黒猫十三

1話

4,843字 約10分 2012年12月28日 公開

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 本庄恒夫(つねお)辰馬久(たつまひさし)は篠突く雨の中を夢中で逃げた。体を二つにへし折り、風に追われながら、夜の市街をひた走りに走った。その時、一緒に馳けていた辰馬久が、ふいと身を(かわ)して横町へ折れた。続いて曲ろうとした途端、本庄は行手の暗がりから、ぬッと出て来た大男が、辰馬の後を飛ぶ如く追跡するのを見た。

「危い! 捕りやしないか?」

 ぎょッとして思わず心で叫びながら、立ち(すく)んだ。辰馬に誘われ、初めて行ってみた賭場(とば)に運悪く手入れがあって、二人は命からがらここまで落ちのびて来たのである。

 今夜に限って、どうしたものか円タクはどれもどれも客が乗っていて、空車には一度もぶツからなかった。

 もうこうなっちゃ仕方がない、どんなに夜が更けようと、ずぶ濡れになろうと、いよいよ小山まで徒歩(ある)いて帰らなくてはならない、と思っている処へ、有難い事に、一台の空車が通りかかった。朦朧(もうろう)ランプに照らされた空車の二字が目に入った刹那、本庄は救われたような喜びに我を忘れて合図の手を高くさし挙げ、停るのを待ち兼ねて、

「小山まで、――西小山だ!」と云うなりハンドルに右手をかけて、飛び乗った。

「あッ!」

 忽ち何かに躓いて前へのめった。その拍子にぐにゃりと柔かいが、しかし弾力のあるあたかも護謨(ゴム)の如きものの上に、両掌と膝頭とを突いたのだった。

「何だろう?」

 手探りでそッと撫で廻してみると、異様な感じがする。(ひや)ッこいがすべすべした、まるで人肌だ。

 生憎ルームの電燈が消えているので、車内は暗くって、硝子(ガラス)窓から、時折さし込む街燈の灯も、シートの下までは届かなかった。

「君、ちょっと、電気を点けてくれないか」

 運転手は答えない。風雨に声を奪われて、聞えないものと見える。

「チョッ」

 本庄は舌打ちしながらポケットを探り、マッチを擦った。と同時に、彼はマッチを放り出し、シートの上に尻餅をついてしまった。

 人形? いや人だ、若い女だ。しかもそれが死んでいるのだ。余りの驚愕に全身凍ったようになって、叫び声すら咽喉(のど)を出なかった。ただ、はッと思っただけだった。次の瞬間には眼がくらくらとして、何も分らなくなった。体は妙に硬直(こわば)って身動きさえ自由にならないのに、膝頭だけががくがくと震えて()ち上る力さえぬけてしまった。血生臭い香がプンと鼻をうつ。

 (やが)て、少しく気が落ち付いてくると、恐いもの見度さに、もう一度マッチを擦って、蹲踞(しゃが)み込み、今度はようく見た。

 やっと十二三位だろうか、立派な服装をした少女だった。顔は伏せているのではっきり分らないが、ウェーヴした断髪が襟足に乱れかかって、何とも云えぬ美しさだ。桃色のドレスの肩から流れ出ている血汐は、(ほっ)そりした白蝋のような腕を伝わり、赤い一筋の線を描きながら、白いゴム・マットの上に滴り落ちて、窪んだ処へ溜っている。抱き起してみようと思って、そッと体に手を触れたら、ぬらぬらとした赤いものが、ベットリと掌に着いた。掌ばかりではない、よく見ると、ズボンの膝にも、ワイシャツの袖口にも血がねばりついている。血だらけだ。

 本庄は考えた。これを人が見たとしたら、どう思うだろう。足許には死んだ女が転がっている、その傍には血に染んだ、ずぶ濡れの男が(うずくま)っている、しかも興奮して――、となるとどうしたって、俺は有力なる容疑者、という恰好だ。馬鹿々々しい、こんな係り合いになっちゃ、それこそ大変だ。

 彼は急に空恐しくなって、逃げ出そうと思った。走っている車から飛び降りる積りで、(ドア)に手を掛けた、が、また考え直して止めてしまった。

 崩折れるように腰を下すと、ほうッと大きな溜息を()いて、思わず心に呟いた。俺の知った()ッちゃないんだ。ただ、この円タクに乗り合せたというだけじゃないか、犯罪直後に運悪く乗った、それだけの事だ。嫌疑がかかったっていいじゃないか、逃げ出す必要がどこにあるんだ。

 それよりもだ。死美人と合乗りして深夜の街路を走る。こんな珍らしい廻り合せがめったにあるもんじゃない。この幸運をむざむざと見捨てて、逃げ出そうなんて、――勿体ない! 何という愚かな考えを起したものだろう、と、彼の異常な好奇心はそろそろと頭を(もた)げてきた。

 そうなるともう怖しいとも何とも思わなかった、むしろ与えられたこの絶好の機会を利用して、充分に日頃の猟奇的満足を得ようとさえ思うのであった。

 その時、屍体が少し動いたように見えた。続いて、弱い、溜息に似た声を出した。

「オヤ、蘇生(よみがえ)ったのかな」

 本庄は慌てて唇に手をやった。(たし)かにまだ息がある。手首を握ってみると、最初は殆ど分らないほど微かだった脈が、段々はっきりと指先に触れてきた。どうやら温味(あたたかみ)も戻って来るようだ。

「まだ、死んじゃいなかったんだ!」

 有難い! 息を吹き返したとなると益々面白いことになりそうだ。

 運転手が何も知らないのを幸に、この少女を彼は自分のアパートへ連れて行こうと決心した。そうして介抱してやることが、また発見者たる者の義務ででもあるように思われる。

 彼は少女を前にして考えた。運転手に知れないように運び出すとしたら、どういう方法を執ったものだろうか、下手をやって感付かれたら事だぞ、きっと警察へ訴えようと云い出すに(きま)っている、警察に。――冗談じゃない、そんな馬鹿な事が出来るものか。やッと逃げて来たばかりじゃないか。――

 しかし、全然気付かれないという方法はあるまい。人間一人を担ぎ出すのに、いかに小さな女だって、容易な事ではない。と彼は頻りにそれについて頭を悩ませていた。

 車が花柳界の近くを通っている時、見番の灯を見て、ふとある名案を思いついた、そこで小山アパートまで乗り着けずに、途中で車を停めさせて、

「あすこの見番で、――これを崩して来てくれ」

 と云って、運転手に五円札を渡し、

「生憎、細かいのがなくって。――」と故意(わざ)独言(ひとりごと)のように附加えて云った。

 運転手が札を手にして、雨の中を馳け出して行くのを見定めてから、本庄は死んだ蛇のようにぐったりとなっている少女を抱き上げた。小柄だが持ち重りがして、小脇に抱えているのはなかなか骨が折れる。気が()くので肩に引っ担いで歩いた。泥濘に靴が吸いついたり、()べったりしながら、()ッとの思いでアパートの階段に辿り着き、自分の部屋まで運んで、取り敢えず壁際のベッドの上に(よこた)え、始めて電気の下で少女の顔を見た。

 何という可愛らしさだろう、まるで眠っている西洋人形だ、細面で、(あご)から首筋へかけての皮膚が()べこそうで、東洋人には珍らしい濁りのない白さだ。睫毛に覆われた眼は切れが長いらしく、開いたらどんなに美しかろう、本庄は思わず低い歎声をもらして見惚(みと)れてしまった。

 可哀想に、――彼女の洋服は胸から肩へかけて、血のりで肌にねばり着いている。鋭利な短剣か何かで、グザと突刺したのだろうが、酷いことをしたもんだ、こんな天使のような少女を傷つけるなんて。――この出血の工合ではよほどの重傷を負うているに相違(ちが)いないが、どこに傷口があるのかはよく分らなかった、多分左の肩辺りらしいので、とにかくそこへ自分の(ハンケチ)をふわりとかけてやった。

 微かな呼吸(いき)はしているのだが、少女はなかなか意識を取り戻さない。少し心配になってきた。

「医者を()ばなくっちゃ、いけないかなあ」と思った。幸い今年医科を卒業したばかりの親友が、近所に引越して来たのを思い出した。

「そうだ。彼奴(あいつ)に頼もう」そう気が付くと慌てて外へ出た。外へ出てから先刻(さっき)の円タクの事を思い出したが、もう車はどこにも見えなかった。彼は雨に濡れながら、逸散に馳け出した。

 ぐっすり眠込んでいる友人を叩き起して、

「君、危篤の病人なんだ。直ぐ来てくれないか?」

「危篤だって? 誰が?」と蒲団から首だけ出して、眼を()ぶったまま、眠むそうな声で訊いた。

「誰でもいい。そんな事は後で話す」

「患者は男か? 女か? 俺や、夜中に叩き起されることを思うと、医者になるのを止めッちゃいたくなるよ」

 友人は渋々起きたが、よく眠っていたところを起されたので、頗る不機嫌だった。

「後で委しい事は云うよ。まあ、早く来て診てくれ。こうやっているうちにも、――手遅れになって、死んじまってるかも知れないんだ」

「君は非常に興奮してるね、――俺やちッとも知らなかったよ。君にそんな女があるたあ」

「俺の女じゃない」

「人の女を夜中に引張り込むのは()しからんな」

「止せ。そんなくだらない事ッちゃないんだ。人一人の生命(いのち)だ。冗談じゃない」

 雨は小降りになったが、北風が少し寒かった。本庄は先に立って大跨で飛ぶように歩いた。

 アパートの階段を馳け上り、自分の部屋に飛び込んで見ると驚いた。ベッドに寝ていたはずの重傷人は煙のように消え去っている。が、夢でない証拠には、真紅の花を撒き散らしたように、シーツの上に血の跡が点々と残っていた。

 驚いたのはそればかりではない。室内は勿論、戸棚から本箱から悉く引掻き廻され、抽斗(ひきだし)という抽斗は全部開け放しになっている。書類はあっちこっちに飛び散り、床の上に転がされてあるインキ壺からは、黒いインキが毒々しく流れ出して、床を汚している。本庄が出かけた後に何者かが忍び入り、家探しをした上に、少女を(さら)って()ったに違いない、それにしてもこの部屋の荒しようはどうだろう。足の踏み場もない。奮然として棒立ちになっているのを見て、友人は嘲笑を唇に浮べて云った。

(おっそろ)しく散らかしたもんだな。――して、その危篤の女はどこに(かく)してあるんだね?」

 彼はむッとして、ぶッきら棒に答えた。

「畜生! ご覧の通り逃げちゃった!」

「一体これやどうしたッてんだ? 泥棒が入ったんじゃないか? 金があるもんだから。――」

「金なんかあるもんか」と云ったが、今日は月給日だった。ふだんなら机の抽斗に入れておくのだが、運よく持って出掛けたので助かった。

「だって君、泥棒に入られるなんて、景気がいいじゃないか」

 本庄は苦笑して答えなかった。

「よく注意して調べて見給え。きっと、何か盗まれてるぞ。帰りがけに俺が交番に寄って、話しといてやろう。一応訴え出ておいた方がいいぜ」

 彼は慌ててそれを制止した。

「大丈夫だ。盗まれるようなものは何もありゃしないんだから、()っといてくれ。面倒だから、――だがな、こうめちゃめちゃに掻き廻されちゃ、後片附が大変だなあ」

「引越しだと思いやいいやな。ところで、――と、もう俺の用事はなくなったって訳だね。じゃ、帰るよ」

 大きな欠伸(あくび)をしながら、友人が立ち去るのを見送ってから、本庄はもう一度戸棚の中へ首を突込んで見た。ベッドの下をも覗いて見た。もし仮りにだ、自然に意識を取り戻し、この意外な場所に彼女が、彼女自身を発見したら、必ず逃げようとするに違いない、が、あの重体では歩けまいから、この(へや)のどこかに隠れているのではあるまいかと思ったのだが。――

「してみると、やはり、浚われたのかなあ」

 彼は失望した。そうして(わけ)もなくむしゃくしゃと腹が立って、運転手に渡した五円紙幣までが忌々(いまいま)しくなった。――だが、あの半死の少女を浚って行く泥棒もあるまいじゃないか。これは普通(ただ)の泥棒ではない、きっと何か計画(たくら)んでいるんだろう。殊によると今夜の行動を最初から見ていて、僕の弱点に附け込み、金品を強請(ゆす)ろうというのかも知れない。しかし、それにしても少し変だ。強迫するとしたらば、何故少女を浚って去った? その理由が分らない。

 だが、一体あの血だらけの少女は何者だろう? 服装も立派だった、容貌にもどこか犯し難い気品があった、高貴の人である事は一目で分かる。これには確かに何か深い仔細があるに相違ない。犯罪の裏面に潜む秘密、それを探ってみたら、()ぞ面白い事だろう。

 彼はベッドの端に腰かけて、考え続けているうちに疲労(つか)れてきて、その儘ごろりと横になった、血の着いたシーツを取り代えるのももう億劫だった、が、寝てみるとまた妙に頭が冴えて()つかれなかった。

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