72話 十四 一つの解釋 3
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此の如きは凡て繰返して云ふまでもない凡常の事實である。トルストイは果して此の如き凡常の事實を知らなかつたか。一見すればさう云ふより仕方がないやうに見える。併し自分はさうは思はない。自分の考へに從へば、トルストイは自分の認めたる一つの眞理を押し通すために、これと矛盾する、若しくは矛盾すると思惟せる諸説をすべて折伏したかつたのである。さうして無意識若しくは半意識的に、自分自身の上に最も痛切に歸つて來るやうな不利益な武器を用ゐたのである。現代の思想家中、トルストイほど自分一人の握つてゐる普遍的妥當性を主張した人が――主張することを喜んだ人が、他に幾人を數ふ可きであらう。
自分は茲に繰返して人口に膾炙せるトルストイの手紙の一節を引用する――「我等は相互に求め合ひて行く可きではない。我等は凡て神を求めなければならないのである。……貴君は云ふ、一緒にする方が容易であると――一緒にするとは、何を?勞働すること、刈入れをすることに於いては、然り。併し神に近づくことは――それは唯孤獨に於いてすることが出來るのみである。私は世界を一つの巨大なる殿堂と見る。其處には光が天上から、丁度その眞中に落つるのである。一致するためには、我等はみんな光の方へ行かなければならない。その時我等の凡ては、あらゆる方向から集つて來て、我等が搜し求めなかつた人達の群れの間に自分を發見するであらう。其處に悦びがあるのである。」――さうして神に於いて、神に於いてのみ凡てが一つになることを知つてゐた人が、本當に價値の標準を統計的多數決に置くが如きは決してあり得ざるところである。
彼は又その「藝術とは何ぞや」に於いて云ふ、「最高にして最善なる感覺の理解に對する障礙は、これも亦福音書に云はれてゐるやうに、決して發達や教養の缺乏にあるのではなくて、反對に、誤れる發達と誤れる教養とにあるのである」(第十章)と――果然、彼の嫌惡せるは多數の趣味と一致せぬ藝術ではなくて(固より多數に對する義務と云ふ點に就いて、「多數」は再び重要な問題となつて來るが、)その實偏局せる、人類の健全なる本能の頽廢せる藝術であつたのである。彼は彼の是認せる――多數決によらずして直ちに彼の心臟を以つて是認せる――藝術を民衆の間に見、飜りて所謂貴族的文學の間にその顛倒と墮落とを見た。同時にこの貴族的文學が傲然として最高最良の藝術を以つて自ら居る僭上を見た。故に彼はこの僭上を罰するに「多數」と一致せざることを以つてするのである。
トルストイが多數と一致せざる故を以つて擯斥する一切のものは、豫め彼自身の燃ゆるが如き心臟によつて端的に擯斥されたものである。さうして彼はこの擯斥を裝ふに「多數との不一致」を以つてするのである。若し彼自身の心臟の是認するものが「多數」と矛盾するならば、恐らくは彼は更に敢然として「多數」を排斥したであらう。
自分はトルストイの多數決主義を此の如くに解する。多數のための奉仕と多數なるが故の是認と――この二つを嚴密に區別することは、他の凡ての場合に於けると等しく、トルストイの眞意を汲むためにも亦必要である。(六、五、二五)