2話 五色蟹(2)
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亀江の検死は済んで、死体は連れの三人に引き渡された。三人はすぐに東京へ電報を打って、その実家から引取り人の来るのを待っていた。為子は幸いに生き返ったものの、あくる日も床を離れないで、医師の治療を受けていた。遠泉君の一行も案外の椿事におどろかされて、となり座敷の女たちのために出来るだけの手伝いをしてやった。田宮は気分が悪いといって、朝飯も碌々に食わなかった。
「あの、まことに恐れ入りますが、どなたかちょっと帳場まで……。」と、女中がこっちの座敷へよびに来た。
遠泉君はすぐに起って、旅館の入口へ出てゆくと、駐在所の巡査がそこに腰をかけて番頭と何か話していた。
「なにか御用ですか。」
「いや、早速ですが、少しあなた方におたずね申したいことがあります。」と、巡査は声を低めた。
「御承知の通り、あなた方の隣り座敷の女学生が湯風呂のなかで変死した事件ですが、どうしてあの女学生が突然に湯の中へ沈んでしまったのか、医者にもその理由が判らないというんです。どうも急病でもないらしい。といって、滑って転ぶというのも少しおかしい。そこで、あなたのお考えはどうでしょうか。あの児島亀江という女学生は、同宿の他の三人と折合いの悪かったような形跡は見えなかったでしょうか。それとも何かほかにお心当たりのことはなかったでしょうか。」
四人のうちでは一番の年長で、容貌もまた一番よくない古屋為子が、最も年若で最も容貌の美しい児島亀江と、一緒に湯風呂のなかに沈んだのは、一種の嫉妬か或いは同性の愛か、そういう点について警察でも疑いを挟んでいるらしかった。しかし遠泉君は実際なんにも知らなかった。
「さあ、それはなんとも御返事が出来ませんね。隣り合っているとはいうものの、なにしろおとといの晩から初めて懇意になったんですから、あの人達の身の上にどんな秘密があるのか、まるで知りません。」
「そうですか。」と、巡査は失望したようにうなずいた。「しかし警察の方では偶然の出来事や過失とは認めていないのです。もしこの後にも何かお心付きのことがありましたら御報告を願います。」
「承知しました。」
巡査に別れて、遠泉君は自分の座敷へ戻ったが、児島亀江の死――それは確かに一種の疑問であった。相手が若い女達であるだけに、それからそれへといろいろの想像が湧いて出た。田宮がその前夜に見たという女の首のことがまた思い出された。
四人連れのひとりは死ぬ、ひとりはどっと寝ているので、あとに残った元子と柳子のふたりは途方に暮れたような蒼い顔をして涙ぐんでいるのも惨らしかった。さすがの本多もきょうはおとなしく黙っていた。田宮は半病人のような顔をしてぼんやりしていた。夕方になって、警官がふたたび帳場へ来て、なにか頻りに取り調べているらしかった。警察の側では女学生の死について、何かの秘密をさぐり出そうと努めているのであろう。それを思うにつけても、遠泉君は一種の好奇心も手伝って、なんとかしてその真相を確かめたいと、自分も少しくあせり気味になって来た。
その晩は元子と柳子と遠泉君と本多と、宿の女房と娘とが、亀江の枕もとに坐って通夜をした。田宮は一時間ばかり坐っていたが、気分が悪いといって自分の座敷へ帰ってしまった。元子と柳子とは唖のように黙って、唯しょんぼりと俯向いているので、遠泉君はかれらの口からなんの手がかりも訊き出すたよりがなかった。こうして淋しい一夜は明けたが、東京からの引取り人はまだ来なかった。
徹夜のために、頭がひどく重くなったので、遠泉君はあさ飯の箸をおくと、ひとりで海岸へ散歩に出て行った。女学生の死はこの狭い土地に知れ渡っているとみえて、往来の人達もその噂をして通った。遠泉君は海岸の石に腰をかけて、沖の方から白馬の鬣毛のようにもつれて跳って来る浪の光りをながめているうちに、ふと自分の足もとへ眼をやると、かの五色の美しい蟹が岩の間をちょろちょろと這っていた。田宮の胸の上にこの蟹が登っていたことを思い出して、遠泉君はまたいやな心持になった。彼はそこらにある小石を拾って、蟹の甲を眼がけて投げ付けようとすると、その手は何者かに掴まれた。
「あ、およしなさい。祟りがある。」
おどろいて振り返ると、自分のそばには六十ばかりの漁師らしい老人が立っていた。
「あの蟹はなんというんですか。」と、遠泉君は訊いた。
「あばた蟹といいますよ。」
美しい蟹に痘痕の名はふさわしくないと遠泉君は思っていると、老いたる漁師はその蟹の由来を説明した。
今から千年ほども昔の話である。ここらに大あばたの非常に醜い女があった。あばたの女は若い男に恋して捨てられたので、かれは自分の醜いのをひどく怨んで、来世は美しい女に生まれ代って来るといって、この海岸から身を投げて死んだ。かれは果たして美しく生まれかわったが、人間にはなり得ないで蟹となった。あばた蟹の名はそれから起こったのである。そうして、この蟹に手を触れたものには祟りがあると言い伝えられて、いたずらの子供ですらも捕えるのを恐れていた。殊に嫁入り前の若い女がこの蟹を見ると、一生縁遠いか、あるいはその恋に破れるか、必ず何かの禍いをうけると恐れられていた。
明治以後になって、この奇怪な伝説もだんだんに消えていった。あばた蟹を恐れるものも少なくなった。ところが、十年ほど前に東京の某銀行家の令嬢がこの温泉に滞在しているうちに、ある日ふとこの蟹を海岸で見付けて、あまり綺麗だというので、その一匹をつかまえて、なんの気もなしに自分の宿へ持って帰った。宿の女中も明治生まれの人間であるので、その伝説を知りながら黙っていると、その明くる晩、令嬢は湯風呂のなかに沈んでしまった。その以来、あばた蟹の伝説がふたたび諸人の記憶によみがえったが、それでも多数の人はやはりそれを否認して、令嬢の変死とあばた蟹とを結び付けて考えようとはしなかった。
「そんなことを言うと、土地の繁昌にけちを付けるようでいけねえが、その後にもそれに似寄ったことが二度ばかりありましたよ。」と、彼は付け加えた。
八月のあさ日に夏帽の庇を照らされながら、遠泉君は薄ら寒いような心持でその話を聴いていた。
漁師に別れて宿へ帰る途中で、遠泉君は考えた。おとといその蟹をつかまえたのは本多である。しかも現在のところでは、本多にはなんの祟りもないらしく、蟹はかえって隣り座敷へ移って行った。一旦投げ捨てたのが又這いあがって来て、かの児島亀江のオペラバックの上に登った。彼女はこの時にもう呪われたのであろう。彼女が湯風呂の底に沈んだのは、為子の嫉妬でもなく、同性の愛でもなく、あばた蟹の祟りであるかも知れない。それにしても、四人の女の中でなぜ彼女が特に呪われたか、彼女が最も美しい顔を持っていた為であろうか。それともまだ他に子細があるのであろうか。
遠泉君は更に彼女と田宮との関係を考えなければならなかった。おとといの晩、田宮が風呂場で見たという女の首はなんであろうか、それが果たして亀江であったろうか。ゆうべも本多が垣の外へ投げ出した蟹が、ふたたび這い戻って来て田宮の胸にのぼると、彼は非常に魘された。かの蟹と田宮と亀江と、この三者の間にどういう糸が繋がれているのであろうか。遠泉君は田宮を詮議してその秘密の鍵を握ろうと決心した。
宿の前まで来ると、かれは再びきのうの巡査に逢った。
「やっぱりなんにもお心付きはありませんか。」と、巡査は訊いた。
「どうもありません。」と、遠泉君は冷やかに答えた。
「古屋為子がもう少しこころよくなったら、警察へ召喚して取り調べようと思っています。」と、巡査はまた言った。
警察はあくまでも為子を疑って、いろいろに探偵しているらしく、東京へも電報で照会して、かの女学生たちの身許や素行の調査を依頼したとのことであった。遠泉君は漁師から聞いたあばた蟹の話をすると、巡査はただ笑っていた。
「ははあ、わたしは近ごろ転任して来たので、一向に知りませんがねえ。」
「御参考までに申し上げて置くのです。」
「いや、判りました。」
巡査はやはり笑いながらうなずいていた。彼が全然それを問題にしていないのは、幾分の嘲笑を帯びた眼の色でも想像されるので、遠泉君は早々に別れて帰った。
午後になって、東京から亀江の親戚がその屍体を引き取りに来た。屍体はすぐに火葬に付して、遺髪と遺骨とを持って帰るとのことであった。その翌日、元子は遺骨を送って東京へ帰った。柳子はあとに残って為子の看護をすることになった。柳子は警察へ一度よばれて、何かの取り調べをうけた。警察ではあくまでも犯罪者を探り出そうとしているのを、遠泉君は無用の努力であるらしく考えた。
田宮はその以来ひどく元気をうしなって、半病人のようにぼんやりしているのが、連れの者に取っては甚だ不安の種であった。為子はだんだんに回復して、遠泉君らが出発する前日に、とうとう警察へ召喚されたが、そのまま無事に戻された。出発の朝、三人は海岸へ散歩に出ると、かのあばた蟹は一匹も形を見せなかった。
東京へ帰ってからも、田宮はひと月以上もぼんやりしていた。彼は病気の届けを出して、自分の会社へも出勤しなかったが、九月の末になって世間に秋風が立った頃に、久し振りで遠泉君のところへ訪ねて来た。この頃ようよう気力を回復して二、三日前から会社へ出勤するようになったと言った。
「君はあの児島亀江という女学生と何か関係があったのか。」と、遠泉君は訊いた。
「実はかつて一度、帝劇の廊下で見かけたことがある。それが偶然に伊豆でめぐり逢ったんだ。」
「そこで、君はあの女をなんとか思っていたのか。」
田宮は黙って溜め息をついていた。
(初出不明)