となつて之を肥すことならば姦淫でも裏切りでも何でもやつつけてやらうと思つてゐた。併し轉身の祕蹟を行ふ時に神樣の火が弱過ぎたと見えて、菊之丞の性質が未だ燒き盡されずに三太郎の中に殘つてゐた。菊之丞の最も惡い性質――いゝ子で通さうと云ふ性質――を三太郎も亦承繼いでゐた。三太郎は新しい周圍の中に立つて、脆くも亦いゝ子になりたいと云ふ希望を起した。三太郎は姦淫も裏切りも出來なかつた。彼は今新しい社會に立つて、再び手も足も出ぬ達磨大師に收らむとしつゝある。三太郎は之を苦しいと思つてゐる。

 尤も三太郎は菊之丞時代に比べれば少しは自由になつてゐる。菊之丞は學校に在つて論理學の成績の拔群な子供であつた。菊之丞の推論に誤りがないと云ふのではない。彼は時々隨分見當違ひの推論をしては自分でも苦笑してゐた。併し彼は不思議に論理學のエツセンスを攫んだ子であつた。論理的氣分と云ふ樣なものゝ強い子であつた。一言で云つて了へば彼にはコンゼクエンツを要求する氣分が隨分濃厚に働いてゐたのである。論理學の教師は菊之丞の此性質を見拔いて之を可愛がつた。併し此性質は決して菊之丞の幸福ではなかつた。彼は此性質の爲に自分の思想行動經驗氣分を檢査して一々其コンゼクエンツを討さなければ氣がすまなかつた。さうして其コンゼクエンツを檢査することは常にインコンゼクエンツを發見する結果に終つた。さうしてインコンゼクエンツに堪へざる彼にとつてインコンゼクエンツを發見することは同時に其生活に空虚を拵へることであつた。若しくは我と我身の自由に束縛を加へることであつた――轉身の祕蹟を行ふ時、神樣の火が菊之丞の此の性質を可なり燒盡したのは事實である。三太郎は其時の氣分次第で勝手に物を云つたり身を處したりすることが可成の程度迄出來る樣になつた。神々の火は三太郎に新しい信念を吹込んだ。三太郎は其時の心持にさへ詐りがなくばそれは自分にとつて常に眞實であると信ずる樣になつた。論理的不一貫(ローギツシエ・インコンゼクエンツ)人格的一貫(ベルゼーンリツヘ・コンゼクエンツ)を妨げるに足りないと信ずる樣になつた。それで三太郎は可なり矛盾した事を平氣で云つたりしたりすることが出來るやうになつたのである。菊之丞としては出來ないことが三太郎として出來るやうになつたのである。――併し之は(いましめ)の繩が少し緩んだ位に過ぎない。三太郎は更に一層の自由を望んでゐる。

 要するに三太郎は又自分の存在に苦しみ出した。三太郎はもつと氣紛れに物を云ひ、もつと氣まぐれに身を處することを切に望んでゐる。俺は更に神々に轉身の祕蹟を要求して阿呆の三五郎――我が魂よ、君は僕と一處に昇之助の紙治内を聽いた筈だ、何卒昇之助の調子で此の固有名詞を發音して呉れ給へ――と改名したくなつた。しかし轉身は神々から降る恩寵である。三太郎の哀求は唯降神を求めるインケーシヨンに過ぎない。幸ひにして三太郎には幻想の力がある。幻想によつて三五郎となることは三太郎の自由である。世間の物質論者から見れば三五郎は三太郎の頭の中の影に過ぎないであらう。併し三五郎は唯三太郎から物質と社會と論理との束縛を解き去つたといふ意味に於いて影となつたのである。現實は假相である。眞相は唯影の如く其奧に搖曳する。影となると云ふことは外面を擺脱して内面のみに生きると云ふことならば、影となることは人間の哲學的要求である。三五郎は三太郎の影として三太郎のなし得ざる所をなし、發表し得ざる所を發表し、經驗し得ざる處を經驗する。三五郎は益人生の間に惡を行つて靈の糧を其處に求めよう。三五郎は益其場限りのことを云つて辻褄の合はぬ出鱈目を並べよう。世間には自分の魂の爲めに善であり乍ら、他人を傷つける爲に惡とされる「惡」が多い。人の心には論理に於いて統一なくして魂に於いて統一ある矛盾が多い。此惡と此矛盾とを經驗するは影の人三五郎の役目である。

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