恐怖王

22話 注射針

2,474字 約5分 2020年7月28日 公開

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 それから一時間程(のち)、大江蘭堂と、怪画家黒瀬とは、捜査課長自身の案内で、ゴリラと対面する為に、警視庁の地下室の階段を降りていた。

「すると、あなたとあのゴリラとは、戸籍面では兄弟という事になっているのですか」

 捜査課長のS氏は、先に立って薄暗い段々を降りながら、尋ねた。

「エエ、僕の兄に当る訳です」

 黒瀬は真面目な声で答えた。

 何だか変な具合であった。考えて見ると、これは六年ぶりの兄弟の対面に相違なかった。何という異様な対面であろう。兄の方は一匹の野獣として、動物の檻の中にとじこめられているのだ。

 奥まった薄暗い部屋のドアが開かれると、その中に頑丈な鉄の檻があった。檻の中には動物園の熊の様に寝そべっている黒いものがあった。

「コラ、起きろ起きろ、お前に逢い度いという人があるんだ」

 S氏は靴で檻の(ふち)をコツコツ蹴りながら、怒鳴った。

 野獣はビックリした様に、ヒョイと顔を上げてこちらを見た。ゴリラの目と黒瀬画家の目とが、カチッとぶッつかった。

「アッ、お前……」

 ゴリラが何か叫びかけてハッと口をつぐんだ。非常に驚いている様子だ。

「僕だよ三吉。覚ているかね、黒瀬正一(しょういち)だよ」

 画家は、ゴリラの目を見つめながら、(おさ)えつける様に云って、檻の側へ近づいて行った。画家はゴリラに対して、一種催眠術的な力を持っている様に見えた。彼の前では、あばれもののゴリラが非常におとなしく、首を垂れてかしこまっていた。

「三吉、お前は飛んでもないことをしたんだ相だね。その上、捕まってからも、人を(きずつ)けたというではないか。お前は何という馬鹿だろう。こんな動物の檻の中へ入れられるのも、お前の智恵が足りないからだよ。悲しいとは思わないのか。素直に何もかも白状してしまうがいいじゃないか。お前が云わなくても、こうして僕が知ったからには、僕からすっかり申上げてしまうよ。その方がお前の為なのだ。警察の(かた)も、お前の哀れな素性をお聞きになったら、きっと同情して下さるよ」

 黒瀬は檻の鉄棒に顔をくッつけて、涙ぐんだ声で、諄々(じゅんじゅん)(さと)し聞かせるのであった。ゴリラの方でも、久方振りの対面を懐かしがってか、黒瀬の側へすり寄って来て、じっと蹲まっていた。

 黒瀬は話しながら、鉄棒の間から手を入れて、ゴリラの背中をさすったり、その手を握ったりした。そんなにされても、ゴリラは、まるで猛獣使いの前に出たけだものの様におとなしかった。

 画家とゴリラとの不思議な対面は三十分程もかかった。彼はその間、ゴリラを説き伏せる為に、ボソボソ、ボソボソ囁き続けていたのだ。そして、結局彼の努力は報いられた様に見えた。

「とうとう説き伏せました。三吉は今度のお検べには、何もかも白状すると云っています」

 黒瀬は少し離れて待受けていた二人の方へ戻りながら云った。

 捜査課長はこの吉報にひどく喜んで、お礼を云った。

 黒瀬は何かもじもじしていたが、

「洗面所はどちらでしょうか」

 と尋ねた。

 捜査課長はドアの外へ出て、その所在を教えた。黒瀬はさいぜんから我慢していたものと見え、妙な走り方をして、その方へ急いで行った。

 そして、それっ(きり)、この怪画家は再び姿を見せなかったのだ。洗面所へ行くと見せかけて、どこかへ逃出してしまったのだ。

 一方檻の中でも妙な事が起っていた。

「オイ、三吉、何をしている。どうしたんだ」

 捜査課長が驚いて檻に駈け寄り、又コツコツと、その縁を靴で蹴った。

 だが、今度はゴリラは何の反応も示さなかった。彼は長々と横たわって(いびき)をかいていた。顔が真青になって、額にビッショリ汗の玉が浮いていた。

「今話をしていた奴が、もう寝入っている。何ということだ。コラ、起きぬか、起きぬか」

 S氏は鉄棒の間から手をさし入れて、転がっているゴリラの身体を烈しくゆすぶった。だが少しも手ごたえがない。まるで死んだ様だった。数分間でこんなにもよく寝込めるものだろうか。

「変ですね、どうかしたんじゃありませんか。そいつの顔色をごらんなさい」

 蘭堂が檻を覗き込んで云った。

 ただ事ではなかった。ゴリラは死にかけているのだ。何の原因もなく、突然こんな発作が起るものだろうか。

「それにしても、あの黒瀬という人は何をしているのだろう。馬鹿に長いじゃありませんか」

 S氏がふとそれに気づいて云った。

 二人の胸に殆ど同時に、ある恐ろしい考えがひらめいた。

「オイ、君さっき出て行った黒瀬という人を探してくれ給え、洗面所にいる筈だ。大急ぎで探してくれ給え」

 S氏は外の廊下に立っていた一人の警官に命じた。

 だが黒瀬の姿は、洗面所は勿論、庁内のどこの隅にも発見されなかった。

 一方ゴリラ男の容態を見る為に医員がかけつけ、檻の戸を開いて中へ入って行った。

 彼はゴリラの身体を綿密に検べ終って顔を上げた。

「腕に注射針の痕があります」

「毒薬ですか」

 捜査課長がびっくりして聞返した。

「エエ、多分……」

 医員はある毒薬の名を答えた。

「それで生命は?」

「分りません。至急に手当てをして見ましょう。こんな頑強な男ですから、うまく命をとりとめるかも知れません」

 医員はゴリラ三吉の脈を圧えながら云った。

 二人の警官が医員の指図に従って、ゴリラを檻から出して、階上の別室へ運んで行った。

 庁内は俄に色めき立った。捜査課長は自室の電話口で、黒瀬と称する男の人相風体を怒鳴り続けた。黒瀬捕縛の非常線がはられたのだ。

 ゴリラに毒薬を注射した者は黒瀬の外にはない。何よりの証拠は彼が姿を消したことだ。ゴリラ男の奇妙な身の上話も、三吉という名前もみんな出鱈目に極っている。彼は捉われた同類に接近する為に、(たくみ)な手だてを考え出したのだ。

 あわよくば同類を救い出す積りであったかも知れない。だが、それが絶望と分ると、彼は我身の安全をはかる為には、同類をなきものにする外はなかった。幸、まだ何も白状していないのだから、今の内に殺してしまえば、彼は永久に安全でいることが出来るのだ。

 だが、それ程ゴリラの自白を恐れた黒瀬という男は抑々(そもそも)何者であったか。彼こそ「恐怖王」その人ではなかったのか。

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