3話 3
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直ぐ帰ると云って出たぎり、宮岡警部はなかなか戻って来なかった。その間に本庄と十三はすっかり親しくなっていた。話は多く黒猫ミミーについてであった。
「刑事部長さんから、護身用に頂いたの。恐い人に出会った時には、この猫を打つけてやるのよ」
と云った。ミミーは実によく馴されていた。十三が馳け出すとその後を追って走り、立ち侍って彼女が自分の胸を叩いて招ぶと、いきなり飛び上って、襟元に縋りつき、真白い首筋に頭をこすりつけて甘えた。
日暮れ頃になると両方とも益々はしゃぎ出した。その愉快そうに戯れ遊んでいるのを見ていると、大小の猫が縺れ狂っているとかしか思われなかった。薄暗い室内の壁には踊っているような影法師が映っていて、黒ずくめの装いで敏捷に跳ね廻る十三の姿は、まるで黒猫のような感じだった。本庄は好奇心の眼を輝かせて見惚れていた。
夜になった。宮岡警部はどうしたのだろう、二人を置去りにしたまま、まだ姿を見せなかった。
「きっと、いまに、自動車で迎えに来るんでしょう」
と云って、十三は別に気を揉む様子もなかった。
十一時近くなって、彼女の云った通り自動車が玄関に停った。
運転台の窓から、宮岡警部は首だけ出して差招いた。
彼女はミミーを小脇に抱えて、自動車の窓に飛びついた。
「遅かったのねえ。お兄さん」と甘たるい声を出して、
「昨夜、失敗したから、――今夜はミミーを伴れて行くのよ」と云いながら、黒猫の頭を叩いて、
「ミミーさえいりゃ、成功疑いなしだわ」
十三は両手でミミーの胴中を抱いて、高く差上げ、
「しっかり頼むよ。ミミー!」と頬ずりしながら云った、その眼は緊張して、鋭い光を帯びていた。
本庄は宮岡警部の前に進み出て、無言で丁寧に頭を下げた。
「や、遅くなって。――」と云い、十三の方へ向いて、眉を寄せ、
「出掛けようとする処へ、生憎、捕物があってね。――」と弁解らしく云った。
「私に運転させてよ」
彼女は運転台に飛び乗り、宮岡警部をルームの方へ追いやって、自分でハンドルを握った。
「十三子さん、豪いですね」と本庄は感心した。宮岡警部は苦笑して、
「男手で育てるとお転婆になって困るよ。女らしい教育が出来ないから。――」
そんな事を話しているうちに、丸ノ内アパートへ着いた。
事務所には本庄の顔を知っている小使はいなかった。合鍵を貸せと云うと変な顔をして、
「辰馬さんはお部屋に在らっしゃるはずです。先刻まで食堂で、お友達とビールを飲んでいましたよ」と云ったが、別に怪しみもせずに直ぐ合鍵を貸してくれた。
本庄は宮岡警部の命令に従って、自動車を人通りのない裏門へ廻し、車内に入って待っていた。
暫時すると十三が馳け出して来て、いきなり本庄の手を握り、しなやかな体をすりつけるようにして、耳元に唇を寄せ、
「肝心の書類は銀行の金庫に納ってあるんですとさ。――これから皆で銀行へ行くのよ」
生温い息が耳にくすぐったかった。
本庄は帽子を眼深に被り助手台に腰を掛けていると、どうやら自分も探偵小説中の一役を買っているようで愉快だった。
軈て、後に靴音が近づき、扉が開いて、シートにどッかりと腰を下す音がした。皆黙々としていた。
ハンドルを握っている彼女の顔は真蒼で、引きしまっていた。辰馬銀行に着くまで、誰も一言も口をきかなかった。車が停った時、本庄は始めてそっと後を向いて見た。辰馬久は目隠しをされ、猿轡をはめられ、両手を縛られていた。シークな彼が、この時位物哀れに見えたことはなかった。
辰馬は宮岡警部と、ピストルを手に持った十三との間に挟まれながら、行員出入口から、銀行内に入って行った。本庄は張番を命ぜられたので、暗い横町に立って居た。預った黒猫をしっかりと胸にかかえ、その柔らかい毛並を撫でていると、どこかに彼女の移香を感じたので、彼は思わずミミーを抱きしめて、頬ずりした。
その時、突如、静寂な往来に沢山な靴音が聞えたので、彼は本能的に身を転じ、暗い蔭にひそんで様子を覗った。一かたまりの黒い人影は飛ぶように近づいて来る、警官らしい。先頭に立って馳けつけたのは、意外にも銀行内に入っているはずの宮岡警部の顔であった。本庄は驚いて、街燈の灯に透して見直そうとした途端、警部は部下を顧みて、
「つづけ!」
と一声厳然と云い放った。その声いろは別人のような鋭さがあったので、本庄は思わず驚愕の眼を瞠った。よく似ている、全く生写しだが、人間は違うようだ、たしかにこれは宮岡警部ではない、偽物に違いないが、それにしても同じ顔の人が二人、――俺の眼がどうかしているんじゃないか、とも思ったが、余り酷似なので異様な無気味さを感じた。が、また咄嗟にこんな事をも考えた。辰馬の急を知って、××会から救助に来たのではあるまいか、警官に変装して、――危いぞ、これだけの人数を相手にしては敵いッこはない、何とかして十三を助けてやらなければならない、と気を揉んでいるうちに、黒い影はひとかたまりになって、裏口からどやどやと奥へなだれ込んだ。
「真暗だ!」と一人が呶鳴った。
「スウィッチも、――電線も、――切断されてる!」
「逃すな!――女を。――」
と喚いた。
それを聞くと本庄はもう気が転動してしまった。前後の考えもなく跳り込んで行こうとした時、中からぱッと飛び出して来た十三の体に打つかった。その拍子にミミーは驚いて彼の腕を引掻いて逃げ出し、彼女の後を追うて往来を真驀地に走った。まるで二つの黒猫がもつれ合って飛んで行くように見えた。と、殆ど同時に、真暗い銀行の廊下で恐しい格闘が始った。罵り喚めく声、入り乱れた靴の音。
「あッ。やられた!」
どたり、人の倒れる響き、続いて起る物凄い叫び声に本庄は度胆をぬかれた。逃げよう! 踵を転じた刹那、どんと背中を突かれた。
「逃げろ! 早く――」
底力の籠った聞き馴れた声、それはたしかに宮岡警部に違いなかったが、どういう訳か、一人の警官がいきなり飛び出して来て、背後から警部の胴中にしがみつき、呼笛を鳴らした。
本庄は夢中で走った。
× × ×
気がついた時、彼は全身打ちのめされたように疲れ切って、ベッドの傍の床の上に倒れていたのだった。
扉の下から室内に辷べり込ませてある新聞を、習慣的に手に取って拡げて見た。はッとして、本庄は跳ね起き、眼をこすりながら、もう一度見直した。
「辰馬銀行、黒猫トミーに襲わる」
三段ぬきで書かれたその記事を見て、魂消げてしまった。彼は息をはずませながら、むさぼるように読んだ。
幸い彼の名はどこにも出ていなかったが、宮岡警部と辰馬久と、負傷した警官との写真が出ていた。
世界を跨にかけた女賊黒猫トミー及びその情夫が、辰馬銀行の金庫から多額の金を奪って逃走した。しかもその案内役は頭取の令息である、という点に多少の疑惑を抱かれているというのだ。
本庄は思わず胴震いした。が、不思議な事ばかりで、どうも腑に落ちなかった。第一××会の首領であるべき辰馬久が捕われないのも変だ。十三が仮に黒猫トミーという女賊であったとしても、宮岡警部はどうしたんだろう。辰馬に会ってみよう。そうだ、彼に会って訊いてみる事だ。
しかし、さすがにアパートに行く気はしなかったので、辰馬銀行に出かける事にした。新聞を見て見舞いに来た、と云えば誰も怪しむまい。
銀行の応接室には見舞客が辰馬久を取巻いて、事件の顛末を聞いているところだった。彼は両足をふんばり、腕を組んで、興奮しきった顔をして、刑事から聞いてきたという話を受け売りしていた。が、本庄の顔を見るといきなり手を握って、
「例の一件から、遂々こんなめに会っちゃったよ」とささやいた。それを××会に関係した事と本庄は早呑込みして、
「どうして君が、――××会の首領なんかになっていたんだ? 僕は全然知らなかったよ」
辰馬は目をむいて、
「君、何云ってるんだ」本庄はどぎまぎしながら、
「だって、例の一件だなんて云うから。――」
「賭場の一件さ。あの弱味につけ込まれたんだよ」
「ああそうか、なあんだ」
「あれを種に脅迫しやがったんだ。アパートに最初やって来てね」
聞いている彼は冷汗を流した。心臓の鼓動が耳に騒々しく聞えた。
「辰馬君、新聞に出ていた通りかね? 黒猫トミーッて、どんな女だ?」
辰馬は鼻の先に小皺を寄せて、フフンと笑った。
「佳い女だぜ。俺が金は持ち合せていないッて云ったら、銀行の金庫にあるわよッて、あの女ピストルを突きつけやがった。好い度胸だぜ。自動車に乗せて俺を銀行に連れて行ったが、手配中の宮岡警部が来てくれたんで助かった」
「君はトミーを知ってたんだろう?」
「知ってるもんか。泥棒じゃないか。いくら俺が物好きだって、あんな凄い女は真平だ。情夫の方がぺこぺこして、女に使われていたぜ。奴さん、宮岡警部に写真酷似に変装してやがった。二人宮岡警部が出来ちゃって、どっちが真物だか分らなかった。そのために遂々捕え損ったんだそうだよ」と辰馬は笑った。
まんまと欺かれ、手先に使われたのかと思うと腹が立ったが、何故か本庄は心から彼等を憎む気にはなれなかった。