三太郎の日記 第一

81話 三太郎の日記 6

2,374字 約5分 2011年8月12日 公開

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 藝術は自己内生の表現であると云ふ。湧き上る心をおし出したものであると云ふ。藝術家の個性の創造であると云ふ。凡て正しくその通りである。併しその表現される内生とは何ぞ。その湧上る心の内容は何ぞ。その個性によつて創造されるところのものは何ぞ。それは死んだ兒の着物をひろげて見せる三千代の姿である。サランボオの足に下に落ちてゐる金の鎖である。パオロの腕の上に見えるフランチエスカの顏とそのうしろにひいた腰の恰好とである。兩手を以つて髮を抑へてゐる裸の女と黒奴との上に落つる光である。それは凡て此等具象的のものであつて、藝術家の「哲學」でも、乾物の「個性」と「自己」とでも何でもない。もし表現を求める内生が、おし出して來る心が、個性によつて創造されるものが、此等抽象的のものならば、それが三千代となり、金の鎖となり、姿となり色となるのは餘りに間接に過ぎる。餘りに「おし出す」趣がなさすぎる。此等のものは哲學の講義となり、自己又は個性の讚美演説とはなつても、小説と彫刻と繪畫とにはならない筈である。唯藝術家の中からおし上げて來る内生が、姿であり色であり形であればこそ、その直接なる表現が藝術となるのである。藝術家の製作に當つて、直接にその意識に上つて來るものは、哲學や自己や個性であつてはいけない。此等のものは藝術家に作爲と強制と誇張と打算とを教へるにすぎない。藝術家の意識に上るものが色と形と姿とで――更に適切に云へば、いのちと融け合つた色と形と姿とで――あればこそ、その藝術は自然に直接に生氣があるのである。さうして藝術家の哲學や自己や個性は、自らその上に漂ひ、その中に顫へるのである。哲學や自己や個性の表現は自然の結果であつて努力の目的ではないのである。約言すれば藝術家の第一の努力は對象――物、自然、空想世界――の心の捕捉である。さうして藝術家の個性は對象を統覺(アツパーシープ)する形式の上に、必然に、併し無意識に表現されるのである。

 吾等は此の如き見地から藝術家の自然――現在の意味に於いて自然は對象の一代表者である――に對する崇敬を理解することが出來る。自然と自己と孰れが原本的實在なりやは藝術家の關知する處ではない。彼等は唯自己の前に――哲學的に云へば自己の中に――展べられたる美の無盡藏を見る。さうしてその美を自己の藝術中に生擒せむと踴躍する。私の見る處では、藝術家の自然に對する態度の相違は、自然の本質に對する理解の相違である。物質的に見るか精神的に見るか、如何に深く、如何なる方面より、如何なる強調を以つて自然を見るかの相違である。若しくは對象を狹義の自然にとるか、抽象的形式にとるか、空想的自然にとるかの相違である。自然を殺して自己を活すか、自己を殺して自然を活すかの問題ではない。若し意識的に此デイレンマに陷つた藝術家がありとすれば、それは其人の論理的迷妄であつて、實際彼の藝術の價値を上下するものは此デイレンマに對する解答ではあるまい。形象(對象)の熱愛に動かされざる藝術家は、必ず無價値なる藝術を殘したに違ひない。

 ロダンの自然に對する崇敬は今更繰返す迄もない。彼の誇張は自己を表現する爲の誇張ではなくて、自然の心を生かす爲の誇張であつた。私の見る處では所謂表現派の代表者フアン・ゴーホの如きも實によく自然の心を攫み、物の精を活かした畫家であつた。ゴーホの強烈なる個性が常に畫面の上に渦卷いて、其中心情調をなしてゐることは今更云ふ迄もないことであるが、個性が猛烈に活きてゐると云ふことは物の虐殺を意味するとは限らない。彼の描く着物は暖かに人の身體を愛撫する、手觸りの新鮮な毛織である。彼の火は農婦の手にする鍋の下に暖かに燃えた。木の骨に革の腰掛をつけた椅子も、ガタ/\の硝子窓も、彼の繪の中には凡て活きた。彼の天を燒かむとするシプレスも、ゴーホの眼には確かにあの樣に恐ろしい心を語つたに違ひない。ゴーホは自然を心の横溢と見た。さうして自分も自然と一つになつて燃え上つた。併し私はゴーホの繪の前に、自然か自己かのデイレンマを見ることが出來ない。自己表現のイゴイズムが自然と物とを虐待してゐることを見ることが出來ない。哲學的に云へばゴーホの自然に生命を附與したものは固よりその特色ある個性である。併し藝術家ゴーホは自ら生命を附與した自然の前に跪いた。彼の活かさむとした處は、恐らくは自己でなくて自然であつたであらう。寧ろ自然を包む靈であつたであらう。

 藝術家は個性の修錬によつてその藝術的形式を獲得し精練する。此意味で藝術家に個性の修練を説くのはよいことである。又藝術を説明して表現であり創造であると云ふのは固より結構である。併し個性の表現とは作爲と打算との奬勵ではない。創造と云ふのは對象の壓迫と主觀の放恣(換言すれば客觀的有機性の蔑視)ではない。此點に就いて特に念を押す必要があるやうに思ふ。

(註。ゴーホはテオドールに送つた手紙の中に、「例へば一友の肖像を描くに、單に眼に映じた處に拘泥することなく、自己を強く表現する爲に、彼に對する余の愛を表現する爲に、勝手に誇張して着色する云々」、と云ふ意味のことを云つてゐる。その云ふ處は一見私の説に反對することばかりのやうである。併し少し考へれば兩者の間に精神上の矛盾のないことは直に明かになるであらう。勝手に誇張して着色するのは對象の外形を無視してその本質を表現する爲である。自己を表現し對象に對する愛を表現するのは換言すれば人を牽引し人を感動させる對象の力を表現することである。此處には自己表現と對象の本質の表現との間に何の矛盾もない。自己表現の中に對象の精を壓迫する何のイゴイズムもない。私の非難の理由は此矛盾此壓迫此イゴイズムにあつて、對象の表現に即する自己表現を難ずる意味ではないのである。)

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