三太郎の日記 第三

74話 十五 思想上の民族主義 2

1,368字 約3分 2012年3月20日 公開

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 余は日本を愛する。

 余が日本を愛するのは、凡ての人を愛するのが、余の義務であるからばかりではない。余は余の自然的素質の故に、血族的親近の故に、世界の中でも特に日本を愛せずにはゐられないのである。余は日本の文物に對するとき、故郷に歸れる者の親しさと悲しさと心安さとを感ぜざるを得ない。我等が萬葉を讀み芭蕉を讀むとき、法隆寺や藥師寺を訪ふとき、古土佐や光悦や宗達や光琳の繪畫を見るとき、又弄齋や富本や端唄を聽くとき、最後に日本の衣服を着て日本の疊の上に安座するとき、如何に我等自身のエレメントにゐることを感ずるであらう。更に我等は將來に渉つても、此等の文物を保護し發展せしめむとする、特殊なる負荷と憧憬との感情を抱き、特殊なる強さを以つて日本の文化に貢獻せむとする欲望を感ぜずにはゐられないのである。單に外面的政治的關係に於いてこれを見るも、日本が外國と戰ふとき、我等は反射的本能を以つて日本の勝利を切望し、日本人が外國に於いて虐待せらるる事實を聞くとき、同樣の本能的感情を以つて、日本人の世界的地位の低きを憤慨する。若し外國の軍隊が我國に侵入して、我等の老幼を虐殺し、我等の姉妹を姦淫するならば、余は如何に自ら抑制するも、到底銃を執つて立たずにはゐられないであらう。余が日本を愛するは、動物のその子を愛護するが如き自然的衝動に基いてゐるのである。

 併し何故にこの自然的衝動に從ふことは正當であるか。あらゆる場合にこの自然的衝動に從つてのみ行動するのは、要するに民族の利己主義と呼ばる可きものではないのか。凡ての個人が他人の權利を認容し、他人を愛す可き義務を負ふが如く、凡ての民族も亦他の民族を愛し、他の民族の權利を認容す可き義務を負うてゐるのではないか。我等に正當防禦の權利があると同時に、如何なる意味に於いても他を侵害せざるの義務も亦我等に負はされてゐるのではないか。自己の中に起る不正なる意志と戰ふが如く、民族の不正なる意志と戰ふことも亦我等の人類と民族とに對して負ふ義務ではないのか――凡てこれ等の「ある可きこと」に關する問題は、單に民族を愛する自然的衝動が存在すると云ふ事實によつては何の答へられるところもない。

 又自家の文化を愛す可きが、自家の文物に愛着する自然的衝動によつて直ちに與へられてゐると云うことも亦出來ない。我等が成心を捨てて外國の文物を研究するとき、我等は其處に、我等の缺陷を補足するが故に特に我等にとつて切要なるもの、我等に親しからざるが故に特に我等を高むる力あるもの、我等の文物よりも更に深く「人」の本質に肉薄して、我等の文化の將來に於ける發展を指導し得るが如きものの多くに逢着する。此の如き場合に於いては、寧ろ我等の自然的衝動に逆つて外國の文化を研究すること、外國の文物に對する愛情を開拓することが、却つて眞正に我等の文化を愛する途ではないか。過去の文物に愛着する心安さに甘んずるとき、我等は却つて將來に於ける文化の發展を害することはあり得ないか。一切の眞正なる進歩に於て見るが如く、過去を嫌惡することが、却つて現在と將來とを愛する心の發現であるやうな場合は存在し得ないか――凡て此の如き自國を愛するのに關する問題も、自家の文物に執着するといふ自然的事實によつては、何の答へられるところがないのである。

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