4話 恋の犯人
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真面目で気の弱い一雄は、責任感も人一倍強く、任務を遂行しなければ生命を奪われる。しかし、無理強いに負されたのだから、何とかしてそれを逃れたいと思う、この二つの悩みに悶えぬいていたので、時には正気の人とは思えぬような振舞いをすることもありました。恐怖から気が狂ったのではないかと思いました。
私はどう慰めていいかわからなかったので、絶対秘密を誓ったにかかわらず、薫さんにだけこのことを打ち開けて相談しました。が、彼にもいい智慧はなく、私と一緒にただ気をもむだけでした。
まだ合言葉をもって現われた者もなければ、何の命令もないのです。実際には何もしていなかったのです。それだのに夫は誓約したからにはいつ命令を受けるかわからない、どこから、どんな人が出現するかわからない、と取越苦労をして、心配しておりました。
父の重態が伝えられるようになった一週間前のこと、私共が本邸へ行っている不在中にこのカーネーションが見知らぬ一婦人によって届けられましたのです。
夫は真青になって、震るえ上りました。カーネーションのしべの中に薄い紙が折り込んであった、それに細かく何か認めてあったそうですが、夫は直ちにマッチをすって焼いてしまいましたので、私は見ませんでした。
それを始めとして深夜、どこからとなく電話がかかってまいりましたり、誓いを破った者の厳罰を考えよ、などと差出人のない脅迫状が舞い込んだりしました。誓いを破ぶったというのは、一雄がその秘密を私に打ち開けたということでしょうが、それがどうして知れたのかわかりません。
夫は彼等と連絡のある者が身辺にいるのだと云い、二人の女中を急に追い出したりしました。
精神的の苦悶から、眼に見えて窶れ、このままでは発狂するか、自殺するか、悲惨な最後を遂げるに違いないと、憂慮しておりますと、ふいに姿が見えなくなってしまったのです。
恰度、その時私は父の看護に行っていて家を空けていました。女中の電話で馳けつけてみますと、あの通り窓が開いていて、
『旦那様は昨夜お電話で何かお話ししていらっしゃいましたが、お部屋へお入りになったぎり、朝になっても起きていらっしゃらないので、ドアをノックいたしてみましたがお返事がございません。鍵穴からのぞくとベッドが空っぽでしたからびっくりして、御本邸へお知らせいたしました』
と、女中が申しました。
夫は玄関から出なかったとみえ、玄関にも表門にも鍵がかかったままだったそうです。
本邸では父が重態だというのに何故一雄は来ないのだ、と、やかましく私が攻められていましたので、行方がわからないとも申せず、風邪で熱が高くて起きられぬと嘘を吐いて、その場、その場を胡麻化しているのですが、母にだけは胡麻化しきれず、母にだけ私は白状してしまったんですの。
親戚の者達はもともと私があの家の後継者の妻となる資格はない、と、反対しきっているのですから、夫のいないのをいいことにして、薫さんに家督相続をさせようとしておりますのです。
そういうわけですから父の息のあるうちに、何んとかして探し出して頂きたいと思うのです。あれだけ脅やかされていたのですから、正気を失った人になっているかも知れませんが、生きてさえいてくれたら、と、そればかり念じているのですけれど、今日で一週間目になりますのに、どこからも便りがないので、あるいはもうこの世にはいないのではないか、などと思ったりして、私は生きた心地もございません。先生はどうお思いになりますか? 今はもう先生のお力にお縋りするよりほか、私には手のつくしようがありませんの、どうぞ、先生、お願いですから――」
夫人は涙ぐみながら、私の前に手を合せて頼むのだった。
夫人の家を辞してから、翌日の夜の十時までの間、私は一睡もする暇がないほど忙しかった。私は夫人の言葉のうちに、あるヒントを掴んだのだった。それに自信を得たので、思い切った行動が出来た。実にその三十余時間の活動ぶりは自分ながら感心するほど目ざましいものであった。
松岡旧伯爵は危篤を伝えられながら、高齢にも似合わず、不思議な生命力があって、臨終にはまだ間がありそうだ、と、主治医は語った。
枕許には伯爵夫人と一雄夫人が詰めきり、次男の薫が時折交代していた。次の間には近親者一同がぎっしりと詰めきっている。静かな病室からは咳一つ聞えなかった。
女中から受取った銀盆の名刺を、看護婦は無言で、薫へ渡した。
無言で受取った薫は名刺の上に書かれた文字を見ると、サッと顔いろを変え、よろめくように病室を出た。
名刺には、
「あなたの監視中の病人が脱出しました。直ぐおいで下さい」
と、あった。
薫は眼が眩んで、そこにいた看護婦を突き飛ばし、一散にアトリエに走った。
アトリエの中は真暗だった。電球が切れていたのを、まだ取りかえる暇がなかったのだ。彼は手探りで、まず地下室の鍵を開け、階段を降りかけると、下から低い声で、
「一足違いでした。御病人は父君の御臨終に間に合わなければ、と、仰しゃって、飛んでおいでになりました」
「何んだと?」
薫は相手の男の腕をわし掴みにしてねじ上げた、と、思ったら、反対にもんどり打って地上に投げ出された。
打ちどころでも悪るかったか、彼は少時起き上ることも出来なかった。
「薫さん、あなたがながい間かかってやったせっかくの計画も、いま一歩というところで、私立探偵の私のために、水泡に帰しました。お気の毒ですが仕方がありません。さあ、起ち上って、私の云うことをおききなさい。
あなたは映画女優時代から人知れず恋していた嫂さんに同情者のような顔をして、歓心を買い、あわよくば横取りしようと考えている時、運悪るくシベリアからお兄さんが帰還された。無事で帰られたのを喜ぶはずであるあなたは、反対にすっかり失望してしまいました。
若夫人はお兄さんと同棲される、指をくわえてそれを見ているのは堪らなかった。何んとかして二人の仲を割こうと思っているところへ、お兄さんの秘密の話を夫人から聞かされたので、急に恐ろしい計画をたてたのです。
暗い影を背負されたと信じきって神経を尖らせている彼に、脅迫状を送ったり、偽電話をかけたりして脅かし、遂いに彼を半病人にしてしまいました。
お兄さんの精神の疾みはますますはげしくなるのを、悪魔はほほ笑んで見ていたのです。カーネーションを送っておいて、次ぎの夜、覆面したあなたは、夫人から聞いていた秘密の合言葉を使って、お兄さんを窓からおびき出し、わざと裏門からぬけ出して、いきなり彼の頭に風呂敷を被ぶせ、外に待たせてあった自動車に乗せてアトリエの地下室に連れ込んで、監禁したのです。あなたのいつも穿いている小型ラバソールのあとを残したのも残念でしたね。
そして、あなたはひたすら父君の臨終の迫るのを待ち焦れていたのです。お兄さんが行方不明であれば、いやでもあの家を継ぐ者は薫さんです。あなたは名門とあの財産とを継ぎ、もう一つ美貌の若夫人を手に入れるつもりだったのですが、惜しいことをしました。シベリアからの命令だと思い込んでいたのが、実は弟の薫さんからだったと知って、お兄さんはすっかり元気になられましたよ」
そこへバタバタと跫音がして、若夫人が地下室の降り口から声をかけた。
「薫さん、早くいらして下さい。お父さまの御臨終です。それから喜んで頂きたいのよ。お兄さまが帰っていらしたの、御臨終に間に合いました」
そこにいる私の手を握って、夫人は感謝の眼をむけた。一雄を誘拐した犯人が弟の薫であったことだけは私は云わなかった。
それは一雄と私との永久の秘密として、胸に納めておく約束をしてあったからである。