薄紅梅

1話 薄紅梅(1)

7,732字 約15分 2008年11月22日 公開

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       一

 麹町(こうじまち)九段――中坂(なかざか)は、武蔵鐙(むさしあぶみ)江戸砂子(えどすなご)惣鹿子(そうかのこ)等によれば、いや、そんな事はどうでもいい。このあたりこそ、明治時代文芸発程の名地である。かつて文壇の梁山泊(りょうざんぱく)と称えられた硯友社(けんゆうしゃ)、その星座の各員が陣を構え、塞頭(さいとう)高らかに、我楽多文庫(がらくたぶんこ)の旗を(ひるがえ)した、編輯所(へんしゅうじょ)があって、心織筆耕の花を咲かせ、(あや)なす霞を靉靆(たなび)かせた。

 若手の作者よ、小説家よ!……天晴(あっぱ)れ、と一つ(あお)いでやろうと、扇子を片手に、当時文界の老将軍――佐久良(さくら)藩の碩儒(せきじゅ)で、むかし江戸のお留守居と聞けば、武辺、文道、両達の依田(よだ)学海翁が、(ある)夏土用の日盛(ひざかり)の事……生平(きびら)の揚羽蝶の漆紋に、(はかま)着用、大刀がわりの杖を片手に、芝居の意休を一ゆがきして洒然(さっぱり)灰汁(あく)を抜いたような、白い(ひげ)を、(さわやか)(しご)きながら、これ、はじめての見参。……

「頼む。」

 があいにく玄関も何もない。扇を腰に、がたがたと格子を開けると、汚い二階家の、上も下も、がらんとして、ジイと、ただ、招魂社辺の蝉の声が遠く沁込(しみこ)む、明放しの三間ばかり。人影も見えないのは、演義三国誌常套手段(おきまり)の、城門に敵を(あざむ)く計略。そこは先生、武辺者だから、身構えしつつ、土間取附(とっつき)の急な階子段(はしごだん)(きっ)と仰いで、大音に、

「頼もう!」

 人の気勢(けはい)もない。

「頼もう。」

 途端に奇なる声あり。

「ダカレケダカ、ダカレケダカ。」

 その(おん)、まことに不気味にして、化猫が、抱かれたい、抱かれたい、と天井裏で鳴くように聞える。坂下の酒屋の小僧なら、そのまま腰を抜かす処を、学海先生、杖の手に気を入れて、再び大音に、

「頼む。」

「ダカレケダカ、と云ってるじゃあないか。へん、野暮め。」

「頼もう。」

「そいつも、一つ、タカノコモコ、と願いたいよ。……何しろ、米八(よねはち)仇吉(あだきち)の声じゃないな。彼女等(きゃつら)には梅柳というのが(しゅん)だ。夏やせをする(たち)だから、今頃は出あるかねえ。」

「頼むと申す……」

「何ものだ。」

 と、いきなり段の口へ、青天の雷神(かみなり)()めったように這身(はいみ)で大きな頭を出したのは、虎の皮でない、木綿越中の素裸(すっぱだか)――ちょっと今時の夫人、令嬢がたのために註しよう――唄に……

……どうすりゃ添われる縁じゃやら、じれったいね……

 というのがある。――恋は思案のほか――という折紙附の格言がある。よってもって、自から称した、すなわちこれ、自劣亭(じれってい)思案外史である。大学中途の秀才にして、のぼせを下げる三分刈の巨頭は、入道の名に(うた)われ、かつは、硯友社の彦左衛門、と自から任じ、人も許して、夜討朝駆に寸分の油断のない、血気(ざかり)の早具足なのが、昼寝時の不意討に、蠅叩(はえたたき)もとりあえず、ひたと向合った下土間の白い髯を、あべこべに、炎天九十度の物干から、僧正坊が(のぞ)いたか、と驚いた、という話がある。

       二

 おなじ人が、金三円ばかりなり、我楽多文庫売上の暮近い集金の天保銭……世に当百ときこえた、小判形が集まったのを、引攫(ひっさら)って、目ざす吉原、全盛の北の(くるわ)へ討入るのに、(しころ)の数ではないけれども、十枚で八銭だから、員数およそ四百枚、(たもと)懐中(ふところ)、こいつは持てない。辻俥(つじぐるま)蹴込(けこみ)へ、ドンと積んで、山塞(さんさい)の中坂を乗下ろし、三崎(ちょう)の原を切って、水道橋から壱岐殿坂(いきどのざか)へ、ありゃありゃと、俥夫(くるまや)と矢声を合わせ、切通(きりどおし)あたりになると、社中随一のハイカラで、鼻めがねを掛けている、(ちゅう)山高、洋服の小説家に、天保銭の(はね)が生えた、緡束(さしたば)を両手に、二筋振って、きおいで左右へ(さば)いた形は、空を飛んで()けるがごとし。不忍池(しのばずのいけ)を左に、三枚橋、山下、入谷(いりや)を一のしに、土手へ飛んだ。……当時の事の趣も、ほうけた鼓草(たんぽぽ)のように、散って、残っている。

 近頃の新聞の三面、連日に、偸盗(ちゅうとう)邪淫(じゃいん)、殺傷の記事を読む方々に、こんな事は、話どころか、夢だとも思われまい。時世は移った。……

 ところで、天保銭吉原の飛行(ひぎょう)より、時代はずっと新しい。――ここへ点出しようというのは、(くだん)の中坂下から、飯田町(どおり)を、三崎町の原へ大斜めに()く場所である。が、あの辺は家々の庭背戸が相応に広く、板塀、裏木戸、生垣の幾曲り、で、根岸の里の雪の()の花、水の紫陽花(あじさい)の風情はないが、木瓜(ぼけ)、山吹の覗かれる窪地の屋敷町で、そのどこからも、駿河台(するがだい)の濃い樹立の下に、和仏英女学校というのの壁の色が、(こがらし)の吹く日も、暖かそうに霞んで見えて、裏表、露地の処々(ところどころ)から、三崎座の女芝居の景気(のぼり)が、(あかね)浅黄(あさぎ)、青く、白く、また曇ったり、濁ったり、その日の天気、時々の空の色に、ひらひらと風次第に(なび)くが見えたし、場処によると――あすこがもう水道橋――三崎稲荷(いなり)の朱の鳥居が、物干場の草原だの、浅蜊(あさり)(しじみ)の貝殻の棄てたも交る、空地を通して、その名の岬に立ったように、土手の松に並んで見通された。

 ……と見て通ると、すぐもう広い原で、屋敷町の屋敷を離れた、家並(やなみ)になる。まだ、ほんの新開地で。

 そこいらに、小川という写真屋の西洋館が一つ目立った。隣地の町角に、平屋(だて)の小料理屋の、夏は氷店(こおりみせ)になりそうなのがあるのと、通りを隔てた一方の角の二階屋に、お泊宿の軒行燈(のきあんどん)が見える。

 お泊宿から、水道橋の方へ軒続きの長屋の中に、小さな貸本屋の店があって……お伽堂(とぎどう)……びら同然の(ざつ)な額が掛けてある。

 お伽堂――少々気になる。なぜというに、仕入ものの、おとしの浅い箱火鉢の前に、二十六七の、色白で、ぽっとりした……生際はちっと薄いが、桃色の手柄の丸髷(まるまげ)で、何だか、はれぼったい、(まぶた)をほんのりと、ほかほかする小春日の日当りに表を張って、客欲しそうに坐っているから。……

 羽織も、着ものも、おさすりらしいが、(やわらか)ずくめで、前垂(まえだれ)の膝も、しんなりと(やわらか)い。……その癖半襟を、(あご)()すばかり包ましく、胸の紐の結びめの深い陰から、色めく浅黄の背負上(しょいあげ)が流れたようにこぼれている。解けば濡れますが、はい、身はかたく()めて包んで置きます、といった風容(ふう)。……これを少々気にしたが悪いだろうか……お伽堂の店番を。

       三

 何、別に仔細(しさい)はない。客引に使った中年増でもなければ、手軽な(めかけ)が世間体を繕っているのでもない。お伽堂というのは、この女房の名の、おときをちょっと(なま)ったので。――勿論亭主の好みである。

 つい近頃、北陸の城下町から稼ぎに出て来た。商売往来の中でも、横町へそれた貸本屋だが、亭主が、いや、役人上りだから主人といおう、県庁に勤めた頃、一切猟具を用いず、むずと羽掻(はがい)をしめて、年紀(とし)は娘にしていい、甘温、脆膏(ぜいこう)胸白(むなじろ)のこの(かも)を貪食した果報ものである、と聞く。が、いささか果報焼けの気味で内臓を損じた。勤労に堪えない。静養かたがた女で間に合う家業でつないで、そのうち一株ありつく算段で、お伽堂の額を掛けたのだそうである。

 開業当初(のっけ)に、僥倖(ぎょうこう)にも、素晴らしい利得(もうけ)があった。

「こちらじゃ貸すばかりで、買わないですか。」

 学生が一人、のっそり立ち、洋書を五六冊引抱(ひんだ)いて突立(つッた)ったものである。

「は、おいで遊ばしまし。」

 と、丁寧に、三指もどきのお辞儀をして、

「あの、もしえ。」

 と初々(ういうい)しいほど細い声を掛けると、茶の間の悪く暗い戸棚の前で、その何かしら――内臓病者補壮の食はまだ考えない、むぐむぐ頬張っていた士族(はげ)胡麻塩(ごましお)で、ぶくりと黄色い大面(おおづら)のちょんびり眉が、女房の古らしい、汚れた(ハンケチ)を首に巻いたのが、鼠色の兵子帯(へこおび)で、ヌーと出ると、(ひね)っても(ねじ)っても、(めじり)と一所に垂れ下る髯の尖端(とっさき)を、グイと()み、

「おいでい。」

 と太い声で、右の洋冊(ようしょ)を横縦に。その鉄壺眼(かなつぼまなこ)で……無論読めない。貫目を引きつつ、膝のめりやすを溢出(はみだ)させて、

「まるで、こりゃ値になりませんぞ。」

 原著者は驚いたろう。

「しかし買うとして、いくらですか。」

 ――途方もない値をつけた。つけられた方は、呆れるより、いきなり(なぐ)るべき蹴倒し方だったが、(かたわら)に、ほんのりしている丸髷(まげ)ゆえか、主人の錆びた(びょう)のような眼色(めつき)恐怖(おそれ)をなしたか、気の毒な学生は、端銭(はした)衣兜(かくし)捻込(ねじこ)んだ。――三日目に、仕入の約二十倍に売れたという

 味をしめて、古本を買込むので、床板を張出して、貸本のほかに、その(あきない)をはじめたのはいいとして、手馴(てな)れぬ事の悲しさは、花客(とくい)のほかに、掻払(かっぱら)い抜取りの外道(げどう)があるのに心づかない。毎日のように(さら)われる。一度の、どか利得(もうけ)が大穴になって、丸髷だけでは店が危い。つい台所用に女房が立ったあとへは、鋲の目が出て髯を揉むと、「高利貸(あいす)が居るぜ。」とか云って、貸本の素見(ひやかし)までが遠ざかる。当り触り、世渡(よわたり)(むず)かしい。が近頃では、女房も見張りに馴れたし、亭主も段々古本市だの場末の同業を狙って、掘出しに精々出あるく。

 ――()い天気の、この日も、午飯(ひる)すぎると、日向(ひなた)に古足袋の(ほこり)を立てて店を出たが、ひょこりと軒下へ、あと戻り。

「忘れものですか。」

「うふふ、丸髷(まげ)ども、よう出来たたい。」

「いやらし。」

 と顔をそらしながら、若い女房の、犠牲(いけにえ)らしいあわれな(こび)で、わざと濡色の(たぼ)を見せる。

「うふふ。」と鳥打帽の(こうべ)(すく)めて、少し猫背で、水道橋の方へ出向いたあとで。……

       四

 遅い午餉(ひる)だったから、もう二時下り。亭主の出たあと、女房は(ぜん)の上で温茶(ぬるちゃ)を含んで、干ものの残りに皿をかぶせ、余った煮豆に(ふた)をして、あと片附は晩飯(ばん)と一所。で、拭布(ふきん)を掛けたなり台所へ突出すと、押入続きに腰窓が低い、上の棚に立掛けた小さな姿見で、顔を映して、襟を、もう一息掻合わせ、ちょっと縮れて癖はあるが、髪結(かみゆい)も世辞ばかりでない、似合った丸髷(まるまげ)で、さて店へ出た段取だったが……

 ――遠くの橋を牛車(うしぐるま)でも通るように、かたんかたんと、三崎座の昼芝居の、つけを打つのが合間に聞え、(はやし)の音がシャラシャラと路地裏の大溝(おおどぶ)へ響く。……

 裏長屋のかみさんが、三河島の菜漬を目笊(めざる)で買いに出るにはまだ早い。そういえば裁縫(おはり)の師匠の内の小女(こおんな)が、たったいま一軒隣の芋屋から前垂(まえだれ)で盆を包んで、裏へ入ったきり、日和のおもてに人通りがほとんどない。

 真向うは空地だし、町中は原のなごりをそのまま、窪地のあちこちには、草生(くさはえ)がむらむらと、尾花は見えぬが、猫じゃらしが、小糠虫(こぬかむし)を、穂でじゃれて、逃水ならぬ日脚(ひあし)(ながれ)が暖く(よど)んでいる。

 例の写真館と隣合う、向う(ななめ)の小料理屋の小座敷の庭が、破れた生垣を透いて、うら枯れた朝顔の鉢が五つ六つ、中には転ったのもあって、葉がもう黒く、鶏頭ばかり根の土にまで日当りの色を染めた空を、スッスッと赤蜻蛉(あかとんぼ)が飛んでいる。軒前(のきさき)に、不精たらしい釣荵(つりしのぶ)がまだ(かか)って、露も玉も干乾(ひから)びて、蛙の干物のようなのが、化けて歌でも詠みはしないか、赤い短冊がついていて、しばしば雨風を(くら)ったと見え、摺切(すりき)れ加減に、小さくなったのが、フトこっち向に、舌を出した形に見える。……ふざけて、とぼけて、その癖何だか小憎らしい。

 立寄る客なく、通りも途絶えた所在なさに、何心なく、じっと見た若い女房が、遠く向うから、その舌で、頬を触るように思われたので、むずむずして、顔を振ると、短冊が軽く揺れる。(あご)で突きやると、向うへ動き、襟を引くと、ふわふわと襟へついて来る。……

「……まあ……」

 二三度やって見ると、どうも、顔の動くとおりに動く。

 頬のあたりがうそ(がゆ)い……女房は(くすぐった)くなったのである。

 袖で頬をこすって、

「いやね。」

 ツイと横を向きながら、おかしく、流盻(ながしめ)(そっ)()くと、今度は、短冊の方から(あご)でしゃくる。顎ではない、舌である。細く長いその舌である。

 いかに、短冊としては、詩歌に俳句に、繍口錦心(しゅうこうきんしん)の節を持すべきが、かくて、品性を堕落し、威容を失墜したのである。

 が、じれったそうな女房は、上気した顔を向け直して、あれ(しょう)の、少し乾いた唇でなぶるうち――どうせ亭主にうしろ向きに、今も(まげ)()められた時に出した舌だ――すぼめ口に吸って、濡々と(くち)した。

 ――こういう時は、南京豆ほどの魔が(おど)るものと見える。――

 パッと消えるようであった、日の光に濃く白かった写真館の二階の硝子窓(がらすまど)を開けて、青黒い顔の長い男が、中折帽を(かぶ)ったまま、戸外(おもて)へ口をあけて、ぺろりと唇を()めたのとほとんど同時であったから、窓と、店とで思わず舌の合った形になる。

 女房は真うつむけに突伏(つッぷ)した、と思うと、ついと立って、茶の間へ()げた。着崩れがしたと見え、(つま)(よじ)れて足くびが白く出た。

       五

「ごめんなさい。」

 返事を、引込(ひっこ)めた舌の(さき)で丸めて、(だんま)りのまま、若い女房が、すぐ店へ出ると……文金の高島田、銀の平打(ひらうち)高彫(たかぼり)菊簪(きくかんざし)。十九ばかりの品のあるお嬢さんが、しっとり寂しいほど、着痩(きや)せのした、(しま)お召に、ゆうぜんの襲着(かさねぎ)して、藍地(あいじ)糸錦の丸帯。(ひわ)(くち)がちょっと触っても(かすか)菫色(すみれいろ)(あざ)になりそうな白玉椿の清らかに優しい片頬を、水紅色(ときいろ)の絹(ハンケチ)でおさえたが、(かつ)桔梗(ききょう)紫に雁金(かりがね)を銀で刺繍(ぬいとり)した半襟で、妙齢(としごろ)の髪の(つや)に月の影の冴えを見せ、うつむき加減の(あぎと)の雪。雪のすぐあとへは惜しいほど、黒塗の吾妻下駄(あずまげた)で、軒かげに(ななめ)に立った。

 実は、コトコトとその駒下駄の音を立てて店前(みせさき)へ近づくのに、(ほっそ)(さば)いた褄から、山茶花(さざんか)の模様のちらちらと咲くのが、早く茶の間口から若い女房の目には映ったのであった。

 作者が――()いたくないことだけれど、その……年暮(くれ)の稼ぎに、ここに働いている時も、昼すぎ三時頃――、ちょうど、小雨の晴れた薄靄(うすもや)に包まれて、向う(やしき)(あか)い山茶花が(のぞ)かれる、銀杏(いちょう)の葉の真黄色(まっきいろ)なのが、ひらひらと散って来る、お嬢さんの肌についた、ゆうぜんさながらの風情も可懐(なつか)しい、として、文金だの、平打だの、見惚(みと)れたように呆然(ぽかん)として、現在の三崎町…あの辺町(あたり)の様子を、まるで忘れていたのでは、相済むまい。

 ――場所によると、震災後の、まだ焼原(やけのはら)同然で、この貸本屋の裏の溝が流れ込んだ(はず)の横川などは跡も見えない。古跡のつもりで、あらかじめ一度見て歩行(ある)いた。ひょろひょろものの作者ごときは、外套(がいとう)を着た蟻のようで、電車と自動車が大昆虫のごとく跳梁奔馳(ちょうりょうほんち)する。瓦礫(がれき)烟塵(えんじん)、混濁の(ちまた)に面した、その中へ、小春の陽炎(かげろう)とともに、貸本屋の店頭(みせさき)へ、こうした娘姿を映出すのは――何とか区、何とか町、何とか様ア――と、大入の劇場から女の声の拡声器で、木戸口へ呼出すように楽には()かない。なかなかもって、アテナ洋墨(インキ)や、日用品の唐墨の、筆、ペンなどでは追っつきそうに思われぬ。彫るにも刻むにも、(すき)(くわ)だ。

 さあ、持って来い、鋤と鍬だ。

 これだと、勢い汗(あぶら)の力作とかいう事にもなって、外聞が()い。第一、時節がら一般の気うけが()かろう。

 鋤と鍬だ、と痩腕で、たちまち息ぜわしく、つい汗になる処から――山はもう雪だというのに、この第一回には、素裸の思案入道殿をさえ煩わした。

 が、再び思うに、むやみと得物(えもの)を振廻しては、()れない事なり、耕耘(こううん)の武器で、文金に怪我をさせそうで危かしい。

 また(ひるがえ)って、お嬢さんの出のあたりは――何をいうのだ――かながきの筆で()く。

「あの……此店(こちら)に……」

 若い女房が顔を見ると、いま小刻みに、長襦袢(ながじゅばん)の色か、下着の褄か、はらはらと散りつつ急いで入った、息づかいが胸に動いて、頬の(ハンケチ)が少し揺れて、

「辻町、糸七の――『たそがれ』――というのがおありになって。」

 と云った。

「おいで遊ばせ。」

 と若い女房、おくれ()せの挨拶をゆっくりして、

「ございますの。……ですけれど、(まとま)りました一冊本ではありません……あの、雑誌の中に交って出ていますのでして。」

「ええ、そうですよ。」

 と水紅色の半がまたゆれる。

       六

「ちょいちょい、お借り下さる方がございまして、よく出ますから。……唯今(ただいま)見ますけれど。」

 女房は片膝立ちに腰を浮かしながら能書(のうがき)をいう。

「……私も読みたい読みたいと存じながら、商売もので、つい慾張(よくば)りまして、ほほほ、お貸し申します方が先へ立ちますけれど。……何ですか、お女郎の心中ものだとか申しますのね。」

「そうですって。……『たそがれ』……というのが、その娼妓(しょうぎ)――遊女(おいらん)の名だって事です。」

 と、(りん)とした(まなじり)の目もきっぱりと言った。簪の白菊も冷いばかり、清く澄んだ頬が白い。心中にも女郎にも驚いた容子(ようす)が見えぬ。もっともこのくらいな事を気にしては、清元も、長唄も、文句だって読めなかろうし、早い話が芝居の軒も(くぐ)れまい。が、うっかり小説の筋を()らして、面と向ったから、女房が却って(まぶた)を染めた。

 棚から一冊抜取ると、坐り直して、売りものに花だろう、前垂に据えて、その縮緬(ちりめん)(しま)でない、厚紙の表紙を()でた。

「どうぞ、お掛けなさいまして、まあ、どうぞ。」

 はなからその気であったらしい、お嬢さんは(かまち)へ掛けるのを猶予(ためら)わなかった。帯の錦は(たか)い、が、膝もすんなりと、着流しの肩が細い。

「ちょうどいい処で、あの、ゆうべお客様から返ったばかりでございますの。それも書生さんや、職人衆からではございませんの。」

 娘客の白い指の、指環(ゆびわ)を捜すように目で追って、

「中坂下からいらっしゃいます、紫鹿子(かのこ)のふっさりした、結綿(ゆいわた)のお娘ご、召した黄八丈なぞ、それがようお似合いなさいます。それで、お(はかま)で、すぐお茶の水の学生さんなんでございますって。」

「その方。……」

 女房の膝の方へは手も出さず、お嬢さんは、しとやかに、

「その作者が、贔屓(ひいき)?」

 と莞爾(にっこり)した。

 辻町糸七、よく聞けよ。

「は?……」

 貸本屋の客には今までほとんど例のない、ものの言葉に、一度聞返して、合点(のみこ)んで、

「別にそうと限ったわけではございません。何でもよくお読みになりますの。でも、その、ゆうべおいでなさいました時、「たそがれ。――いいのね。」とおっしゃいます。……晩方でございましょう。変に暗くて気味が悪し、心細し、といいますうちにも、立込みまして、(せわ)しくって不可(いけ)ませんと申しましたら、お笑いなさいましたんでございます。長屋世帯はすぐそれですから、ほほほ。小説の題の事だったのでございますもの。大好きな女の名でいらっしゃるんですって。……田舎源氏、とかにもありますそうです。その時、京の五条とか三条あたりとかの暮方の、草の垣根に、雪白な花の、あわれに咲いたお話をききましたら、そのいやな入相(いりあい)が、ほんのりと、夕顔ほどに明るく、白くなりましてございましてね。」

 女房は、ふと気がさしたか、町通りの向う角へ顔を向けた、短冊の舌は知らん顔で、鶏頭が笑っている。写真館の硝子窓は(しずか)に白い日を吸って。……

「……古寺の事もうかがいました。清元にございますってね。……ところどころ、あの、ほんとうに身に()みますようですから、そのお娘ごにおねだりして、少しばかり、巻紙の端へ。――あ、そうそう、この本の中へ挟んで、――まあ、いい事をいたしました。大事に(しま)って置こうと存じながら、つい、うっかりして、まあ、勿体ないこと。」

 と、軽く前髪へあてたのである。念のため『たそがれ』の作者に言おう。これは糸七を頂いたのでは決してない。……

       七

「拝見な。」

「は、どうぞ。」

 雑誌に(かぶ)せた表紙の上へ、巻紙を添えて出す、かな交りの優しい()で、

――折しも月は、むら雲に、影うす暗きをさいわいと、(かたえ)に忍びてやりすごし、(なお)も人なき野中の細道、薄茅原(すすきかやはら)、押分け押分け、ここは何処(いずこ)白妙(しろたえ)の、衣打つらん(きぬた)の声、(かすか)にきこえて、雁音(かりがね)も、遠く雲井に鳴交わし、風すこし打吹きたるに、月皎々(こうこう)と照りながら、むら雨さっと降りいづれば――

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