34話 辻川の話 父の熊川舎塾監時代
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父が姫路の元塩町にあった熊川舎に迎えられて塾監になっていたころが、母としても最も盛んなときであった。町の旧家の人達が、藩の許しを得て金を出し合って作った学校で、町家の子弟に漢学の手ほどきを教えたのである。
母の話によると、そこは山陽道の中央街道の上に当っていたので、大勢の人が紹介状などを持ってきたそうである。塾監としては父が最後の人であった。維新の改革でつぶれてしまったが、その後どうなったであろうか。あの歴史が判ると面白いが、もう知っている人はなかろう。いちばん大きな保護者は国府寺という資産家で、辻川の三木拙二翁の母君の出た家であった。
父は自分の育てた弟子のうち、二人をよく自慢にしていた。一人はその国府寺家の新作という人で、後に外交官になった人である。外交官に似合わぬ非社交的な人であった。男の子がなく、女の子が一人あって、奥山君という越後か山形の出身の外交官に嫁いでいた。フランスの大使館参事官まで行ったかと思う。辻川へも時々行ったことがあるらしく、フランスでいっしょになった時も「三木の叔母が、貴方の話をよくしておりますよ」などといっていた。国府寺家は大変な旧家で、姫路の初期からの旧家ともいうべき家であった。苗字帯刀御免で、大きな役をしていたが、この家が発起人となって、何人かの有力な同志を誘って早くから町学校を建てていたわけである。
もう一人、父の自慢にしていたお弟子は佐治実然氏であった。日本の仏教を改良しようとした人である。
父の俸給は米八石であったか八俵であったか、何でも八の字のつく額を受取りに行くのに、米八俵と書くのに、米の字を上にはねて書いてゆくと、それは違う、やはり御家流に米の字はこう下に曲げて書かなければいけないといって突き返されたそうである。ずいぶん窮屈だったねえと、父が笑い話にそういっていたことがある。わずかばかりでも俸給をもらっていたことが判る。
維新とともに学舎はなくなったが、両親が明治何年頃まで姫路にいたのか、私はよく知らない。どうかして姫路の教育史の中から熊川舎の結末が知りたいと思っている。
長兄の鼎は辻川で生れて姫路へ連れられたわけだが、父の姫路時代に二番目の俊次が生まれ、ついで三番目の泰蔵(後の井上通泰)が慶応二年十二月二十一日に、それから四男の芳江が生まれている。五男の友治というのは、私の直ぐの兄で、明治四年に辻川で生れ、四つまで生きていて私の生れる前に死んだ。この兄の生れた時には、両親はもう辻川に帰っていたことが判る。
母は熊川舎で書生の面倒を見ていたので、躾はなかなか厳しかった。父の方はそういうことをいっこうかまわないたちであった。