故郷七十年

1話 故郷を離れたころ 故郷を離れたころ

1,312字 約3分 2018年7月31日 公開

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 故郷というものは、五十年が行きどまりだと、かねがね思っていたが、私が次兄(井上通泰(みちやす))に伴われて故郷兵庫県神東(じんどう)郡田原村辻川(現神崎郡福崎町辻川)を離れてから、今年でもう七十一年になる。

 故郷というものは、伯父や従兄弟など、そういった人々があってこそ温い所なのだが、私の両親は兄弟のない人だったし、せいぜい故郷には次兄の養家先がある程度。そこも帰郷して訪れるには億劫なところであり、一年ほど預けられたことのある辻川の三木拙二氏の宅にゆく以外にない。その家も世の中の変遷に会って寂しい生活になっているので、行って慰めたいとは思いながらも、なかなか訪れにくいといった状態にあるのだから、なみの人の故郷と私の場合とは余程違ったものがある。あるいはまた、そのためにとくにいつまでも、故郷がなつかしいのかもしれない。

 ともかくも七十年以上、時々は思い出した端々を人に話すことができるというのは、我ながら珍しい。しかもその間の故郷は、今際限もなく変ってゆこうとしているのである。何をいうかわからぬが、聞く人さえあれば、じつはしゃべってみたかった。

 次兄に伴われて東京へ出たころはまだ東海道線が開通していなかった。神戸から船に乗る以外、方法のなかったころである。その二年後、両親や弟たちが後を追ってやって来たときは、東海道線を汽車で上京している。

 いまでも私が思い出すのは、北条から人力車にのって神戸へ出てくる途中の明石あたりでの光景である。北条を発ったのは明治二十年八月であった。明石を通りすぎる時、幼いころからこの地名はよく聞いていたから非常に興味をもって四囲の風物をながめていたのだが、そこで西洋人が海水浴というものをやっていた。女が裸になってサルマタのようなものをつけて海に入ってゆく。「これが海水浴というものか」と、私ははじめて強い印象を与えられた。その時は、淡路を眺めるのがおろそかになったほどの強い印象であった。

 それから後も、たびたびそこへは降り立ったり、汽車の窓から見て過ぎたのだが、その時にくらべると、もっと昔風に思えたものである。つまり、最も新しい明石を、その時に見たわけで、明石といえば、いつまでも海水浴と結びついて思い出される。

 車はやがて兵庫の町に入り、さびれてゆく町並を過ぎ、神戸の港に面した、当時最高級といわれた――西村屋だったろうか――宿屋に泊った。いまもそのたたずまいがくっきりと目に浮ぶようだが、よくどこの港町にもあるような普通の手摺つきの表二階の家で、縁側も雨戸もかっこうの宿屋だった。海岸は草土堤になっており、石垣は築いてあったが、上の方は芝生で、草も生えていたように記憶する。

 今のメリケン波止場の辺かと思うが、そこからハシケの出る桟橋がつき出て、はるか沖の方に船がかかっていた。たしかそれは日清戦争にも働いた「山城丸」で、二千三百トンだった。「二千トン以上の船にのるのだ」という誇りめいた興奮から、船に乗りこんでも、船酔いどころかすべてが珍しく、よく眠れないほどで、立入禁止区域に入っては一等船室の西洋人をのぞき見したり、すべてが意外のことばかりであった。これが私の世の中を見たはじめであった。

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