50話 八 二つの途 4
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求道者としての生活にとつて社會の子としての生活は無意義なるか。否、心を虚くして社會の與へるものを受けることは彼の内界を豐富にする。他人との接觸は彼に思ひもかけぬ内省と思索と鍛錬との機會を與へる。久しく社會と遠ざかることによつて、彼の材料は貧寒となり、彼の内界は稀薄となる。
求道者としての生活にとつて傳道者としての生活は無意義なるか。否、苟も持てる者はこれを與へることによつて初めて實證される。金を持てる者は金を與へ、食を持てる者は食を與へることによつて、彼は己れ自らの靈に何者かの與へられることを覺える。少しの眞理を持つ者はその少しの眞理を他人に傳へることによつて自らよりよくなる。此の如くにして傳道の生活は又その求道の生活に反映し來つてこれを強めるのである。
併し社會の子としての生活によつて提供されたる材料を把握し内化して、これを内界の建設に資するの生活は、社會の子としての生活ではなくて求道者としての生活である。自ら持てるものを與へるの努力によつて新たに開けて來た局面に思索と省察とを集中して更に新たなる眞理の獲得に向つて準備するは、傳道者としての生活にあらずして求道者としての生活である。
人の生涯には、社會の與ふる材料の餘りに豐富にして複雜なるが爲に、之に對する自己の統覺が餘りに混亂し餘りに表面に蔓延してゐることを感ずる時期がある。自己の中にあるものが要するに他人を救ふに足らざることを悟つて、痛切に力の缺乏を感ずる時期がある。此時彼は新しい印象を求めるよりも寧ろ新しい原理を求めずにはゐられない。此時彼はその接觸する人と物とを小さく限りて、此等の對象によりて提供される經驗に、惑溺して思ひを潛めずにはゐられない。時として彼は過去の經驗を記憶の中に携へて山林に退き、靜思と内省と苦行との中に日を送らなければならぬことさへある。これ比較的純粹なる求道者の生活形式である。
併し此の如くにして彼が修業三昧に耽る間にも、世界はその罪惡と慘苦とを以つて流轉を續けて行く。處女は汚されつゝある。貧しき者は飢に泣きつゝある。賤しき者は虐げられつゝある。此の如き事實に面して彼の心には自ら疑惑が湧いて來ない譯に行かない。自分の修業三昧は悲慘なる者を忘れたる私ではないのか。自分は一切を捨てて彼等の救濟に走らなければならないのではないのか。併し彼は痛憤に湧きかへりながらも否々と叫び出す。自分の使命は根本的の救ひを齎すことである。自己の中に根本的救濟の道を發見すること――これが自分に負はせられたる最大最切の義務である。自分は未だこの救ひの道を體認するに至らない。故に自分には未だ眞正の意味に於いて彼等を救ふ力がない。暫く余の修業三昧を許せ。自分は自分一個のみの救ひを求めてゐるのではない。自分は汝等のために汝等を救ふの途を求めても亦ゐるのである。此の如くにして彼は重い心を抱きながら、一層の強さを以つて――衆生の苦をも負ふが故に一層の強さを以つて――求道の生活に歸つて行く。さうして彼の財嚢の許す限りに於いて、彼の身邊に起る限りに於いて、彼の時間の許す限りに於いて、これやあれや偶然彼の途を横ぎる慘苦に援助の手を藉すことによつて、僅かにその苦しい心を慰める。さうして唇を噛んで、この慘苦と罪惡との根に斧を加へ得る日の來るのを待ちに待つてゐる。
釋尊は老病死苦を見て心の痛みに堪へなかつた。
併し彼はそのために醫者ともならず、政治家ともならず、又國庫を開いて救の事に專心することもせずに、衆生と人間とを痛む心を抱いて山に入つた。彼は世界苦の根が醫術と社會改良とを以つて除却するには餘りに深いことを認めてゐたからである。救濟は先づ自證の途によつて獲得されなければならぬことを知つてゐたからである。
併し自分は茲に至つて自ら嘲る者の聲に耳を傾けずにはゐられない。汝が今讀書や研究の生活を送つてゐられるのは、衆生苦に對する汝の感覺が鈍麻してゐるからではないのか。汝は果して世界の慘苦を救はむがために驅け出さうとする心を抑へ抑へしながら、張り詰めた心を以つて修業の生活を送つてゐるのか。一體に汝の修業に張詰めた心があるのか。自分はこの詰問に對して、自分にも衆生苦に對する相應の感覺はあると答へることが出來るかも知れない。自分は決して修業の努力を弛緩せる儘に放置して自ら甘んずるものではないと答へることが出來るかも知れない。併し此の如き微弱なる答辯は畢竟何するものぞ。自分の衆生苦に對する感覺は確かに鈍麻してゐるに違ひない。自分の修業慾は確かに弛緩してゐるに違ひない。若しさうでないとすれば、どうして自分のやうな呑氣な生活を送つてゐられるものぞ。自分は理想を負ふ者の謙遜を以つてこの詰問の前に首を垂れる。求道の生活を送る者にとつて最も戒むべきは洵に懶惰と利己との混入することである。自分は更に衆生苦に對する感覺を鋭敏にして、修業の慾望を掻き立てなければならない。併し、然らば今直ちに傳道の生活に赴けと云はれゝば、否々、如何に衆生苦を負ふも、今は雪山に入れる釋尊の心に習つて、忍んで自ら養はなければならないと自分は答へよう。
固より自ら養ふの途には限りがない。さうして持てるものを與へるのも亦自ら養ふ所以の一つである。人は何處に求道中心の生活と傳道中心の生活との區別を劃すべきか。それが自己の完成する日に非ざるは云ふまでもない。自己完成の日を待たば永劫に輪するも遂に傳道の生活に入ることを得ざるは云ふを須ゐざるところである。然らばその時期は何の時ぞ。内面生活のカーヴが急峻なる角度を描いて轉する事を眞實に感知する時。