故郷七十年

15話 布川時代 最初の文章

1,257字 約3分 2018年7月31日 公開

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 私が布川や布佐にいる間に、利根の川筋はどんどん変ってきた。白帆をかけた川船が減って、川蒸汽がずんずん通るようになってきた。川船は昔は米運びをして関宿まで上ったものだった。ずいぶんえらい話で、銚子からだと二十五里はあるだろう。関宿まで上ってから、今度は江戸川へ入ってそれを下り、市川の近くまで来てそれで横堀に入り、隅田川につながるというわけだった。

 ところが川蒸汽が出来たので、上へ行ってから下へ戻って来るのが馬鹿げているものだから、利根川と江戸川との近よった三角の狭い所に切り通しを作って、往復できるようにしたが、十分に利用できるまでにならなかった。私はそのコースを通って東京に出て来たのである。利根川も江戸川も、両方とも外輪船がその運河の近くまで来て停ってしまう。お客は土手の上を一里あまり歩いて連絡し、向う側に待っている川蒸汽にのるというわけであった。そうこうしているうちに汽車が出来て問題はなくなったが、この利根川の川蒸汽というのはおかしなものであった。

「利根の夜船」という文章を書いて『帝国文学』にのせたが、あれはたしか私の文章を発表した初めであろう。その前に、鴎外や次兄通泰などの『しがらみ草紙』に書いた時はまだ十四、五歳であったが、「秋元安民伝」といって、姫路いちばんの歌人の伝記とそれに自作の歌を出したと思う。その時は父がちょっと手を加えてくれてあった。

 私の幼い時書いたもので一つだけ奇抜な、文学的なものがある。姫路のお城の話で、父から聞いて非常に感動させられたものである。それをあのころ行われていた雅文体にして書いたもので、原本は見当らないが、こんな話であった。

 姫路のお城の中にある松の木に鶴が一番(つがい)巣を作っていた。よく見ると一羽の鶴が病気になってちっとも動かない。それは雌鶴らしく、もう一羽の雄鶴らしいのが度々巣を出て行っては帰り、帰りしていたが、そのうちいつの間にか、とうとう出て行ったきり帰って来なかった。「やっぱり鳥なんていうものは仕様がないものだ、いくら仲が好くても……」こんなことを人々はいっていたそうだ。ところが残ってねていた雌らしい方が木から落ちて死んでしまった。と、その後へもう一羽の鶴が帰って来た。そして巣に雌鶴がいないので大きな声で啼いたというのだ。そして口から何かを下の方へ、落してしまった。それを誰かが拾ってみたら朝鮮人蔘だったという、悲しい物語であった。

 何だかあまりよく出来すぎた話だけれども、非常に感激して歌を詠んだのをよく憶えている。十五歳の時の歌で、

いく薬求めし甲斐もなかりけり常盤の島を往き来りつつ

というのであった。「いく薬」という言葉はよくあるが、つまり活く薬、すなわち良薬のことである。その歌が賞に入って、これはいい歌だなんていわれたのが嬉しかったので、物語も書いたものらしい。これがおそらく私のいちばん早い文章だったかと思う。

 あんな話は嘘だと思うが、私は姫路にいなかったにかかわらず、そういう話をたくさん聞いていた。鶴の話は父から聞いたように思う。

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