6話 悪夢
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さて、お話は鳥井純一青年に移る。
布引氏が奇怪なる電話に、亡き人の声を聞いたのと、殆ど同じ時刻に、鳥井青年は、目に見えぬ糸で引かれでもする様に、牛込区S町のかの怪しき空屋へと、近づいていた。
彼はその夜、「恋人は果して死んだのか、生きているのか」という、悪夢の様な疑惑にとざされて、暗闇の町から町へとさまよい歩いていたが、いつの間にか殆ど無意識の内に、S町の怪屋の門前に出てしまった。
まさか今まで、あの盛装の花嫁御がこの家にいる筈はないと思いながらも、朽ちかかった古めかしい建物が、何とはなく彼をひきつけた。
彼はフラフラと、真暗な門内へ這入って行った。門の扉は一押しで苦もなく開いたのだ。
一歩庭に踏み込むと、闇の中に物の朽ちた匂がして、魔物の住む洞穴へでも入った様な、何とも云えぬ不気味な感じであった。
行手には伸びるがままに、繁茂した樹木の枝が交錯し、それを分けて進むと、たちまちネットリとした蜘蛛の巣が顔にかかって来た。生い茂った雑草は膝を没する程で、靴の底がジメジメと、まるで泥沼でも歩いている様な音を立てた。
彼は、その殆ど触覚ばかりの闇の中で、「アア俺は今恐ろしい夢を見ているんだな」と思った。それ程、空屋の中は暗くて、静かで、現実ばなれがしていた。
ガサガサと木の枝を分けて、庭を折れ曲って行くと、向うの方に映画のスクリーンの様な長方形の白いものが見えた。それは縁側の雨戸が一枚あいていて、その中に蝋燭が一本、ションボリとともっているのであった。蝋燭の赤茶けたほの暗い光が、闇に慣れた目にはスクリーンの様に白く見えたのだ。
スクリーンに見えた理由はもう一つあった。その雨戸一枚分の長方形の中には、ボンヤリと人の姿があったのだ。
蝋燭が、焔を遠ざかる程段々薄れて行く丸い光で、その人物の胸から上を、浮き出す様に照らしていた。
「アッ、照子さん!」
鳥井青年は、思わず叫び相になって、やっと喰いとめた。
燭台のほのかな光にユラユラと揺れて、縁側の奥に坐っていたのは、まがう方なき布引照子であった。死んだ筈の恋人の姿であった。
やっぱりそうだ。照子さんは生きていたのだ。そして、僕が救い出しに来るのを待っていたのだ。照子さんの不思議な心の糸が、僕をここへ引きつけたのだ。
鳥井青年は、腋の下から冷いあぶら汗をタラタラ流しながら、泳ぐ様にして恋人の前に近づいて行った。
「マア、鳥井さん! よく来て下すったわね」
突然、蝋燭の赤茶けた円光の中の照子が、身動きもせず、表情も変えないで云った。
その様子が、本当に悪夢の中の様な気違いめいた感じであったけれど、青年はそんなことを疑っている余裕はなかった。
「アア、よかった。照子さん、僕お迎えに来たんですよ。あなた一人切りで、こんな淋しいとこにいたんですか。誰かに監禁されたのでしょう。そいつはどこへ行ったのです。奥の方の暗闇の中に見張っているのですか」
近よって、縁側に手をついて、一間程奥に坐っている照子の方へ、顔を突き出しながら、セカセカと尋ねた。
「イイエ、誰もいないんです。あたし一人っ切りよ。あたし待ってたわ」
照子は蝋燭の後光の中から、淋しげな冷い顔で、ニッコリともせず答えた。何となくこの世のものではない、もっと別の世界の神々しい女性の様に思われた。
「待ってたわ」という言葉が、力強く、何か妙な意味を含んで発音せられた。それが変てこな、耳慣れぬアクセントだったので、「オヤッ、これは本当に照子さんなのかしら」とギョッとした程であった。
「サア、帰りましょう。早くそこから降りていらっしゃい。僕お宅まで送ってあげますから」
青年がせき立てても、照子は身動きさえしなかった。
「イイエ、あたし今は帰れませんのよ。それよりも、あなたここへお上り遊ばせな。そして、この静かな部屋で、二人っ切りで、ゆっくりお話ししましょうよ」
どうも変だ。照子さんは悪者の為にひどい目にあって、気が違ってしまったのではあるまいか。鳥井はふとそんなことを考えると、ションボリと淋し相にしている恋人がいじらしくて、涙がこぼれ相になった。
彼は動こうともせぬ照子を抱き起す為に、靴を脱いで縁側を上った。
照子は写真で見た通りの高島田に結って、それが少しくずれて、ほつれ毛が額に垂れていた。気がつくと、着ているのは派手な赤い模様の長襦袢一枚で、その胸がはだかって、真白な肌があらわになっているのが、何とも云えぬ物凄い艶かしさであった。
鳥井青年が、少しためらったあとで、照子の柔い肩に手をかけるのを合図の様に、縁側の蝋燭が消えた。たった一つの光線が失せると、あとは墨を流した様な真の闇であった。
「アアいけない。火を消してしまった。僕マッチ持ってますから、今つけます」
慌ててマッチを探ろうとする手を、生温い女の手がギュッと握った。
「イイエ、いいのよ。蝋燭なんかない方がいいわ。ね、鳥井さん、分らなくって。その蝋燭はあたしが吹き消したのよ」
その声と一緒に、柔いフカフカしたものが、蛇の様に青年の身体にまきついて、身動きも出来なくなってしまった。相手の熱い呼吸が頬の産毛をそよがせた。
青年は、あぶら汗にまみれながら、ズルズルと悪夢の中に引ずり込まれて行った。何となく気違いめいて不気味に耐えなかったが、無論抵抗する気持はないのだ。
「ホホホホ、鳥井さん。分って? この意味が」
やっとしてから、闇の中に、ほがらかな笑い声が響いた。
「ア、その声は? あなたは誰です。照子さんではないのですか」
グッタリと倒れていた鳥井青年が、愕然として闇の中に目をみはった。することも、云うことも、照子とは思えなかった。それにあのまるで違った声。照子は全く気が違ったのか。でなければ、さい前からの闇の中の軟体動物は照子ではなく、誰か別の女だったのか。
「イイエ、照子よ。あなたの許嫁の照子よ。ホホホホ」
闇の中の声が又笑った。やっぱり照子の声だ。
「あたしね、いっそ、あなたを殺してしまい度いと思うわ」
その声と同時に、柔い蛇がスルスルと青年の首に巻きついて来た。
「およしなさい。サア、もう帰りましょう。お父さんやお母さんが、死ぬ程心配していらっしゃるのです」
と云いかけたその最後の言葉は完全に発音出来なかった。まきついた蛇が、段々力を加えて、息を止めてしまったからだ。
「ウ、ウ、いけない。何を何をするんです。気が違ったのか……」
青年はか弱い女の腕を払い兼ねて、七転八倒した。
「ホホホホホホ、どうもしないの。あなたを絞め殺すのよ。分って? 鳥井さん」
又まるで違う声になった。
青年は、充血してガンガン鳴っている耳で、それを聞いた。そして、たちまちあることを悟ると、突然網の上の魚の様に、死にもの狂にピチピチとはね廻った。
「知っている……知っている……き、貴様だ。……悪魔……悪魔」
もがきながら、断末魔の悲鳴が青年の口をほとばしった。彼は闇の中の女が、照子ではなくて、ある驚くべき婦人であったことを、今わの際にハッキリと知り得たのである。