91話 三太郎の日記 2
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沈潛のこゝろを解せむと欲するものは、「神聖なる無意識」の前に跪くことを知らなければならぬ。
俺は偉大だぞと意識する者の中に、必ずしも「偉大」が存在するのではない。自己の偉大に對する意識が全然缺如する處に、必ずしも「偉大」が存在しないのではない。偉大と云ふ事實は、俺は弱小無力だと感ずる碎かれたる意識の底にも、猶存在しないとは限らないのである。眞正の偉大は無意識の底にあるので、意識の表面に浮草のやうに漂つてゐるのではない。偉大の意識は慾望の生むまぼろしとして、自己の眞相を覆ふ霧のやうに湧いて來ないとは限らないのである。意識と無意識との間に行はるゝ微妙なる協和不協和の消息を知らない者は、俺は偉大だと叫ぶ處に、本當に偉大があるのだと思つてゐる。さうして俺は偉大だぞと云ふ御題目の百萬遍を繰返すことによつて自己を偉大にし得ると妄信してゐる。併しこの御題目の功徳によつて顯現するものは唯萍のやうな偉大の意識であつて底から根を張つて來る偉大の事實ではない。意識と無意識との矛盾を解する者は、偉大の意識の中にも眞に侮蔑に堪へたる空虚と自己諂諛とを見る。さうして弱小無力の意識の底にも、涙を誘ふ純一と無邪氣との中にスク/\と延び行くいのちの尊さを看過しない。
私は刻々に推移する氣分の變化の、意識の把住力を超越し、意識の抗拒力を超越して、恣に出沒することを感ずる。私は私の心の奧に、或知られざるものゝ雲のやうに徂徠し、煙のやうに渦を卷いてゐることを感ずる。さうして私は私の心の底にある無意識の測り知る可からざる多樣のこゝろを思ふ。
私は逡巡を以つて始めたことの思ひがけぬ熱を帶びて燃えあがる驚きを經驗する。悲觀と萎縮との終局に、不思議なる力と勇氣とが待受けてゐて、窮窘の中にも新しい路を拓いて呉れることを經驗する。さうして私は意識の測定を超越する私の無意識の底力を思ふ。
私は又力の湧き立つ若干の日と夜とに、身も挫けよとばかり衝當る勢の、徒らに冷かなる扉によりてはね返される焦躁を經驗する。力の蓄積が缺乏を告げて、張りつめた勢が、空氣枕から空氣が拔け去るやうに音を立てゝ拔け去る刹那を經驗する。さうして私は意識の果敢なさと無意識の深さとのこゝろを思ふ。
又私は自ら努めず自ら求めざる無心の刹那に心の果實の思ひがけもなく熟して落つる響に驚かされる。無意識の中に行はれたる久しき準備と醗酵とが、天惠の如く突如として成熟せる喜びにいそ/\とする。さうして私の心は頻りに此無意識の讚美が一紙を隔てゝ運命と他力との信仰に隣することを思ひ、何時の日か迷妄の面が熱の落つるやうに落ち去る可きことを思ふ。
神聖なる無意識に跪くこゝろは、私に弱いものゝ前に遜ることを教へた。大らかに、ゆるやかに、深く、靜かに歩みを運ぶことの、喧噪しながら、焦躁しながら、他人の面上に唾を吐きかけながら、喚叫しながら、驅け出すよりも更に尊いことを教へた。それは又待ち望むことゝ、疲れたときに休むことゝ、力の拔けたときに怠けることゝ、巫山戲たい時に巫山戲ることゝ、結果と周圍とに無頓着に内面の聲に從ふなげやりの快さとを教へた。さうして私の心は此等の緊張と弛緩との幾層を通じて、不斷に或る人生の祕奧に牽引されることを感ずる。何處に往くかはわからない。何處まで行けるかもわからない。併し私の心に牽引されるちからの存在する限り、私は兎に角何ものかに沈潛するのである。さうして力盡きた時に破滅するのである。
私は自己の天分の強さと「成長」とを造次も忘れることの出來ない文士よりも、寧ろ貧苦の中にその妻子を愛護する農夫の間に、戀愛の熱に身を任せて行衞も知らぬ夢又夢の境を彷徨ひ行く少年男女の間に、遙かに眞率にして純一な、しめやかにして潤ひのあるいのちの響きを聽く。
生活の全局を蔽ふ深沈なる創造のいとなみに從ふ者は、固より困惑せる農夫と少年との無意識を以て滿足すべきではない。彼は無意識に伴ふ安詳にして鞏固なる意識を――明かに眞實を見る内省と、障碍と面爭してたじろがざる自信とを――持つ必要がある。併しいづれにしても無意識は君主にして意識は臣僕である。無意識の君主を蔑視するものは――「無意識」の神聖なる祭壇を蹂躪して我は顏をするものは、必ず神罰を蒙つて、眞實を視る眼と、人生を味ふ心と、實在に沈潛する力とを奪はれるに違ひない。